ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




達寿司。墨田区向島5-48。1989(平成1)年6月25日

鳩の街通り商店街は、水戸街道から墨堤通りまで、ほぼ南北に通っている。写真は、どちらかというと裏側になる墨堤通り側の商店街の入り口で、古いゲートが記録されている。
写っている建物は今も変わらないが、達寿司の表面はルーパーなどで改装されて高級感を出している。美容室のサロンドゆき、写ってはいないがその隣のスナック「スタート」も、今でも営業中だ。



左:池田屋、2004(平成16)年1月24日。右: 理容柳澤、2009(平成21)年3月29日

左写真は松の湯の向かい辺り。少し奥に、右写真の理容柳澤も写っている。池田屋は呉服店かと思うが、現在は「染の池田屋」の看板が外されて、外壁はグレーに塗り直された。
ガラス戸に「柳澤」の文字が入っている家は、正面をほぼガラス張りにしている造りで、床屋だったかと推測がつく。窓の下はタイル張りの壁、2階の壁は銅板張りだ。店の前にベンチと灰皿を置いてある。隣のこいずみ(小泉)菓子店で大福もちなどを買って、ベンチに座って食べていく人がいるのかもしれない。現在は、ガラス戸と窓の枠が濃い緑色に塗り替えられている。

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旧東京ビル。千代田区丸の内2-7。1985(昭和60)年11月10日

どうもひどい写真を出してしまったが、旧東京ビルの写真はこの1枚しか撮っていない。解体工事でも始まるかと、あわてて撮ったものかと思う。実際はこの後18年間存続したのだが、なぜか撮りなおしていない。当時の地図には主なテナントとして「東京証券本店、南都銀行東京支店、博報堂、三京カラー、日本航空、白洋舎」の記載がある。
『ウィキペディア<東京ビルディング』によると、ビルの土地は、「旧東京市との交換で三菱財閥が所有していたものを、大倉土木(現・大成建設)に譲渡していた」。戦後、「丸の内オフィス街の一元開発と戦後の企業分割で少なくなった賃貸物件を確保したかった三菱地所と、戦後経済による不況で受注建築物件を増やしたかった大成建設との間で交渉がまとまり、三菱が土地を買い戻し、大成建設ほかの施行で建設に至った」ということである。
着工は1950(昭和25)年6月28日(ぼくが小学校に上がった年だ)、1951(昭和26)年9月22日に南側の半分が竣工、全部が完成したのが1955(昭和30)年3月31日。現在の新しい東京ビルが竣工したのは2005(平成17)年10月17日。
このビルには3か所(2か所は西側が開いている)の明り取りの中庭がとられている。まだ戦前の慣習が残っていた感じがするが、当時の電力事情もあったのかもしれない。

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第一鉄鋼ビル。千代田区丸の内1-8。2005(平成17)年12月17日

第一・第二鉄鋼ビルはすでに解体が終わって、4月24日には新鉄鋼ビルの起工式が行われたそうだ。このビルが建っている場所は江戸城の外堀になる。戦後、周囲の瓦礫を放り込んで埋め立てたのが1948(昭和23)で、第一鉄鋼ビルは1949(昭和24)年11月に起工、1951(S26)年7月 に竣工した。戦後初の本格的な高層ビルと言われた。周囲はまだ焼け跡が目立っていたらしい。1954年には第二鉄鋼ビル、国際観光会館、鉄道会館(大丸デパート)といった東京駅八重洲口の主要なビルが完成する。今、そのままで残っているビルはない。
第一鉄鋼ビルは完成後2度の増築工事があった。1969(昭和44)年1月に西側にフロアを広げ、1969(昭和44)年1月に9階部分を増築している。
ビルを運営管理している『株式会社鉄鋼ビルディング』は、広島県呉市を本拠とする建設会社の『増岡組』の同族会社で、鉄鋼ビルを建設・運営するために設立されたものだろう。おそらく鉄鋼ビルの土地も取得していると思う。どういう経緯があったのか気になる。創業者は吉田茂や池田勇人と付き合いがあったようだが、なにか関係があるだろうか。




