かづさやの並び。中央区日本橋小網町7。1983(昭和58)年2月
写真左が新大橋通りの蛎殻町交差点で右に行くとすぐ鎧橋。左端にかづさ屋、写真中央の日本家屋はぺんてる株式会社の所有らしくて住宅地図では「ぺんてる別館(旧・駒木銀次郎邸)」、その右の商店は「株式研究」、バス停は小網町にあるのに「蛎殻町」。
かつてこの通りを都電が走っていた。千住四丁目-築地の21番だったが鎧橋の老巧化によって昭和21年5月打ち切られた。当時の鎧橋は1888(明治21)年架橋のトラス式鉄橋で、1915(大正4)年に拡幅されて市電を通すようになった。大震災後、新大橋通りが出来るまでは築地・京橋と蛎殻町・人形町さらに新大橋を結ぶ大幹線だった。昭和23年7月に茅場橋を渡る線路が出来、渋谷駅前-浜町中ノ橋の9番の運行が始まる。
かづさや、ウエダカン東京出張所。1986(昭和61)年4月6日
昭和20年代火保図では上総屋と福室(フクムロ)タバコ店。日本家屋は丹野邸。
写真左のガソリンスタンドは長谷川一夫が経営する、「カズヲスタンド」として知られる。戦前は「吾妻亭」というフランス料理店で、「大正元年地籍図」にも「西洋料理球技吾妻亭」として記載されている。古典籍総合データベースで「東京小網町鎧橋通吾妻亭」(井上探景画明治20年11月)という錦絵が見られる。錦絵に描かれるくらいだから相当有名だったのだろう。
かづさや、旧福室タバコ店。1986(昭和61)年4月6日。継ぎはぎ写真だがもう1枚。
追記:2007.01.30
上総屋四代目御主人、および「ウエダカン」の上田様より、コメントで興味深い情報が寄せられているので、少し書き加えておく。
上総屋の商売は履物屋だった。ウエダカンの建物は岡本屋(福室商店の屋号)という煙草店だったもので「屋」しか読めなかった建物上部の文字が判明した。ウエダカンになる前は志満津百貨店の東京出張所が入っていた。水戸では二大デパートの一つだったが現在は水戸京成百貨店になっているという。ウエダカンは京都の呉服卸の老舗で、元は上田勘商店といった。1999年4月に倒産して150年の歴史を閉じた。ウエダカンの右は写真では飯場のプレハブになっているが、信和工業という活字製造業だった。
吾妻亭は、戦後は「平和生命」になった。その後カズヲスタンドに変わった頃は、上総屋の左には江口歯科医院があった。
バス停の「蛎殻町」は都電が廃止された後、代替バスになった時の名残だという。
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蛎殻町のマンションに住んでいます。
最近の蛎殻町の姿しか知らない私からみると、近代的な建物が出来る前の下町の面影が残る、とても魅力的な町並みだと思います。
コメントありがとうございます。人形町や蛎殻町にあった建物も少しずつアップしていきますので、これからもよろしくお願いします。
ぺんてるの社宅は、もと駒木邸です。その左は信和工業という活字製造業がありましたが、この写真では飯場になっていますから、ここら一帯が取り壊し直前のようです。バス停は都電の代替線なので「蠣殻町」のままです。鎧橋は戦災のため貨物電車以外の都電・自動車は通行止め、人と自転車は端の北沿いの仮橋と鉄橋南側人道部分を通行できました。都電21番はここが始発点になっていましたが、やがて水天宮に変更になり、進駐軍の練兵、盆踊り、芸能会、野外映画、町内運動会などに使われる、かっこうの広場になっていまいした。この通りは鎧橋通り、裏の(今の新大橋通り)は市場通りと呼んでいました。
たばこやさんは、福室(ふくむろ)さん。屋号は岡本屋。この時期にも家主は福室さんですが、「ウエダカン」の前は志満津百貨店の東京出張所で、たばこも販売していました。右は飯場で、空き地なので、写っているのはその奥にある建物。上総屋履物店の隣には江口歯科医院がありました。「吾妻亭」は戦後は「平和生命」となり、KazuoStand は最初は平和生命の跡地だけでしたが、江口家が去ってから現在の形に拡張しました。長谷川一夫は開店の日に一度来ただけのようです。「カズヲスタンド」は正式店名でした。
