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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




民家。中央区日本橋蛎殻町2-7。1990(平成2)年3月(3枚とも)

水天宮の南で東へ入ったところ。現在も写真の範囲の建物は変わらないが、写真左手前の空地にマンションが建ったので路地に面した側は見づらくなった。写真中央の家は上部に銅板を貼った壁が残っている。写真左端のビルは蛎東会館。蛎殻町東部町会の事務所が入っているのだろう。昭和30年頃の地図にはまだビルになる前の建物だが「若鮎会集会所」となっている。町内の青年会だったのだろうか。

天龍(そば)。日本橋蛎殻町2-7

1枚目の写真右のビルの先。3軒並んだ看板建築のうち、右の1軒が今も残っているようだ。そばやの天龍はビルに替わったが店は続いている。昭和30年頃の地図では、左から「そばや、テーラーの中島、佃田豆腐店」となっている。
右の写真は3軒長屋の住居。蛎殻町2丁目には違いないが、詳しい場所は分らない。

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巴ビル。中央区日本橋蛎殻町2-4。1987(昭和62)年4月29日

新大橋通りと人形町通りとの水天宮交差点に正面を向けて建っていた。昔の水天宮の賑わいがいかにすごかったかを伝えるような華麗な正面の装飾だ。DRAKOさんからの情報によると、水天宮交差点側の1階には「ミヤコ」というパチンコ屋が入っていたがとっくに出てしまっている。また、写真左端にパチンコの看板が出ているが、こちらは「ゴールドラッシュ」で、ビル解体の少し前まで営業していたという。両パチンコ屋の間には「まるか」という蕎麦屋があった。すでに撮影年の5年位前から網がかけられていた。
『日本近代建築総覧』には「巴ビル(旧明治製菓人形町売店)、中央区日本橋蛎殻町3-2、S4頃、RC3、設計=明治製菓営繕課?、施工=島崎組、備考=「建築世界」。葉書回答によれば、設計:復興助成K.K.、施工:松井建設と云う」となっている。



左:1986(昭和61)年7月6日、右:1987(昭和62)年4月21日

ビルの角の上に突き出ているのは煙突だろうか、あるいはただの装飾かもしれない。屋上からこれを撮った写真が『乱歩と東京』(松山巖著、PARCO出版、1984年)に載っている。

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コカジ洋菓子店。中央区銀座6-4。1987(昭和62)年12月27日

写真右の古いビルは海洋ビル。洋館の洋菓子店にはローマ字、カタカナ、漢字(小鍛冶)と丁寧に3種類の表記で看板がかかっている。建物左の入口はバーのようだが、住宅地図では「らどんな」という店。
建物はかなり古そうだが戦前の建築なのかどうかは知らない。昭和30年頃の地図では「バー・スイング」。

左:1987(昭和62)10月4日、右:同年12月27日

asahicom>2007.07.09』に小鍛冶洋菓子店の沿革が少し書かれた記事があった。それによると、JR神田駅そばの内神田3丁目にあった小鍛冶洋菓子店は戦後すぐの1945年にしるこ屋を出したのが始まりという。1960年には洋菓子店に転向する。一時は都内に7軒の店を展開したが銀座の支店もそのひとつ。2006年7月で事業不振のため閉店した。


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海洋ビル。中央区銀座6-4。1987(昭和62)年5月31日

外堀通りの銀座6丁目交差点の角に今も健在なビル。スクラッチタイルの外壁や塔屋の壁のアールデコ風レリーフなどから昭和初期に建てられたビルだろう。
『銀座四百年 都市空間の歴史』(岡本哲志著、講談社、2006年)によると、古くからの地主の吉田嘉平が同じ交差点角に建った電通ビルや国民新聞社のビルに刺激されて建てたものとしている。銀座6-4の半分あった彼の土地はかろうじて東京大空襲での焼失を免れ、戦後は納税のため細分化されて売買された。それが今の海洋ビル背後の小さい家やビルが密集している場所になるらしい。



ビル入口の左に「居酒屋ちこて」の看板がある。昭和30年に開業した老舗のバーだそうだ。1985(昭和60)年4月28日

左:1987(昭和62)年12月27日、右: 1987(昭和62)年5月24日

入口上の「海洋ビルヂング」のホーローの表札は今もそのまま掛けられている。階段室上部のレリーフは剥がれそうになっていたのだろうか、塗りこめられてしまった。

近影。2007(平成19)年3月2日

現在は外壁を塗装して3階から上には網がかけられた。また、窓が3ヶ所塞がれている。それでも、西銀座ドラッグのピンクの日除け、「ちこて」の看板や日除けなど、意外と20年前と変っていないきがする。

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新港埠頭受電所。神奈川県横浜市中区新港。1991(平成3)年7月28日

横浜赤レンガ2号倉庫の西に、道路を隔てて向かい合っていた。受電所とはあまり聞かない言葉だが送電所とは逆に電力を受け取るところなのだろう。新港埠頭の倉庫などで使用する電気をここで受け取り、電圧でも下げて各所に配っているのだろうか。
『日本近代建築総覧』にある「新港埠頭変電所、横浜市中区新港町、S5、RC2、設計=大蔵省営繕管財局」だろうと思う。



新港橋を渡って赤レンガ2号倉庫に向かう途中で北の方向を見た光景。写真中央の建物が新港埠頭受電所。1988(昭和63)年8月6日



国土情報ウェブマッピングシステム』の昭和63年度の空中写真。横浜新港倉庫の南のヤード跡が舗装されているので、当ブログに掲載した同年8月の写真より後の10~12月頃の撮影だろうか。

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横浜新港倉庫。神奈川県横浜市中区新港。1988(昭和63)年8月6日(2枚とも)

新港地区の中心辺り、現在の赤レンガ倉庫とサークルウォークとの中間辺りにあった倉庫。『日本近代建築総覧』にある「新港埠頭横浜新港倉庫、横浜市中区新港町、S2、RC、施工=大倉土木、2棟」だろうと思う。「横浜新港倉庫株式会社」のHPの沿革に「昭和2年12月:耐震耐火の鉄筋コンクリート造3階建倉庫(A号倉庫)完成」とあるから、そのA号倉庫かB号倉庫ではないか。
写真手前、街路樹と倉庫の間の整地されたように見えるところは貨物線の操車場の跡である。線路が撤去されたばかりのようで、下の写真右手前に置かれているのがそのレールらしい。



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新港橋梁。神奈川県横浜市中区海岸通1。1988(昭和63)年8月6日(2枚とも)

横浜臨港線の鉄橋である。写真右手の塔はいうまでもなく横浜税関。線路は先のほうで横浜税関の東にある倉庫へ引き込まれている。また、新港橋梁のすぐ先で山下臨港線につながっている。鉄橋の右手には自動車道の橋がくっつくように並んでいるがそちらは「新港橋」である。「新港橋りょう」と書かれた鉄骨の上のほうに「浦賀船渠株式會社製造/大正元年八月」のプレートが付いている。右側の鉄骨の字は「線路内立入厳禁」。
横浜臨港線は新港埠頭が1911(明治44)年に完成した年に開通した。その後、横浜税関横の倉庫まで延長したときに架けられたのが新港橋梁だ。山下臨港線の廃止は1986(昭和61)年11月ということなので、「立入禁止」の看板はそのころのものだろうか。
現在は赤レンガ倉庫と山下公園をつなぐ遊歩道(愛称「汽車道」)として整備され、床や手すりが取り付けられた。鉄橋を歩いて渡れるのは楽しいのだが、写真のままの危険な鉄橋を渡るのはもっと楽しいのではないかと思う。



新港橋梁脇の倉庫

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