ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




中野衣料品店。墨田区京島2-23。2013(平成25)年4月11日

キラキラ橘商店街だが曳舟たから通りの南側。たから通りの南の旧道との角にあるのが「中野衣料品店」。だいぶ以前に閉店してしまったようだ。古い二軒長屋を看板建築にした建物だが、看板建築に改装したのは戦後のことだろう。看板には「シャツ/作業着/ジャンバー」とある。jumperだから「ジャンパー」のはずだが、ジャンバーという人も多いのだろう。どちらにしても最近はあまり聞かない。



松本雑貨店、小山園。京島2-23。2016(平成28)年6月12日

中野衣料品店の隣は「小山園(小山茶店)」と「松本雑貨店」。この2店は正面が異なるが二軒長屋である。看板は「松本履物店」だが、今は荒物屋で鍋や箒を売っている。街路灯は2015年に新しくなったLED街路灯。

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上:辰巳不動産、タカラ文具菓子店
左:武田印舗、飯田理容
京島2-24。2016(平成28)年6月12日

京島の「キラキラ橘商店街」はよくテレビでも紹介され、昭和の街並みを残すレトロ商店街としても有名である。とはいえ、やはり廃れ気味でかつての勢いを喪失しているのは多くの商店街と同様だ。この商店街はとにかく長い。北の明治通りからは曳舟たから通りまで350m。商店街はたから通りを渡ってまだ続き、東武亀戸線の踏切まで全長470m。
たから通りから南の商店街は、わりと最近まで戦前から建つ商店がけっこう残っていたと思われるが、最近はそれが住宅やアパートに替わってきている。
2枚目写真がたから通りの南の旧道の辺りからたから通りの方を見た街並み。今は外灯が替えられている。手前から「北山米店、豊誠堂 武田印舗、飯田理容」。この3店は三軒長屋が建て替わったものらしい。1968年の住宅地図では「清水商店、武田、モリヤ靴店」。
その右が1枚目写真の洋風看板建築の二軒長屋。「タカラ」は子供相手の駄菓子屋のようだ。二階の壁にかすかに残っている字は「米店」?

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四軒長屋。墨田区京島2-20。2004(平成16)年1月24日

曳舟たから通りの、キラキラ橘商店街との交差点からすぐ東にある洋風の看板建築にした四軒長屋。店は左から「㈱エイユー、千代田不動産、お茶処 いいやま、住居」。「エイユー」は以前は八百屋だか果物屋(大川青果)だった。



阿部建築設計事務所。京島2-20。2013(平成25)年2月10日

1枚目写真の右奥から撮ったもの。写真右の店は廃業しているが、1枚目の写真では「居酒屋 英花」。今は取り壊されて空地。
出桁造りの家は「阿部建築設計事務所」。ベランダの右が前に出ているのは、家の正面と通りとの間の三角になる敷地を埋めているからだ。四軒長屋も左に狭くなっていく三角形状の平面である。二階の軒下を漆喰の壁にしているのが珍しいかもしれない。



サイキ自転車店、スターワン。京島2-20。2013(平成25)年4月11日

1枚目写真から左へすぐのところで、写真左のビルはキラキラ橘商店街との角にある。三軒長屋のようだが、古い航空写真では左右へ伸びた五軒長屋だったように見える。1985年の住宅地図では右から「小松原ホーニング(写真では駐車場)、六谷青果店、中野商店(現・スターワン)、斉木自転車店、イロハ薬局」。

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桃林堂上野店。台東区上野桜木1-5。2007(平成19)年3月2日

言問通りの上野桜木交差点から南へ、芸大の間を抜けて上野公園へ向かう細い横丁がある。その横丁を出た角にあるのが「桃林堂上野店」という和菓子屋。本店は大阪で、創業は昭和元年という。上野店も同時に開業したらしい。商品はごく上品な菓子のようで、上野桜木のお屋敷でのお茶会なんかで出される感じだろうか。店内に喫茶室もあるが、おじさんはまず関わらない方がいいと思う。
建物は、『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)に「桃林堂、種類=店舗、構造=木造2階建 切妻造 桟瓦葺、建築年=昭和元年」とある。
店の角に柳の木がある。写真ではまだ芽生えたばかりだが、やがて店の玄関の前に枝を垂らすことになる。建物に風情を加えていた木だが、今は後ろの木と共に切られてしまった。車の通行の邪魔になっていたのかもしれない。



民家。上野桜木1-12.2009(平成21)年3月2日

言問通りの「藤屋豆腐店」の裏にある庭のある住宅。2014年6月に「桜緑荘OENSO」という施設になった。そのHPによると、大正期の建物らしい。最初は藤屋豆腐店の持ち家だったのを昭和初年頃に長野県出身の代議士が買い取り、その後、親族に住み継がれてきた。6年間空家になってしまっていたのを、二人の学生が家主と地元NPOと折衝して家を活用できるようにリノベーションした、ということだ。今は写真のブロック塀は生垣に直されている。

下の写真は、やはり藤屋豆腐店の横を入ったところにあった住宅。庭木を囲むように増築したらしい。現在は3階建ての集合住宅に建て替わっている。


逆井会計事務所。上野桜木1-3。1990(平成2)年2月18日

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久保島邸。台東区上野桜木1-14。2007(平成19)年3月2日

言問通りの谷中霊園の入り口辺りの裏手にあった洋館付きの住居。現在は建て直されてしまった。
『日本近代建築総覧』に「久保島一宅、上野桜木1-14-23、建築年=昭和8年、構造=木造2階建、地下付」で載っている。洋館部分は、1階は応接間、2階は書斎なのだろう。母屋とは独立した構造のように見えるが、洋館の裏側は母屋とくっついていて、日本家屋の一部を洋風に造ったようでもある。総2階建て切妻屋根の単純な外観だが、緑がかった色のタイルを全面に貼り、窓などの壁の縁を茶色のタイルで縁取っていてなかなか立派な造りだ。

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吉田花店。台東区上野桜木1-14。1990(平成2)年2月18日

言問い通り谷中霊園入口の向かい側にある花屋。墓参りに来る人を相手の商売だろう。ネット検索では出てこないので廃業したのかもしれない。建物は残っている。
『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)では「吉田花店、店舗、木造2階建 切妻造 桟瓦葺、建築年=大正」。現在は、引き戸と飾窓の木の枠がサッシに替えられている。



おせん。上野桜木1-14。2005(平成17)年3月31日

吉田花店から東へ、寛永寺陸橋に寄った方にあったおでんの居酒屋。この店を紹介したサイトは多い。『出没!アド街ック天国>上野桜木(2003.11.01放送)』によると、「開業したのは昭和33年、女将の「おせいさん」生駒久江さんは80歳」。女将が高齢のため2009年に閉店したという。当時86歳になる計算だが、そんな歳まで働けたとは羨ましい。
1986年の住宅地図では「おせん茶屋」となっている。そんな看板を掲げていたのだろうか? 手毬歌で知られる「おせんの茶屋」からの店名としてもおかしくはない。『昭和からの贈りもの>4-6.言問通 いまむかし1』に、おせんの横の路地の向かいが「養寿院」という寺で、「笠森稲荷」の本尊が祀られているという。笠森稲荷といえば「お仙」である。
しかし、単純に考えれば女将のご主人の名前(芸名)の「小仙」からの命名のように思う。今も家の正面右のドアの横に「太神楽曲藝/十二代目家元○鏡味小仙」という看板がかかっている。太神楽(だいかぐら)曲芸とはぼくは初めて聞くが、獅子舞や傘回しなどの曲芸のことらしい。つまり元々は江戸神楽の師匠の住居だった家である。
『東京都の近代和風建築』では「おでんやおせん(生駒邸)、一般住宅、木造2階建 寄棟造 桟瓦葺」としている。昭和22年の航空写真では木が写っているだけで墓地のようである。戦後に建てられた家だ。

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アニリンクリーニング店。台東区上野桜木1-14
左:1988(昭和63)年8月5日、右:2005(平成17)年3月31日

言問通りの谷中霊園入口のすぐ西。写真の家並みの向かいは浄名院、裏は寛永寺幼稚園がある。アニリンの銅板貼り看板建築は、その造りの典型例だ。窓がサッシに替えられ、戸袋の上が破損しているが2階から上のファサードはほぼ建築時のままで残っているようだ。
現在、アニリンは住宅に建て替わり、その左の「信栄商事KK」は1991年にはすでに取り壊されていたが、今は2台分の時間貸し駐車場。

下の写真の交番は1枚目写真の右手の、信号のある三叉路の交差点の角にあった。写真右のスレート屋根は寛永寺幼稚園。1966年の住宅地図では「下谷警察署桜木町巡査派出所」。『台東区近代洋風建築調査報告書 データ編』(東京芸術大学前野研究所編集、平成8年)によれば、RC造で、「人造石洗い出し、石積風意匠に特徴あり」ということだ。いつのまにか取り壊されてしまったが、もったいないことだ。行政の人は住み着いてしまう人を警戒しているのだろう。


桜木町派出所。上野桜木1-14。1988(昭和63)年8月5日

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