ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:キッコーマン東京支店。中央区日本橋小網町4。2004(平成16)年1月1日
右:ウタマロ本舗。1985(昭和60)年4月

昭和30年頃に建てられたキッコーマン東京支店のビル。商標としてのキッコーマンは1927(昭和2)年から使っているが、社名は1964(昭和39)年になって「キッコーマン醤油株式会社」とした。その後1980(昭和55年)に「キッコーマン株式会社」に社名変更している。ビルが建った当時は「野田醤油東京営業所」である。戦前の昭和10年頃の地図では、写真左半分のところに「野田醤油出張所」がある。
写真右の駐車場にはウタマロ本舗(宮井産商)の5階建てのビルがあった。1988年に倒産したようである。
キッコーマンのビルは2011年11月に解体され、跡地は今のところ時間貸しの駐車場。


キッコーマン東京支店。1987(昭和62)年2月1日


上野ビル。日本橋小網町5
2006(平成18)年12月29日

1枚目写真を左へ行った道路の角にあったビル。うすっぺらなビルで、裏側の壁には「帝商株式会社」の字が残っていた。

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塩元売協同組合。中央区日本橋小網町5。1987(昭和62)年2月1日

箱崎川にあった行徳河岸は行徳の塩が陸揚げされたところとして知られている。『日本橋小網町街並み商業史覚書』白石隆、2003年)によると、江戸時代は行徳の塩は地回塩問屋に渡されたが、その問屋は江戸市中に分散していて小網町にはわずかしかなかったという。それでも、塩元売協同組合や東栄塩業は小網町と塩とのかかわりを示しているようである。戦前は「専売局出張所」もあった。
現在、塩元売協同組合は醤油会館(日本橋SOYICビル)へ移ったという。

新大橋通りの東側の小網町は、空襲による茅場町の火事が日本橋川を越えて延焼したということである。ここにある木造家屋は戦後に建てられたもので、古いビルは昭和30年頃の建築だろう。現在では戦後まもなく建てられた古いビルはすべてが建て替えられたか、解体されている。
上の写真手前が塩元売協同組合、並びの奥が東栄塩業。下の写真は1枚目写真の右奥の道路から撮ったもの。2棟とも昭和30年頃の火保図にすでに載っているコンクリート造のビル。キッコーマンの看板が乗っているのは、右奥のマンションの隣のビルだろう。そのビルの裏が日本橋川だ。
現在は2棟とも取り壊されて、小網町4番地全体が駐車場になっている。


東栄塩業。日本橋小網町5。1996(平成8)年5月6日

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根本畳店。中央区日本橋小網町7。1985(昭和60)年頃

新大橋通りの茅場橋の少し北から、北の蠣殻町交差点を見た写真。写真中央が「カズヲスタンド」で、今は屋根の代わりに二階の事務所フロアを増築している。その左の看板建築風長屋は戦前からあるものと思える。「根本畳店」の看板が見えるが、1986年の地図では他に「岡田製本」「岸田商店」などだ。今は「ぺんてるビル」が建っている。



よろい富士食堂。日本橋小網町7。1987(昭和62)年4月5日

1枚目写真の裏側になる鎧橋(よろいばし)の通り。写真左の出光のマークがカズヲスタンドだ。当ブログの「かずさや」の1枚目写真の右に続く場所。よろい富士は昭和30年頃の火保図に「のみやよろいふし」としてすでに載っている。

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茅場橋。中央区日本橋小網町1。1987(昭和62)年4月5日

関東大震災後、復興事業として新大橋通りが通されたときに日本橋川を渡るのに架けられた橋である。『Bridge Watching 』によると、1929(昭和4)年12月の竣工、3径間ゲルバー鋼鈑桁橋という構造。現在、架け替えられた橋は、1992(平成4)年9月の完成で、単純鋼床版箱桁橋という形式。
旧茅場橋の写真はこの1枚しか撮っていない。橋の北東の親柱? 欄干の押さえくらいにしか見えない。どういうわけか現在の橋にはちゃんとした親柱がある。
この橋を都電が通っていた。渋谷駅―浜町中ノ橋の9番で、戦前は鎧橋を通っていいたが、橋の老巧化により昭和23年7月から茅場橋を通るようになった。この路線は昭和43年7月で廃止されたが、浜町中ノ橋―茅場町間はそれ以前に廃止されていたように思う。

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