ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




二軒長屋。中央区佃3-7。1990(平成2)年1月21日

佃3丁目をコの字型にめぐっている通りの東南の角に近い辺りで、正面が左右対称の二軒長屋は今もほぼ写真のままの姿で残っている。長屋の玄関の前には4・5段の階段があり、長屋の敷地が道路面より少し高くなっている。
写真右の路地を入ると、途中、横丁を横切って清澄通りに真っ直ぐにつながっている。その路地の入口は写真のようにごく短い坂道。写真の長屋の後ろは2枚目写真の四軒長屋である。その四軒長屋が切れるところに4段の石段があり、入り口で登った分をまた下がる感じになる。埋立地である新佃島(佃2・3丁目)に高低差がつくのが不思議だ。誰もが珍しい地点と感じるのだろう、幾つかのサイトで紹介されている。
新佃島と月島の埋め立ては、隅田川の船運を確保するための「東京港澪筋浚渫事業」にともなうもので、明治17年に開始している。明治24年に月島一号地(月島1~4番地)、明治27年に二号地(勝どき1~4丁目)、明治29年に新佃島が造成された。佃3丁目の高まりはすくった土砂を遠くへ持っていくべきところを近くに捨ててしまったのだろうか? 写真の路地の一つ北の路地にもやはり階段がある。そちらの階段は路地を広げたためコンクリートのものに改修されている。



四軒長屋、石段のある路地。佃3-7。2008(平成20)年10月7日



路地の石段。佃3-7。2008(平成20)年10月7日

『月島物語』(四方田犬彦著、集英社、1992年、1800円)には、路地の石段について、「新佃島の完成が月島より数年遅れたのと関係がないだろうか?」とある。月島が出来上がったのに浚渫がまだ終わっていなかった、ということを言っているのだろうか? また「仮の堤防の痕跡?」ともある。朝汐運河は月島2丁目では斜めに切られたようになっていて、その延長に最初の新佃島の外縁があったのだが、そこは1枚目写真の向かい側になる。。
新佃島研究―東京湾フロンティアの伝統と近代― 小田夏美(法政大学大学院デザイン工学研究科紀要Vol.3(2014年3月)』によれば、石段のある路地の辺りは一時期、別荘および高級住宅地になっていたという。労働者などの長屋と差をつけるため、わざわざ土地を高くしたということもあり得る。
東京の階段DB 』には中央区のものはまだないようである。自然地形とは関係ない場所であるが、中央区の中では真っ先に取り上げてほしい物件だ。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )