ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





上:レンガ塀。文京区千駄木2-18
1989(平成1)年5月5日
左:民家。千駄木2-10
1989(平成1)年2月26日

根津裏門坂の日本医科大学付属病院の渡り廊下をくぐって北へ、団子坂の通りに出る細い道路を「藪下通り」という。本郷台地の、藍染川の谷を望む中腹を南北に、動坂まで通じている古道である。今は団子坂から北は、一般には「本郷保健所通り」という。上の写真は藪下通りの真ん中あたりの三叉路。左の石垣と階段は屋敷のものだが、現在はそこに住宅が新たに建てられて様子が変わってしまった。レンガ塀の屋敷も家は建て替えたらしく、角の門は改修されている。レンガ塀そのものは残っていて、庭木も極力残すようにしているらしいから、写真から少し奥へ行くと石垣も残っていて、名所といっていい場所だ。
三叉路を右に下っていくと、レンガ塀の並びに「パークハイム千駄木」(1987年6月築、5階建て24戸)というマンションがある。『日本近代建築総覧』に「秋春雄邸、千駄木2-18-5、建築年=大正2年、木造2階建て、設計=平林金吾(東京市技師)、施工=出入りの大工、擬洋風建築、内部も変更なし、旧阿部豊後守下屋敷跡地」で載っている家があったところだ。マンションの向かいには「ケヤキハイツ」(1983年3月築)という2階建てのアパートがある。やはり『総覧』にある「牧内治郎蔵邸、千駄木2-10-8、建築年=昭和6年、木造2階建て、施工=泊忠兵衛」の家があったところ。
「民家」とした写真は、三叉路からすぐ南のところで、割と新しく見える家は現存していたので、なんとか場所が特定できた。

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東京ピアノ商会。文京区千駄木2-7
2012(平成24)年4月16日

不忍通りの千駄木二丁目の交差点のすぐ北にみずほ銀行根津支店がある。写真の廃屋はその裏にあるが、ストリートビューを見ると、門をふさいだベニヤ板にマンション建設の告知板が出ているから、今頃は取り壊されたかもしれない。1974年の住宅地図に「合資会社東京ピアノ商会」とある家。母屋は二階建ての日本家屋のようで、その横の前面に平屋の洋風の店舗だか事務所だかがくっついている。
この廃屋から左へ行った1軒先に『日本近代建築総覧』に「田村清一邸、千駄木2-7-13、木造2階建、いわゆる看板建築」で載っている建物があったはずだ。

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尾張屋商店。文京区千駄木2-2。1989(平成1)年2月26日

当ブログ前回の写真に続く家並み。根津裏門坂の不忍通りに近い辺りだ。銅板貼りの看板建築と出桁造りの商家が並んでいる。橋本畳店は建て替わって新しい店舗になっている。出桁造りの尾張屋商店は1974年の住宅地図では「尾張屋米店」。
銅板貼りの家は店名などの看板がないが、張り紙は「ファッションバッグ新春特価セール/ホースヘアー売出し中/製品販売」である。ホースヘアーとは馬の毛を素材に使っているバッグのことらしい。ということは、この店は主にハンドバッグを製作している工房で、小売もするのではないかと推測できる。2月の末になって新春特価セールでもないと思うが、下の写真でも「母の日プレゼントに……」という同様の張り紙を出しているから撮影時は営業していたと分かる。
現在は古い店舗の二軒は、それぞれが小さなビルに建て替わっている。



1990(平成2)年5月6日

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弥生調剤薬局。文京区千駄木2-1。1990(平成2)年5月6日

不忍通りの千駄木二丁目交差点から根津裏門坂の方へ入ったところ。下の写真が現状で、路地との角の古い二階建ての看板建築の家と3階建ての家は残っている。その左にあった3軒の商家がなくなって駐車場になっている。弥生調剤薬局の三階建ての家は、下の写真では壁がタイル貼りで、小さなビルのようにも見えるが、上の写真ではモルタル塗のようである。屋根は寄棟なので3階の前面の庇や3階横のアーチの庇からも古い看板建築なのではないかと思う。1974年の地図では右の家は「田村時計店」。弥生薬局は「東光堂カメラ」。



