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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




下新町通りの旧商家。香取市佐原イ1712。2003(平成15)年7月20日

下新町通りを南にいくと伊能忠敬記念館の裏の大きな駐車場があるが、その手前にある民家。1階は玄関と車庫に改装されているが、元の店舗と思われる家と袖蔵が通りに面している。店舗の裏は住居がつながっている。そういう建物の配置から元商家と思われる
ストリートビューを見ると、蔵の前のコンクリート塀に「電気工事は大友」とペンキで書かれているが、写真の家と結びつくのかどうか分からない。どうもただの広告のような気もする。
民家と記念館駐車場との間に路地が入っていて、グーグル地図に「樋小路」となっている。この路地は伊能忠敬記念館の建物をよけて鍵形に曲がっているが、小野川の樋橋(とよはし)につながっているから、そこからの命名だろう。樋橋は「もとは江戸時代の前期につくられた佐原村用水を、小野川の東岸から対岸の水田に送るための大樋」(香取を旅する>樋橋(じゃあじゃあ橋))だったから、路地が農業用水の跡ということも考えられる。路地の反対側、西への延長が清宮秀堅旧宅の北の境の路地だが、そちらはより用水路跡という感じがする。

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清宮秀堅旧宅(母屋)。香取市佐原イ1710。2003(平成15)年7月20日

香取街道の「馬場本店酒造」の向かい側を南に入った横丁が「下新町通り」という。香取街道沿いの商店街とはだいぶ様子が異なるが、屋敷の黒塀や蔵、商家だったらしい町家が並んでいて、昔の佐原が残っている通りといえる。そこに入ってすぐ西側に蔵と黒塀が現れるのが「清宮秀堅(せいみやひでかた)旧宅」、または「清宮利右衛門邸」。
「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会」が設置した案内板「清宮」によると、清宮家は享保15年(1730)の創業で穀物商・醤油醸造・質商等を営んでいた。
門から覗ける大きな母屋は「寄棟平入り、明和2年(1765)改築」。「江戸時代末から明治初期の漢学者であり、地理・歴史・儒学にも長じた清宮秀堅の旧宅」である。「佐原に残る数少ない江戸時代の住宅建築で、間取りや部材にその特色を見ることができる」。



清宮秀堅旧宅(黒塀と店蔵)。2004(平成16)年4月22日

通り沿いには3棟の土蔵が建っているが、上の写真の蔵は北にあるもの。質屋だったときの店蔵だった(佐原商家町ホテル NIPPONIA SEIGAKU棟)。「考える会」の案内板に「土蔵:切妻平入り 明治2年(1869)築」とある。
下の写真の蔵は「土蔵(左の2棟):切妻平入 明治期築」。右のほうの蔵は『SEIGAKU棟』では「大蔵」と称していて、米などを置いていた蔵だったという。


清宮秀堅旧宅(大蔵と門)。2003(平成15)年7月20日

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うめ家石材店。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

八柱霊園正門から北へ伸びる参道の、二つ目の四つ角の角にあるのがうめ家石材店。そのHPによると、創業は八柱霊園開園と同じ1935(昭和10)年で、現在の店主は四代目。建物もその当時のもの。



大野家石材店。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

うめ家の右(南)がオンダ酒店で、その右が大野家石材店。この店も八柱霊園開園と同時に創業した。伝統的な日本家屋の二階建ての家だが、数多い付近の石屋の店舗の中では、意外と少ない形式の建物だ。2階は会食用の座敷。

下の写真のまる家石材店はうめ家の角を東へ一歩入ったところにある。


まる家石材店。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

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松戸屋。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

松戸家株式会社は八柱霊園正門から北へ、参道のようなケヤキ並木の通りを行って、最初の四つ角の角にある石屋。HPによると明治27年に伊勢で創業。昭和7年に松戸市に移転してきた。そのときの店舗がHPの写真にある「旧社屋」で、現在の「新社屋」は新たに建てた店舗かと思われる。あるいは旧社屋を立て直したのだろうか?
店舗の横に古い形の郵便ポストがある。墓なのかどうかは知らないが石造りのもので、「大幅値引き!」で売っている。



鹿の子家。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

松戸家のある同じ四つ角の西南角の鹿の子家石材店。『八柱霊園と周辺施設>鹿の子家石材店』に、「昭和15年に創業」とあった。
ストリートビューを見ると、家は取り壊されて空き地になっている。SVから、取り壊されたのは2015年5月から2018年8月の間である。店舗を建て替えるのだろうか? あるいは廃業?

霊園前に「石屋街」というほど石屋が集中することは珍しいに違いない。広大な八柱霊園だから開園後しばらくは墓石の需要はいくらでもあったのかもしれない。現在では不要に石屋が多いように感じてしまう。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年、1905円)には「今日参道に見られる組合員39軒を数える石屋の林立する街が形成された」とある。

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玉川石材株式会社。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

都立八柱霊園の正門から北へ、ケヤキ並木の通り(参道)が伸びていて、両側に石材店が立ち並んでいる。普通は「石屋」と言っていると思う。墓石を作るほかそれに関連したサービスを提供するところだ。八柱霊園は昭和10年の開園だから、それに合わせて店を出した石屋が多いかと思う。建物も古いものは昭和10年頃に建てられたとみていいだろう。
玉川石材は八柱霊園正門のすぐ前にある。そのHP には明治23年の創業とある。店舗は八柱霊園の一つだけのようで、昔からこの辺りでやってきたのかもしれない。



玉川石材部。2005(平成17)年3月30日

1枚目写真の右手前、八柱霊園正門前のロータリーに向いた位置に建っている、「玉川石材部」の看板がある建物。墓石を作る工房だろうか。

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八柱霊園納骨堂。松戸市田中新田48。2005(平成17)年3月30日(4枚とも)

「八柱」は意味からいうと「谷・端・等」なのだという。「やはしら」か「やばしら」かで迷う。新京成八柱駅は「やばしら」、武蔵野線新八柱駅は「しんやはしら」。昔の「八柱村」からきているわけだが、ウィキペディアでは「やはしらむら」で、それが正しいようだ。今言われる「八柱」は「やはしら/やばしら」としているからどちらでもいいのだろう。言いやすいので「やばしら」が優勢になってきているかと思う。
住所の「田中新田」が妙である。八柱霊園は台地の上に広がっていて、水田などは昔からなかったと思われる。台地の三方を囲むような谷あいの水田を指したのだろうか? 畑でも新たに開拓した土地は「新田」だったのかもしれない。
八柱霊園になる以前は「田中山」というのが通称だったという。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年、1905円)によると、『松戸市史 資料編(5)』からの引用として「この地は幕府直轄領だったのを行徳の田中三左衛門が享保年間(1716~36)に開発・所有したところから田中山の名で呼ばれた」「幕末大山火事にあい復興ならず紙敷の湯浅宇右衛門の所有になり、そして地主は大正9年(1920)末現柏市花野井の吉田甚左衛門に移り、昭和6年10月東京市営公園墓地に決まって73町3反3畝10歩を買収された」とある。



八柱霊園納骨堂南側面

東京都立八柱霊園は昭和10年7月1日の開園。その当時の建造物である納骨堂、正門、噴水、給水塔などが残っている。中央通りのコンクリートアーチ橋もあるいは。
納骨堂は『日本近代建築総覧』では「八柱霊園納骨堂、松戸市八柱霊園内、建築年=昭和10年6月、備考=東京都の管理 聞込みによる」。
千葉県近代建造物実態調査報告書>22 八柱霊園納骨堂』によると「竣工年:昭和10年、所有者:東京都、設計・施工者:不明、構造:RC、外壁:タイル張り、屋根形状・葺材:宝形造,瓦棒鉄板葺、建築規模:187.1㎡(増築部含む)」。北側の平屋部分が昭和47年の増築によるもの。
東京都八柱霊園案内図』では「やはしら」とふりがなをふって、「昭和12年に納骨堂を開設」とある。



噴水と給水塔

正門を入るとフランス庭園風の広場で奥に噴水、さらに奥の階段を上ったところに宝塔形の給水塔が建つ。階段下の庭園は小さな谷になっていて、階段が谷の突き当り、正門が谷の出口に当たる。墓地は台地の上に広がっていて、正門前の広場からは周りが高いから墓地は見えない。地形を利用した見事な配置である。