早速、ブログ本文の次の箇所を訂正しました。
・“福宮タバコ店”を“福室(フクムロ)タバコ店”に
・“通称「カズヲスタンド」”の「通称」を削除
「福宮」は『中央区沿革図集』の「火保図」からのものですが、火保図の誤記でしょう。
ご存知かもしれませんが、上総屋と岡本屋は藤森輝信(東大助教授・建築史)が気にしていた建物で、『建築探偵日記―東京物語』(1993年、王国社刊)に「消えた上総屋」という1章を書いています。その中で、建物上部の「タ」の由来を気にしていました。
ウエダカンの前の志満津百貨店は茨城県水戸市のデパート。当時の水戸市での2大デパートの1つ。今は京成しまずになっています。
申しわけありません。
ウエダカンおよび志満津百貨店についての情報をありがとうございます。京都の呉服卸の老舗だったとは思いもよらず、驚きました。上総屋様のコメントと合わせて、本文に「追記」として反映させました。
売り場は填め込まれていただけで、ウエダカンさんになって「草煙」の字が出て来たのにはびっくりしました。最近見つかった1940年頃の「サヤヅカ」(右から読んでください)の写真では、ここが陳列になっています(もっともガラスにポスターが貼ってありますが)。1階庇の上には「こばた」の看板。店の作りは普通の商家と同じで、店の人は畳みに座って客を迎えます。
たばこやは公社の委託を受けるので、それなりにステータスがあり、それゆえ逓信から切手・葉書の販売委託を受けることが多いので、たばこやの近くにはポストがあることが多いのです。戦前の写真にはポストが写っていますが、戦後は撤収されていました。1度復活しましたが、たばこやとともに無くなったようです。
岡本屋と上総屋は同じ棟梁の作です。金をかけた分上総屋の方が長持ちして崩れが少なかったようですが、築15年の頃、隣の洋風の江口歯科医院と3軒並んで調和がとれています。
裏手の市場通り(新大橋通り)を隔てた小網町6の角に今も健在の喫茶室の桜井さんもたばこやです。ブロックが隣り合っているのは、市場通りが震災後の区画整理で作られた道路だからです。市場通りは次の災厄の時1km程延ばして清杉通りにつなぐ計画だったようですが、さすがに国力の疲弊した戦災時には実行できなかったようです。
岡本屋の建物も銅板張りの建物としては上質の部類だと思いますが、上総屋のほうはもう一段上ですね。上部の唐破風の軒と千鳥格子(あるいは網目?)の壁面もですが、「店物履屋総上」の字を銅板でレリーフにした看板も手が込んでいます。
登録商標
敷島香
京廣香
養老香
特約店 駒木銀三郎
製造元大阪柴田商店
登録商標
衛生消毒箸
特約店 駒木商店
2つの木製看板が(70x70x厚さ2センチ位)出てきました。
ご家族に戻したいのですが連絡先がわかりません。
何か情報がありましたら、教えて戴きたくお手紙しました。
よろしく、お願いいたします。
駒木商店ですが、「古今・お江戸日本橋」というサイトの「日本橋“町”物語>日本橋小網町」のページにある「天保元年(1830)創業の荒物雑貨の駒木商店」のようですね。
「駒木商店+小網町」の検索にかかるような記事を新たに作成し、mamoru様のコメントに誘導するようにしました。閲覧者数の少ない当ブログでは、駒木商店の関係者が気づくとも思えませんが、そのくらいのことしかできません。
昔の事をもっと調べていきたい気がします。
2段目の『日本家屋は駒木銀次郎邸』を『日本家屋は丹野邸』と訂正しました。
KZS様のコメントに指摘があったのですが、今まで直していませんでした。
なお訂正1件、サクライさんは岡本屋さんから煙草販売権を譲り受けたとのことです。
新大橋通りのサクライは今も喫茶店とタバコ屋として続いていますね。旧店舗の写真を撮っていなかったのが悔やまれます。