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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




いわせ釣漁具店。千葉県勝浦市興津2610。1988(昭和63)年8月7日

昔、子供を興津海水浴場に連れて行ったときに、海岸沿いを走る国道(山側を走るバイパスがあるが旧道のほう)の家並みを数枚撮影した中の1枚。
国道128号の興津駅前交差点から東へ75mのところに釣具店の「有限会社いわせ」があるが、写真の家はその旧店舗。看板に「年間民宿」とあり、泊まれる部屋がこの店の建物なら、裏はもう海水浴場だ。
写真では雑貨屋だか食品店に見えるが、有限会社いわせのHPでは「千葉県勝浦で戦後から営業している漁業者向け卸売問屋です。遊漁船業の発生当時からその道具作りに携わっています」とある。

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左上:青色トタンの民家、千葉県浦安市猫実3-23。
右上:魚屋、猫実3-20。
左:井戸のある路地、猫実3-8。2009(平成21)年3月13日

浦安市猫実3丁目の中心辺りに6本の道路が集まっている交差点がある。信号がないのは、つけるとかえってドライバーを迷わして危険なのだろう。この交差点から東西へいく通りを「みなと線」というらしい。浦安市の「堀江・猫実B地区土地区画整理事業」の区域図に載っている名前で、2車線で、狭いながらも両側に歩道もついた、バス通り。「浦安 みなと線」や「浦安 みなと通り」で検索してもそれらしいのは出てこないので、一般には使われていないらしい。
右上写真は六差路角にあった家。よしずの日除けは魚屋を思わせるが、はたして魚屋にあるようなケースが覗ける。ストリートビューをみると、2009年には更地になっている。その後、3台分の三井のリパークになって現在もそのまま。
左上写真の家は六差路から西へすぐのところにあった民家。青色のトタンで覆われている。屋根がやたら複雑だ。ストリートビューをみると、2019年に建て直された。
左の写真は青色トタンの家の向かい側の路地。井戸が残っている。



伝次郎商店、三軒長屋。猫実3-24。2009(平成21)年3月13日

みなと線を西へいくと新中通りを横切るが、その手前にトタン張りの三軒長屋があった。ストリートビューをみると、左の店が「丸茂海苔店」、真ん中が店名は分からないが魚屋。建物は2016年頃取り壊されて駐車場になっている。
「三軒長屋」の左の「伝次郎商店」と米の幟を立てた古い民家は今も残っている。米と酒の伝次郎商店の店舗は向かい側にあり、写真の2棟は倉庫か住居として使っているのかと思う。

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区画整理前の民家。千葉県浦安市猫実3-5。2009(平成21)年3月13日

「堀江・猫実B地区土地区画整理事業」によって「新中通り」が開通し、その通りの両側の住宅地も整備された。工事は2010(平成22)年に始まり、2013年12月に開通、2014年9月で換地処分を終えて事業は完成した。
境川の北に境川と平行に通っている通りを「猫実本通り」(庚申通りの延長)というらしい。その通りの北にやはり東西に通っている商店街といっていい通りが「みなと線」。現在の新中通りが通る前は、その間をつなぐのは車の入れない路地だった。この路地は猫実3丁目と4丁目との境になっている。写真の古い民家は、その路地沿いにあった。新中通りに乗っているかかすめている場所なので、取り壊されて整備された土地の適当な場所に建て直されたものと思う。


区画整理前の民家。猫実4-2。2009(平成21)年3月13日

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左:かさや雑貨店(田中商店)。千葉県浦安市堀江2-6
右:民家。堀江2-5。2009(平成21)年3月13日

フラワー通り商店街の、新中通りと交差するところのすぐ東。新中通りは「堀江・猫実B地区土地区画整理事業」によって2014(平成26)年9月に開通した通りで、堀江の5番通りと猫実のみなと線を南北に結んでいる。この通りは境川を「新中橋」で渡しているが、この橋も「境川小橋」を架けなおしたもので、2012年6月の完成。従って撮影時には新中通りは工事中で、境川小橋がまだあった頃だ。
現在もかさや雑貨店の建物とその向かいの古民家は残っているが、それより新中橋通り側のかさやの隣の「ヤマザキショップ」(島村菓子店)は建て替わり、古民家の並び、「日の出寿司、大黒屋洋品店、芝田電機」は民家に建て替わった。
なお、フラワー通りは自然堤防の微高地に乗っているのだという(『巡検第2班』)。

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寿湯。千葉県浦安市堀江2-5。2009(平成21)年3月13日

浦安の町は漁師町だった集落が起源で、境川が船溜まりだったから境川の両側、新橋から江川橋の間に家が立ち並び、その外側を田んぼが広がっていた。1969(昭和44)年3月に東西線が開通して、浦安の繁華街は浦安駅のほうへ移ってしまった。1971年には漁師は漁業権を放棄し、海の埋め立てが進んでいく。
境川の南に川に沿って通っている「堀江フラワー通り商店街」は古くからある浦安きっての商店街だったが、浦安駅ができて以来衰退がはじまり、50年が経った今は住宅街の通りに幾つか商店がある、というのが実態である。
長さ約400mのフラワー通りに、撮影時には3軒の銭湯があった。漁師は仕事を終えるとまず銭湯に駆け込んだそうで、3軒の銭湯はその名残だ。
寿湯は境橋の袂にあった銭湯で、2014年8月頃に廃業し(『なるとの銭湯ブログ』)、今は取り壊されてトランクルームとしてコンテナが置かれている。
風呂屋の煙突>寿湯』によると、写真の建物は昭和54年に改築されたもの。



米の湯。浦安市堀江2-5。2009(平成21)年3月13日

寿湯の並び、75mしか離れていない米の湯。正面からの写真では分からないが、横から見ると寿湯とそっくりな形で、同じ設計図で建てたものではないかと疑われる。
フラワー通りは1985年に『天才・たけしの元気が出るテレビ‼』というテレビ番組で、衰退した商店街の活気を取り戻そうという企画があって取り上げられた。ぼくはたぶん見ていなくて分からないのだが、『 Go!Go!キョロちゃん>あれから26年…』というサイトに、当時の写真まで載せて紹介している。そこで「たけし 猫招き湯」「元気が出る湯」の看板の米の湯の写真を見ることができ。

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仲ノ町駅。千葉県銚子市新生町(あらおいちょう)2-297。2003(平成15)年7月20日

銚子電鉄の銚子駅の次が仲ノ町(なかのちょう)駅。ヤマサ醤油の工場に囲まれたような場所にある。
写真左に待合室と改札口、右に銚子電鉄の本社の建物がくっついている。改札口のほうの「仲ノ町駅」の看板は、今は昔からあるような木製のものになっている。また、写真中央の入り口には「パールショップともえ なかのちょう駅」という別の駅名(愛称)の看板が付いた。写真右の入り口が本社のものと思われる。建物は写真枠外右に少し続いているのだが、どうも本社としての機能が整っているようには見えない。
銚子電鉄は1913年(大正2年)12月28日に開業した「銚子遊覧鉄道」が前身で、仲ノ町駅の駅舎はそのときに建てられたもの。
下の写真は仲ノ町駅の側線に止まっていた車両。まだ現役で走っていた頃だ。



デハ701・702。2003(平成15)年7月20日

1928(昭和3)年に川崎造船所で製造された近江鉄道の電動貨車デユワ101形を1941(昭和16)年に日本鉄道自動車で鋼体化したモハ51形51・52を、1978(昭和53)年に譲り受けたもの。デハ702は、2010年1月23日に、デハ701は2010年9月23日に営業運転を終え、2011年秋には千葉県いすみ市にある「ポッポの丘」に2両とも移された。(ウィキペディア)



デハ801・ユ101。2003(平成15)年7月20日

デハ801は1950(昭和25)年に製造され伊予鉄道で使われた後、1985(昭和60)年に銚子電鉄に譲渡された。2010年9月23日で営業運転を終えた。外川駅の留置線に保存され、見学ができる。
ユ101は国鉄ワム80000型貨車を1985(昭和60)年に改造したトロッコ客車。「澪つくし号」の愛称を持つ。2007年には休車、笠上黒生駅に留置されているが2012年3月31日に廃車となった。(ウィキペディア)

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銚子市公正市民館。千葉県銚子市新生町(あらおいちょう)2-1。2003(平成15)年7月20日