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田口洋服店。松戸市松戸1730。1989(平成元)年4月2日

当ブログ前回の宮田染物店から北へ数軒置いた並び。「角町(かどちょう)」と言われる地区で、街灯には「角町下横町商店会」のプレートが付いている。写っている3軒とも、今は建て替えられている。
田口洋服店は服を吊るして売っているような店には見えないのでテーラーだろうか? 建物は蔵のように見える。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年、1905円)の「昭和12年の家並み図」では「大黒屋履物店」で、その解説では「東京に移転」となっている。
田口洋服店から北へ250mのところに「相幸酒店」がある。その南の駐車場になっているところが、『昭和の松戸誌』では「田口洋服店」である。解説に「昭和13年角町に移転、8年前(1997年頃)廃業」とあり、その移転した店が写真の店と思える。
写真左の商店は「伊勢屋商店」。『昭和の松戸誌』では「荒物雑貨店。三代目。健在」。今は住宅に建て替わっているが、表札は「伊勢屋」になっている。

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宮田染物店。松戸市松戸1680。1989(平成元)年4月2日

松戸駅の西を県道5号線(流山街道)が南北に走っている。水戸街道の旧道で、商店はだいぶ減ってしまったが商店街の通りだ。松戸駅からその通りへ出て南へ750mいくと角町(かどちょう)交差点。写真の建物はその少し手前にあった。今改めて写真を見ても、こんな銅板張りの看板建築があったのかと、どうも思い出せない。現在は駐車場になっている。
宮田染物店は当ブログの「山崎金物店、天野理髪店」の1枚目の写真の左、小松湯の左にあった。上の写真の右、民家としか見えない建物が小松湯だ。山崎金物店の写真で「近藤パン店」とした建物が商売をやめて、ヤマザキパンの店舗のファサードを取り払ってみたら銅板張りの看板建築が現れた。それは現在も見ることができる。
『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年、1905円)には「宮田染物店は戦後廃業。四代目。パラペット壁は印象的。裏に現住。」と解説されている。

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近藤額縁店。埼玉県川越市松江町1-21
1989(平成1)年9月18日

立門前通りの川越街道に近いほうにあった看板建築にした店。2015年10月に川越市の「景観重要建造物」に指定された。名称は「木村家(桝屋)主屋及び袖蔵」で、その袖蔵が近藤額縁店で、写真左の「桝屋食料品店」が主屋である。撮影時は見た目通りの昭和初期の看板建築と見ていて、桝屋も日本家屋の町家の前面を看板で隠していたとは気が付かなかった。
今は、主屋は看板を外されて1階の格子戸を復元し、2階の格子窓も見えるようになった。2017年の工事による。袖蔵は2020年に「蔵の宿 桝屋」という宿泊施設として開業した。
広報川越 平成27(2015)年10月25日』によると、主屋は川越大火(明治26年)後と推定され、袖蔵は明治26年の建築。主屋の左に車庫にしている平屋の家がある。その家の奥に土蔵があって、それが明治13年の建築。
木村家の家業がなんだったのか分からないのだが、やはりこの辺りに多かった米問屋だろうか?

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小島結納品店。埼玉県川越市松江町2-1。1989(平成1)年9月18日

中央通りの蓮馨寺門前から川越街道を結んでいるのが「立門前通り」で、「立門前商栄会」の商店街である。昔はそうとう賑わったというが、今は両大通りに近い部分はまずまずの商店街なのだが、その間は住宅地に近い感じになってしまっている。写真の2棟の日本家屋の商店も、今は取り壊されて1戸建て住宅と駐車場になってしまった。また、街灯が取り換えられた。写真右へ行くとすぐ川越街道で、角に「芋十」がある。
写真左の家はどんな店だったか写真からは手掛かりがない。右の家は二軒長屋で、「登喜寿し」と「小島結納品店」。今は結納などをしないで結婚式にいってしまうほうが多いかと思われるのだが、個人どうしの結びつきなら当然のことだろう。結婚とは家の結びつきと決めてかかっている老人はわりと普通にいそうで、そういう親や祖父母と波風立たないように結納品を求めるなら、今は結婚式場でそろうのだと思う。

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