上:1986(昭和61)年1月
左:1986(昭和61)年6月22日

ビルの名称に「鉄鋼」とあるからには、最初からそういった関係の会社が入居を予定していたのだろうか、とネットで調べてみた。『東京駅周辺』に、「元々、このビルには八幡製鉄の本社や鉄鋼関連の諸団体などが多数入居しておりました。その後、八幡製鉄と富士製鉄の合併による新日本製鉄の誕生により、すぐ近くの新日本製鐵ビルに移りました。……神戸製鋼の東京本社(2枚目の写真に看板が出ている)は、このビルの2階-4階と6階の4フロアーを使っていましたので、……」とあった。竣工時は「鉄鋼ビル」の名前にふさわしいものだったのだろう。

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平屋の四軒長屋
墨田区京島3-15
2013(平成25)年2月10日

当ブログ前回の 看板建築の家から南へ少し行った場所にある平屋の長屋。現在は空き家になっているのかもしれない。住居としての長屋であるが、右の家は1985年の住宅地図に「加藤工業所」とあり、この家だけ裏に倉庫にしたらしい小さな小屋を増築している。



左:1953年頃、右1955年頃

1枚目写真の撮影位置から振り返って後ろを見た景観と思われる昔の写真。「キラキラ橘銀座商店街」に出る手前である。出典は『写真集/墨田区の昭和史』(発行:株式会社千秋社、1992年、8,900円)。キャプションはそれぞれ「ドブ川が流れていた京島3-21-3あたり(昭和28年〈1953〉頃)」「暗きょとなり、姿を消したドブ。京島3-21-3あたり(昭和30年〈1955〉頃)」。
ドブ川は、工場や住宅が建つようになって、かつての農業用水路が生活排水路に変わった姿だろう。30年位前なら、墨田区・江東区などの低湿地の地区にはどこにでもあったドブ川だが、今はほとんどが蓋をされてしまったかと思う。写真のドブ川が暗渠化されたのはかなり早い時代だったといえる。
1955年の写真に、店先に看板建築を増築した店があり、看板に「大倉屋」と読める。字が右から書いてあるのは古い看板を前面に掲げたのかもしれない。1985年の地図に「大倉屋商店」(酒屋)が京島3-21-13(キャプションの住所は誤植ではないかと思う)にあるが、今は廃業したのだろうか。
1953年の写真で中央奥に陸屋根と見える白っぽい建物が写っている。映画館の「橘館」(現グルメシティ京島店、旧スーパーダイエー吾嬬店)かもしれない。

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角の看板建築。墨田区京島1-8。2004(平成16)年1月24日(4枚とも)

京成曳舟駅の西側の改札を出たところから東南方向にくねくねと左右に曲がりながら続いている道路がある。この辺りでは割と広い道で、川、あるいは用水路の跡だと言われる昔からある道らしい。写真の家は、その道路が四ツ目通りを横切って京島3丁目に入って少し進んだところ。現在、UR都市機構の施工で5階建て36戸のマンションの工事を進めている場所で、写真の建物は、工事が始まるまでは残っていたようだ。ストリートビューで、並びの長屋とともにまだ見ることができる。
京島には看板建築にした商店長屋はあるが、1戸建ての看板建築は少ない。写真の家は、その珍しい洋風看板建築である。どんな商売をしていたのか判らないが、1985年の住宅地図には「渡部染部」とあり、染色関係だったのかもしれない。写真では「ワタベパーキング」の看板が出ている。建物の背後がその駐車場である。



山田内装店は平屋の五軒長屋の1戸。下の写真が長屋のほぼ全景で、3戸はすでに空き家らしい。




平屋の四軒長屋と接して、二階建て四軒長屋である。右端の家がガラス戸に「伊東プレス」の字を入れている。1985年の住宅地図には「高橋製作所、寺島ゴム工業所、伊東製作所」の記載があって、長屋が家内工業の団地みたいだったのだろうか。
作業着と作業帽に黒い袖カバーのおじさん、カシャンカシャンというプレス機の音、横では手ぬぐいをかぶったおばさんがグラインダーでの面取り。ぼくのイメージは古すぎるかもしれない。今、そういう仕事はどこでだれがやっているのだろう。

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カドヤ洋服店。墨田区京島3-10。2004(平成16)年1月24日