公正市民館は「財団法人公正会」の本館として、大正15年(1926)に竣工した建物。公正会とは浜口儀兵衛商店(現ヤマサ醤油株式会社)の第10代店主悟堂氏が、社会への報恩のため社会教育事業経営を目的として設立した。その活動拠点が公正会本館である。以後、活発な事業活動によって文化の殿堂のように言われた。戦後、公正会は解散し、施設は銚子市に寄贈された。市は昭和24年9月、「銚子市公正市民館」及び「銚子市公正図書館」を開設した。昭和58年5月に公正市民館の裏に図書館を新設し、平成13年11月に「中央地区コミュニティーセンター」と改称した(まいれぷ銚子>銚子市公正図書館)。
建物は『ウェブ版千葉県近代建造物実態調査報告書』によると、「大正15年(1926)4月の竣工、設計者は高橋清輔、施工者は銭高組、構造はRC2階建て」である。「設計者の高橋清輔は東京の商事会社の営繕技師といわれ」、「ゼッションを基調としたデザインは、現在に至るまで大きな変更もなく保たれている」。

銚子は空襲によって大半が焼けてしまった。1945年(昭和20年)7月19日の空襲では、B29・91機の編隊によって攻撃され、300人近い死者と1000人の負傷者を出し、4000戸が焼失したという。漁港と醤油の町が終戦間際に焼き尽くされるとは、とても納得できることではない。
公正市民館はRC造ゆえに焼けなかったのかもしれないが、周辺も焼けなかったような感じもする。ストリートビューで見ただけだが、公正市民館裏の路地に建っている「黒田商店(畳材料、わら工品)」、「宮銀水道設備」、「マルフク味噌」のホーロー看板を付けた民家の3軒はかなり古い家に見える。また、『日本近代建築総覧』には「沢井商店、銚子市新生町1-57、木造、いわゆる看板建築」が載っている。



復興橋。銚子市新生町2-末広町。2003(平成15)年7月20日

公正市民館の前の通りは県道244号戸川港線で、銚子駅の北、銚子駅前交差点から始まり、銚子電鉄本銚子駅付近で南に向きを変えて犬吠駅を通って戸川(とがわ)漁港に達する。
公正市民館の横に短い橋が架かっている。「復興橋」という昭和31年竣工の橋。滑川を渡している。
滑川はただの溝にしか見えない小さな川で、350m北で銚子漁港になっている利根川にそそいでいる。自然河川を改修した川なのか、ほぼ真南に直線で流れているので農業用水として掘られた川なのか判断に迷う。地図で源流までたどることでき、そこはほとんど銚子半島を横断して屛風ヶ浦の海岸に出てしまう辺りだ。屛風ヶ浦を造っている山に突き当たる形で終わっている。

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犬吠埼灯台。千葉県銚子市犬吠埼9576
2004(平成16)年4月21日

犬吠埼灯台と霧信号所霧笛舎については、『犬吠埼灯台大百科』というサイトに詳しいので、ここでは省略する。
犬吠埼は銚子半島からさらに突き出した台地の岬である。『地図の風景 千葉・茨城』(㈱そしえて発行、1981年、1800円)には「銚子半島は、鹿島灘と九十九里浜が陥没したときに取りのこされた地塊で、外洋に三方を囲まれているためにはげしい海蝕を受け、断崖、岩礁、暗礁に富んでいる。犬吠埼をはじめとする突出部は、中生代の硬い岩石が海蝕に抗して残っているところだ。(堀淳一)」とある。下総台地とはまったく異なる形成過程でできた珍しい地層が現れているということだ。
『ウィキペディア>銚子半島』には「東海岸の黒生から長崎鼻にかけて、1億3000万年前から1億年前の恐竜時代の地層を見ることができる。犬吠埼は1億2000万年前の地層であり、海底痕跡を数多くみることができる学術的貴重な地層となっている。そのため「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」として2002年に国の天然記念物に指定された。」とある。
犬吠埼の西に「愛宕山(73.6m)」という小高い山があって、「地球の丸く見える丘展望台」になっている。銚子半島が隆起したときの中心になった箇所で、この山がジュラ紀の「愛宕山層群」という地層なのだという。
なんだかよく分からないが、そういうことなら岩を欠いて持って帰ろうというのは、駄目である。国定公園になっているし、天然記念物だから禁止されている。石ころを拾ってくるくらいならいいかもしれない。



