ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




ヤクシ化成箱崎町倉庫。中央区日本橋箱崎町21。1985(昭和60)年9月29日

当ブログ前回「証券日報社」の1枚目の写真の手前を左に行ったところ。かつては首都高速道路の下は箱崎川だった。下右の写真のとおりだ。川岸の道は奥で右へ続いている。江戸時代の昔からそこには永久橋が架かっていて蛎殻町とつないでいた。関東大震災後、都立日本橋高校(現・水天宮ピット)の前の通りに新永久橋が架かって、永久橋は廃止された。
写真奥に小屋が写っているが、永久稲荷神社である。幟一本あるわけでもなく、前を通っても神社だとはとても思えない。実はぼくも今知ったばかりだ。昔は、橋の袂の、それなりにいい場所にあったわけだ。





左:3階建て看板建築。2012(平成24)年3月6日
右:箱崎川。『 中央区立図書館 地域資料』より。1968(昭和43)年5月、京橋図書館撮影。書誌番号001987801

3階建て、銅板貼りの看板建築は健在。隣の角の家は元は八百屋だった。倉庫は取り壊されて駐車場(箱崎ヤクシ化成月極駐車場)になっている。


箱崎薬局。日本橋箱崎町20
1987(昭和62)年4月26日

湊橋の通りから南へ入る横丁にあった。「箱崎町診療所」「鉄砲洲針灸施術所」の看板もかかっている。昭和30年頃の火保図では「長沼医」とあるから医院だった建物らしい。隣の日本家屋は福本経理事務所。
なお、『日本近代建築総覧』にある「大東紡K.K.都寮」が写真左奥左側にあった。1980年頃には取り壊されたようで、撮影時では駐車場になっていた。当書に「旧医院」とあるが「河野医院」である。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )





安藤家。中央区日本橋箱崎町21。1983(昭和58)年6月

写真手前の道路を左へ行くと首都高速の下を抜けて蛎殻町になる。かつてはその首都高の下は箱崎川で、新永久橋が架かっていた。木造の日本家屋が2棟並んでいるようにも見えるが、たぶん大きな住宅が1棟あるのだと思う。現在はメインステージ日本橋箱崎Ⅳというマンション(2003年10月竣工)。
写真右の洋風の家は証券日報社。



証券日報社。1985(昭和60)年9月29日

『日本近代建築総覧』に「建築年=1930(昭和5)年、木造、モルタル・タイル張」として載っている。「証券日報」という業界紙でも発行しているのかもしれないが、看板には「高級美術印刷・一般○○印刷」とあり、町の印刷屋さんなのかもしれない。側面の前だけを白く塗ってしまっているのが残念だ。



1987(昭和62)年4月29日

建物の後ろの部分(住居になっていたらしい)がすでに取り壊されている。現在の建て替わった藤岡ビルは1988(昭和63)年の竣工なので、証券日報の建物も撮影後じきに解体されたのだろう。写真右に喫茶店だった仕舞屋と中華の博龍。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





都立日本橋高等学校。中央区日本橋箱崎町18。1987(昭和62)年4月29日

都立日本橋高校は2009(平成21)年4月に墨田区八広(京成曳舟駅から近いようだ)へ移転し、2010年7月に「 水天宮ピット(東京舞台芸術活動支援センター)」という施設になった。建物表側のタイル張りの壁はそのときの改修だろうか。
校舎は日本橋区立箱崎小学校として1928(昭和3)年3月に竣工した復興小学校だ。『 関東大震災・復興データベース』によると「創立=1909(明治42)年」である。1944(昭和19)年4月に日本橋高校(当時の名称は東京府立葛飾中学校)が移転してくる。 区立有馬小学校の「有馬の歩み」には「1944年―日本橋高等小学校、箱崎国民学校と合併し、東京都有馬国民学校となる」とあり、日本橋高校が移転してきた時点で有馬小と合併して、箱崎小は廃校になったことが分かる。
建設時の外観や内部の造りがどのくらい残されているのか分からないが、あまり目を引くようなものはない。そのせいか、保存運動の対象にもなっていないようだ。水天宮ピットの運営がうまくいけば、そのまま永く使っていくのだろう。



水天宮ピット。2012(平成24)年3月6日

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )





三井D倉庫。中央区日本橋箱崎町19。1986(昭和61)年6月8日

三井倉庫の敷地の北側、箱崎公園の向かいにあった門からのぞいてみた写真。右手前の事務所のある倉庫に「竹中工務店事務所」の看板が懸かっている。現在のIBM箱崎ビ ル(三井倉庫箱崎ビル、1989年3月に竣工)は竹中工務店の施工だ。この倉庫は撮影時の住宅地図に「三井倉庫航空課航空部分室」となっている。倉庫としてはD1倉庫で、奥へD2、D3が並んでいる。それらが住宅地図では「神崎製紙ソーコ」である。さらに奥にE1~E3があるはずで、わずかに写っているのはE2とE3らしい。



左:B倉庫、D倉庫。1983(昭和58)年6月。右:D3倉庫。1986(昭和61)年6月8日

1枚目の写真の側が表側とすると、上の写真はその裏側で、道路に面している。左の写真の右から、B、D3、D2、D1倉庫(D1は白い壁)。写真左奥に都立日本橋高校の講堂が写っている。



F倉庫。1983(昭和58)年6月

2枚目の写真の道路を右に進むと道路は右へ曲がる。上の写真はその辺りから撮ったもの。右奥へ行くと日本橋川に沿った道路に出る。その手前、倉庫の向かい側に高尾稲荷の小さな祠がある。倉庫は左からF6、F5、F4倉庫。



E倉庫。1986(昭和61)年6月8日

日本橋川沿いの道路に向いた門から撮ったもの。門の右手にビルの倉庫がある位置だが、撮影時にはすでに取り壊されていたと思う。レンガの壁の倉庫はたぶんE2倉庫で、その右に前面の壁だけが残っているのがE1倉庫。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





三井倉庫。中央区日本橋箱崎町19。1986(昭和61)年3月9日

日本橋川が隅田川に出る河口の袂、箱崎町にあったビル型の三井倉庫。撮影時の住宅地図では「三井倉庫㈱・㈱フェニックス」となっている。影になっている隅田川側には解体工事用のものと思える足場が組まれている。
今思えば興味深い建物で、もっと写真を撮っておけばよかったが、当時のぼくは知識もなくて見過ごしていた。この永代橋からの写真が唯一のものだ。 『中央区図書館』の「地域資料」で、「箱崎町」や「三井倉庫」を検索すると何点かこの倉庫の写真が見られる。
『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年)によると、「東神倉庫、竣工年=昭和3年、設計=同社」。東神倉庫㈱というのは三井倉庫㈱が1909(明治42)年に創設されたときの名称で、1942(昭和17)年まで使われた。
写真左の豊海橋の後ろに写っているビルは三井倉庫別館。これは今もそのままだ。写真右の隅田川大橋の左に見える4棟の切妻屋根の倉庫は三井倉庫のA1~A4倉庫。

コメント ( 10 ) | Trackback ( 0 )



   次ページ »