明治通りの京島交差点から四ツ目通りへ入ったところ。下の写真のように斜めに四ツ目通りへ入ってくる道路があり、その角に「カドヤ洋服店」がある。震災復興期の看板建築かと検討がつくだけの貫録が感じられる建物である。それと並んでいる切妻瓦屋根、二階建ての2棟は、古くはなっているが戦後間もなくの時期の建築とも見える。しかし、この辺りは戦災にあっていないので戦前に建った家を改修しながら使っている可能性がある。
下の写真は上の写真から6年後のもの。カドヤの壁の看板が消されている。上写真右のしもた屋がなくなって時間貸駐車場になった。


近影。2010(平成22)年5月6日



みき、津軽。京島3-2。2010(平成22)年5月6日

これも四ツ目通り沿いだが明治通りとの京島交差点からかなり離れた、曳舟たから通りとの京島二交差点の近く。左から、居酒屋みき、田舎料理津軽、中島自転車商会、栄屋肉店。

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平屋の民家。墨田区京島3-13。2013(平成25)年2月10日(3枚とも)

明治通り沿いの 六軒長屋の裏にある民家。京島交差点近くの牛乳屋の横の路地を入るのだが、その細い路地は細かく曲がりくねっていて先が見通せない。道なりに曲がったとたんに、写真の家が現れる。もっとも明治通りからも、長屋を半分取り壊した跡の駐車場の奥を覗いてみれば、容易に見ることができる。京島に残る古い民家として、割と知られているかもしれない。
下の写真は1枚目写真の民家の裏手にある平屋の二軒長屋。塀もあって1戸建て住宅にも見えるが、写真左奥にも玄関があって、2戸分が入る造りだ。左側の家は前の庭に増築して、物干しの柱が外に出てしまっている。


二軒長屋。京島3-13



民家。京島3-12

電気湯の裏手にある平屋の民家。三軒長屋の右の1戸が取り壊されて二軒長屋になったものらしい。取り壊された家の分は、狭い路地を広げ、花壇を造ってベンチや防火用水を置いている。「消防車が入れない狭い路地の中に古い木造家屋が密集する」と言われる京島の状況を改善していこうという取組である。

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ススム防災京島倉庫。墨田区京島3-13。2008(平成20)年12月6日

明治通り沿いに残っている商店長屋。写真右が京島交差点で、その角に建っている、長屋に隣接している家は悪原氷店だった元店舗。長屋の方は、元は六軒長屋だったのが南側の半分が取り壊されて三軒長屋に変わっている。1戸は倉庫に使っているようだが、2戸は空き家のように見えるが、1985年の住宅地図では、「印章再屋、門倉商店」。取り壊された3戸は、「空き屋、手塚工業、北京亭(中華料理)」だったようだ。


長屋の裏側。2013(平成25)年2月10日



六軒長屋。京島3-13。2004(平成16)年1月24日

1枚目の長屋から駐車場を挟んで並んでいる長屋。写真では甲誠金庫店と酒処かずの子が営業しているが、他は空き家のように見える。1枚目写真の長屋も、以前はこんな姿だったのだろう。
1985年の住宅地図では甲誠金庫店が「本宮金庫」、かずの子が「白十字冷蔵庫製作所」となっている他は個人名だ。


長屋の裏側。2013(平成25)年2月10日

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佐野家。港区西新橋1-11。1986(昭和61)年5月18日

外堀通りから横丁を南に入ったところにあった華麗な看板建築。現・新橋中央ビル。『日本近代建築総覧』に「佐野邸、建築年=昭和12年、木造2階建、設計・施工=白井工務店」とある建物。スクラッチタイル張りの壁をベースにして、イスラム的雰囲気がなくもない4連アーチの窓と、その間の柱。中央部の垂直線と6角形の窓。銅板張りにしたらしい軒の飾り。と、独創的なんだか模倣的なんだかよくわからないが、とにかく凝ったファサードである。
『看板建築』(藤森照信-文、増田彰久-写真、三省堂、1988年、1500円)の写真では、左の1戸に「鹿島建設建築本部/婦人画報ビル新築工事」の表札がかかっている。2戸とも、1980年頃にはしもた屋になっていたと思われる。下の写真では「とき美容室」家が取り壊されて横側が見えてしまっている。後ろに瓦屋根の日本家屋が見えているが、この家の正面はなんだったのだろう。


1987(昭和62)年1月1日

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