犬吠埼霧信号所霧笛舎。2003(平成15)年7月20日

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伊能忠敬旧宅(店舗)。香取市佐原イ1899。2003(平成15)年7月20日

伊能忠敬は「1762年(宝暦12年)に17歳で伊能家に婿養子に入り、1795年(寛政7年)50歳で江戸に出るまでこの旧宅に住んでいた。店舗・正門は忠敬が来る前に建てられ、書院は忠敬が設計したと伝えられている」(ウィキペディア)。すると小野川に面した店舗は築後230年以上になりそうで、佐原で最も古い建物なのかもしれない。『千葉県>伊能忠敬旧宅』には、「主屋は、寛政5年(1793)、忠敬が48歳のときに自らの設計によって建てたもの」「店舗は、伊能家が醸造業を営んでいたときの倉庫が改造されたものといわれ、桁行7間、梁間4間の造りである。建物の戸は柱の間に横長の板戸を挟む蔀戸になっている。半分弱が土間で、土間の東側には畳敷きの帳場と座敷がある。」とある。


伊能忠敬旧宅。(店舗)。2003(平成15)年7月20日

忠敬旧宅でぼくが興味を惹かれるのは、中に入って見学していないので見てはいないのだが、農業用水(佐原村用水)の跡と旧伊能忠敬記念館。
『佐原の歴史散歩』(島田七夫、たけしま出版、1988)から引用する。

 佐原村用水の始まりは江戸初期の延宝元年(1673)といわれるが、詳しくはわからない。新宿側の上宿方面から流れてきた湧き水を主体とする用水は、下宿の伊能茂左衛門家(現・伊能忠敬記念館)の宅地内を流れぬけ、門の辺りから左折して新橋本・関戸を経て岩ガ崎方面へ流れていた。本宿側は、小野川中流の関から分流した用水が、浄国寺の南側、佐原小学校正門前を経て、伊能三郎右衛門家(忠敬の家)の宅地内で二つに分かれ、本川岸・浜宿を経て本宿耕地方面へ直進するものと、一方、左折して宅地内の用水路(現存)から樋橋を渡り、先の上宿方面から水と合流し関戸方面に流れていた。この用水が樋橋を流れる時、多い分などが小野川に落ちたのである。
 佐原村用水は、昭和20年代まで使われ、佐原(村)にとっては300年という長い間、大切な用水(路)であった。現在では、用水の機能がなくなり埋められたり、一部が排水路として使われているが、市街地のものは舗装道路の下に隠れている。

旧宅の敷地の東北に建っているのが旧伊能忠敬記念館。「昭和36年(1961)に建設された鉄筋コンクリート造り2階建ての建物」(『佐原>伊能忠敬の旧宅』)。建物内は今も記念館だった時のままの展示用のケースなどが置かれているらしい。小野川対岸に新しい記念館が開館したのは平成10年(1998)5月22日。

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亀村本店(土蔵、右奥が店舗)。香取市佐原イ1726。2003(平成15)年7月20日

下新町通りの伊能忠敬記念館駐車場の南にある古い商家。「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会」が設置した説明板によると、亀村本店(屋号は「大和屋」)の創業は享保3年(1718)。「初代大和屋三郎兵衛は大和の出で、現在11代目を数える。荒物、雑貨、食料品の卸業を多角的に経営したが、砂糖の販売でよく知られた」という。
佐原の町並みかわら版 43号(平成21年2月)』には、「江戸時代には自前の船を持ち、江戸から商品を仕入れたという。鉄道に代わってからも毎月貨車一輌分のマッチを仕入れた時期もあった。本社〈大日本兵庫清燐社(現・兼松日産農林)〉より有数の優良代理店として認められ、そのしるしとして贈られた「桃の浮き彫り入りの看板」が今でも座敷正面に掲げられている」とある。
現在ではこの店のカルメ焼きを目当てに来る観光客もあって、買いやすいように100円の袋入りのざらめなども置いてある。



亀村本店(店舗)。2003(平成15)年7月20日

建物は「考える会」の説明板によると、店舗は「寄棟妻入り平屋建 明治27年(1894)築」、「間口が広い屋根面積の大きい重厚な平屋建て店舗で、座売りの形態を良く残す数少ない建造物」。土蔵(袖蔵)は「切妻平入り2階建て 明治37年(1904)築」。

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