ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





村山邸。文京区根津1-21
上:1988(昭和63)年11月3日
左:1989(平成1)年4月29日

写真は根津神社の南側を本郷台(向ヶ丘)へ上がっていく新坂(権現坂、S坂)。この辺りの標高は不忍通りで5.5m、坂上の日本聖公会のところが20.0mなので、坂自体の標高差は10mくらいだろう。坂の中途に洋風の古い家があった。ストリートビューを見たらなくなって更地になっている。わりと最近取り壊されたようだ。家の右に看板建築風の四角い外観の店舗のような建物がついている。それが1974年の住宅地図で「松栄製作所」らしい。洋館の家の仕事場なのか貸家だったのだろう。『日本近代建築総覧』に載っているので当記事でも個人名を出しているが、その内容は「村山勝栄邸、文京区弥生1-21-1、構造=木造2階建」だけ。
ストリートビューでは家が取り壊されて家の裏側が見える。敷地の奥は東京大学の野球場で高い金網で仕切られている。その手前は村山邸の敷地だろう。そこにコンクリートの護岸のようなものが見える。コンクリートは煉瓦壁の上から塗られたように見え、横穴でもあるらしく四角い入口が造られている。これはいったい……?

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日本医科大学付属病院根津寮。文京区根津1-25。2002(平成14)年4月28日

不忍通りの根津神社入口交差点から根津神社へ向かうと根津神社の手前に日本医科大学大学院のビルがある。写真はその日本医科大学大学院(2007年11月竣工)が建つ前にあった日本医科大学付属病院の寮。1974年の住宅地図で、南北に長い形の建物として描かれているから1972年頃に建ったものかと思う。
大学院の手前に北へ入る路地があるが、下の写真はそこを入ったところ。路地は奥で右へ曲がって不忍通りに通じている。手前の家は入母屋屋根の木造アパート。奥は一戸建ての住居で、二階がスクラッチタイルを貼った壁の洋風な造りにしている。



上:富田アパート。根津1-25
2008(平成20)年9月10日
左:スクラッチタイル壁の家
2007(平成19)年10月18日

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千駄木二丁目交差点。文京区根津1-27。1987(昭和62)年4月18日

不忍通りと根津神社の裏門坂を下ってくる通りとの交差点が千駄木二丁目交差点。写真は交差点から見た根津一丁目の家並み。30年近くも前の光景だが、写っている建物は今もほとんど変化していない。街灯は今は新しいものが立っている。
交差点角のモルタル塗の看板建築はヤナヰ(柳井)商店という果物店。ネット検索では出てこないので、閉店したかと思う。その右の看板建築の家はその看板建築にした造作を取り払った状態で残っている。建物上部の看板は字がほとんど消えているが「リズムミシン/富士……株式会社」だろうか。


ヤナヰ果物店。1989(平成1)年2月26日

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そば処寿庵。神奈川県小田原市栄町2-1。1992(平成4年)3月28日

JR小田原駅前といっていいところにある蕎麦屋。間口の大きい古い日本家屋は、少なくとも駅前の大通りには他になく、建物だけで集客力がありそうだ。写真は20年も前のものだが、そのたたずまいは今も変わらない。二階に張り出している看板が見られない、といった細かい変化はあるかもしれない。隣の四角い白い家も寿庵のものになるのだろうか? 今は蔵造り風に正面を改装している。

駅から寿庵の前を東へいく通りが錦通りで、飲食店街といっていい。チェーン店が何軒かある。観光客で小田原でも最も賑わっているところだ。ゆるいS字形にカーブして小田原銀座通りに出る。下左写真の伊勢屋海苔店は銀座通りに出る錦通り出口交差点の少し手前にある。小売店だとは思うが飲食店向けの店といった感じだ。看板の左に「安」の字がある。鍵形の部分がなくなっているのだとすると、兼安だか金安のマークだろうか。
伊勢屋の前に「栄通り商店街」の標示がある街灯が並ぶ横丁が入っている。下右写真の家はそこを入ってすぐのところ。スナック美音と曽我商店が入っている。


左:伊勢屋海苔店。栄町2-9。右:美音、曽我商店。栄町2-10。2014(平成26)年6月10日

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倭紙茶舗江嶋。神奈川県小田原市栄町2-13。2011(平成23)年11月24日

小田原銀座商店街の銀座通り交差点から北は国道255号と重なる。この国道255号は甲州道の街道であり、城下町だか小田原宿に入る手前の鍵の手に曲がる角が銀座通り交差点ということらしい。今はこの交差点から北が栄町二丁目、南が栄町一丁目ということだが、昔は北が須藤町(すとうちょう)、南が緑新道で、別の町であり、商店街の組織も別だった。それが戦時体制で1936年に統合され、それが今まで続いている。「小田原銀座商店会」の名称になったのは1955年。「銀座」の俗称は戦前から須藤町の商店街に対して言われていたらしい。(『「銀座」百年―生きられた「中心市街地」―』)
江嶋は寛文元年(1661年)創業というとんでもない老舗だ。茶と海苔に和紙を扱う店舗は創業350年というにふさわしく、大きい間口の出桁造り。関東大震災で崩壊したのを1928(昭和3)年に建て直したものという。



左:三橋仏具店、栄町2-9。右:つくし薬局、栄町2-13。2011(平成23)年11月24日

栄町二丁目の銀座通り商店街は一丁目と比べるとビル化が進んでいて一丁目にはあった長屋式の建物も目にしない。また最近、電線地中化の前段階の工事でアーケードが取り払われた。戦前の建物としては江嶋の他にはその向かいにある三橋仏具店のやはり出桁造りの家くらいだ。
つくし薬局は錦通り出口交差点のすぐ北の四つ角。戦後の建築かもしれないが昭和モダンの雰囲気がする。写真右にアーケードとそこから吊るされた「ショッピングストリート小田原銀座通り」の標示板があるが、今は撤去された。

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