近影。2012(平成24)年4月16日

弥生調剤薬局だった家は、テントには「Chez Claire」の字が読めるがなんの商売だったか知らない。今は袖看板が外されて廃業したようだ。その店が入る時の改装かもしれないが、1・2階の壁がタイル張りに替わっている。

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松竹会館。中央区築地1-13。1985(昭和60)年9月8日(下も)

晴海通りの万年橋のたもとにあった映画館を入れた松竹の本社ビル。1956(昭和31)年の完成で、9月14日の落成らしい。それ以前は、昭和25年頃の火保図では、敷地の一角に「築地映画劇場」があり、他にはテニスコート、ガレージ、通り沿いに小さな飲食店が主の商店、といったまとまりのない場所だったようだ。それを松竹が買収して再開発したのだろうか。
1963(昭和38)年6月に6階に「松竹ボーリング場」ができた。その数年後だが、ぼくもボーリングを覚えてそこで遊んだ。
松竹会館の向かいの東劇にしても住所は築地だが、銀座から1歩出ただけなので、ここで映画を見るということは、一般には、銀座で映画を見るという感覚だったと思う。写真では「松竹セントラル、銀座松竹、松竹シネサロン」の3館が興行中。映画館が全盛だった頃の1970年の地図には「松竹セントラル、銀座松竹劇場、銀座東宝劇場、銀座名画座」で載っている。建物が取り壊される1999年では「松竹セントラル1、2、3」の名称だった。 『雫写真事務所>懐かしの写真館』というブログの1981年6月撮影の写真には「ロキシー」の名前が見える。
松竹セントラルは1156席の洋画のロードショー館だった。『Showa Style―再編・建築写真文庫』(彰国社、2009年、5,000円)の写真(原本は1956年発行の『建築写真文庫』)では「松竹セントラル劇場」の他に、「松竹中央劇場」の看板で、岸恵子が主演している『忘れえぬ慕情』がかかっている。『モザイク工房/ミスズアート>岡本太郎「青春」』に、岡本太郎が制作した「青春」というモザイクタイル壁画があったことが、アトリエでの制作中の写真とともに書かれている。



銀座松竹では『男はつらいよ―寅次郎恋愛塾』、シネサロンでは「クレージーキャッツから30年記念フェア」をやっている。ぼくは映画を熱心に観るほうではなかったし、洋画のほうを多く観たのだが、『ニッポン無責任時代』をここで(当時「銀座東宝」といっていたと思う)観た。ぼくのなかでは東宝の喜劇は二本立ての付録のようなものだったから、馬鹿にして観ていたのだが、けっこうおもしろくて「これは傑作ではないか」と再認識した。とはいっても、後のクレージーの映画は観に行っていないのだが。

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左:三共電気工業。中央区築地1-4
1987(昭和62)年10月4日
上:料亭なか川。築地1-10
2001(平成12)年2月2日

三共電気工業は宮川鶏肉店の交差点から亀井橋のほうへ行った数軒先にあった。木造4階建ての建物ということで割と有名な建物だった。建築当時、建築許可をどこで出すのか知らないが木造で4階建てが許可されたとは思えない。無許可で建ててしまったか、法整備がされる前に建ててしまったのだろう。昭和10年頃の地図では「床ヤ」、昭和25年頃では「築地米販売所」である。同じ昭和25年の地図には、左のビル(中村屋)が「中村屋すし」で、右隣の「きくや花店」、右のビルの「長寿庵」がすでに載っている。
今は建て直されたが、なぜか3階建てのビルである。

料亭なか川は電通本社ビル(現・電通テック)の裏手にあった。見たところ、戦後の建築のような気がするが、古い料亭の建物の外壁をモルタル塗に改装したのかもしれない。



築地警察署。築地1-6。1987(昭和62)年10月4日

亀井橋たもとの築地警察署の旧庁舎。写真の建物の以前は、大正15年に建った2階建てのビルで、東京大空襲では被災しなかったので戦後も昭和40年まで使われた。小林多喜二が特高に連行されたのはその建物なのだろう。 『昭和毎日』で、池田信撮影の写真がみられる。写真の庁舎は昭和41年1月15日から使い始めた庁舎。昭和48年に5階を増築している。現在の庁舎は平成5年8月に完成したもの。

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