ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



グルメシティ東向島店。墨田区墨田3-6。2009(平成21)年3月29日

写真のスーパーマーケットは「玉の井いろは通り」にあった。わりと最近の写真だから今もそのままと思っていたが、2013年11月に取り壊されて、今はマンションに建て替わったらしい。グルメシティは東向島駅の向かいに移った。
いろは通りの建物は、以前は「玉の井映画劇場」だったが、元々は昭和の初め頃に建てられた「玉の井館」という寄席が戦火を免れて、スーパーとして使われてきたものである。『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、2010年、2800円)によると、昭和一桁の時代に「玉の井館」という寄席が建てられた。東京大空襲からの焼失を奇跡的に免れ、戦後すぐはゴム工場になったが、昭和22年に建物は転売されて映画館として再出発する。東映のチャンバラ映画を中心に上映したようである。映画館が斜陽になると、建物は再度転売されてスーパーマーケットになる。その年代は不明で、当書は昭和37~45年としている。1987年の地図では「青楓チェーン玉ノ井店」である。
『東京文学画帳』(小針美男、創林社、1978年、1600円)に「町の映画館(玉の井文映)」のペン画が載っている。「昭和34年5月18日」の日付で、建物の前の広場の右前に切符売り場の小屋がある。映画館の名前は「玉の井文映」としている。ネット上でもこの名前でいくつかのサイトを見受ける。
ぼくは玉の井周辺は空襲ですべて焼き払われたと思っていたから、映画館だった建物が昭和の初めに建てられたものだったと知って驚いている。Goo古地図の昭和22年の航空写真には確かに写っている。その北西に少し黒っぽく写っている家々も焼け残ったのだろう。


グルメシティ東向島店の裏側。2013(平成25)年4月5日

『玉の井 色街の社会と暮らし』の記述によれば、永井荷風も当時「玉の井館」だった写真の建物を見ていることになる。「寺じまの記」(昭和11年)は、浅草雷門からバスに乗って玉の井に出かけ、一軒のカフェーに上り込んで女と話をしてくる顛末を書いている。
荷風が乗ったバスは墨堤通りから大正通りに出て東武電車の踏切を超えると「劇場(向島劇場、活動小屋)前」で、荷風は次の「玉の井車庫前」で降りる。現在は東武電車のガードをくぐるといろは通りに変わる。荷風は車から降りて先の商店街を観察し、左側の玉の井館という寄席を見る。「その隣に常夜燈と書いた灯りを両側に立て連ね、斜めに路地の奥深く、南妙法蓮華経の赤い提灯をつるした堂と、満願稲荷とかいた祠があって…」と書いた日蓮宗啓運閣と祠は今も同じ位置にある。荷風は向かいの車庫のはずれに「ぬけられます」と横に書いた灯りを見てその下を潜っていく。

追記(2015.09.30、2022.09.01訂正)
いつも貴重な情報を提供していただいているキューピーさんから、寄席の玉の井館と戦後に映画館になってからの変遷について、以下のように教えていただいた。
寄席の玉の井館は、大正12年頃の東京市にあった興業所のリストにすでに載っている。
戦後、「玉の井映画劇場」の開館が昭和24年の大晦日。それが倒産して昭和26年には「玉の井文化劇場」に。それが後に東映のチェーンに入って「玉の井東映」。昭和41年に閉館した。それを近所で柔道場を開いていた青山という人が買収してスーパーを始めた。その「スーパー青楓」は後にダイエーに買収されて、いつからか店名も「グルメシティ」になった。


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