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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





ロケット本部(旧本間商店)
千代田区神田須田町2-1
上:1989(平成1)年2月26日
左:1986(昭和61)年12月30日

靖国通りの、中央線高架が横切る横にあったビル。ビルの看板から、電気製品販売のロケット7号店で、またロケット本社事務所が入っていたようだ。「マイコン」の看板がある。「パソコン」の言葉が定着する前の頃らしいが、どんな製品が売られていたのだろうか? 
このビルは『日本近代建築総覧』にある「本間商店、神田須田町2-1、建築年=昭和5年、構造=RC造5階建」である。昭和25年頃の火保図では「本間ラシャS貿易部」で、本間商店はこの辺りに集中していたラシャを扱う店だったと判る。
現在は「ホンマビル」(1990年7月に竣工、8階建地下1階)に建て直された。ビルの名称からすると業種は変わったかもしれないが本間商店は存続しているらしい。

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万世本店。神田須田町2-21。1988(昭和63)年1月24日

万世橋袂の肉料理の万世の旧ビル。万世の左の細いビルは「サナダビル」。中央線高架の後ろに「ロケット8号店」、その後ろのTOSHIBAの看板が乗っているビルが「ウィン神田高橋ビル」。中央線の電車が絶妙のタイミングで画面に入っている。狙っていたのかどうか記憶にない。たぶん偶然だろう。
肉の万世』によると、創業は戦後間もない1949(昭和24)年9月9日。現本店の地に2階建て洋風の店舗を建築して精肉・惣菜店を始めた。1959(昭和34)年のパンフレットには4階建てのビルの作業場が載っていて、店舗は、隣にあった「虎野」という店を買収して増築している。以下、『秋葉原歴史記事>肉の万世』を参照する。普通の肉屋がレストランを始めたのがいつかは判らないようだ。「万かつサンド」の発売は1955(昭和30)年頃。写真のビルに替わったのは1963年(昭和38年)。そして現在の10階建てのビルに建て替えたのが1991年(平成3年)8月だ。

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神田交流変電所。千代田区神田鍛冶町2-11。1992(平成4)年7月5日

JR神田駅のすぐ北、山手線と中央線が分岐する内側にある神田交流変電所の旧建屋。現在は建て替えられて、一八通りの門には「東日本旅客鉄道株式会社/神田交直流変電所」の表札がかかっている。写真の建物だったときの地図では、1950年頃の火保図では「東京鉄道管理局神田変電区開閉所」、1969年の住宅地図では「赤羽給電区神田交流変電所」、1986年では「給電保全事務所/秋葉原保全所」。
建物に関してはなにも判らない。デザインは昭和7年に建てられた神田変電所と同じモダニズムである。建築年も同じ頃のように思える。
変電・饋電(き電)・通信のもろもろ』というサイトに神田交流変電所が解説されている。この施設の役割は電気に関する知識がないと分からないのだが、一八通りの向かい側にあった神田変電所が直流変電所で、写真の交流変電所と統合したのが今の交直流変電所なのだという。
消えた近代建築>JR東日本神田変電所』によると平成13年に取り壊された。

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神田きくかわ。神田須田町1-24。1986(昭和61)年6月8日

中央通りと一八通りとの交差点角に神田きくかわ(喜久川)の古いビルが残っている。神田きくかわは昭和22年の開店で、すでに老舗である。建物は昭和初期のRC造のビルかと思うが、そのほうの情報は得られなかった。1986年の写真では建物の角に引き戸があるが、現在はその右に移された。
ぼくはこの店に入ったことはない。うな重の値段が2千円だった頃は昼食に一人で鰻屋に入ったこともあるが、3500円にもなってしまうと、気楽には食べられなくなった。うな重のランクは「並、上、特上」「梅、竹、松」などがあるが、きくかわは「イ、ロ、ハ」だそうだ。どの店でも鰻の量の差である。2尾分の「ハ」を食べるなら「イ」を二回食べるほうが粋ではないかと思う。
同じビルの奥は「恵比元(えびもと)」という居酒屋。上の写真では看板に「大衆酒場」とある。いまや聞かなくなった言葉だ。みんな自分は大衆ではないと思い始めて、世間から言葉としての「大衆」は淘汰されていったのだろう。実はぼくも「おれは大衆ではない」と思っている。勘違いしているかもしれない。



左:丸茂電気。1987(昭和62)年2月1日。右:須田町ビル。1994(平成4)年2月6日

神田菊きくかわと並んで中央通り沿いに2棟の古いビルがあった。丸茂電機のビルは現在、「マルモビル」(1990年頃の竣工か?)に、須田町ビルは、「ACN神田須田町ビル」(2008年竣工)に、建て替わっている。

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神田美容室
千代田区神田美土代町11
1989(平成1)年4月29日

靖国通りの裏手にある林文具店から南へすぐのところ。写真右から、神田美容室、奥村洋紙店倉庫、みどりや。神田美容室と奥村洋紙店とは同じ二軒長屋である。現在は写真の2棟=3軒が「ブックスビルディング」という5階建てのビルに替わっている。神田美容室はすでに廃業していて、奥村洋紙店に建築計画のお知らせが貼られている。撮影後じきに取り壊されたかと思う。
神田美容室は長屋の2階前面を増築して看板建築にしている。1階を美容室に改装したのと同時の工事だったのかもしれない。
「みどりや」は地図からもってきただけの店名だが、写真からは小料理屋のような感じだ。

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神田万彦。千代田区神田須田町1-28。1988(昭和63)年8月14日

中央通りの須田町交差点の南の横町を西へ入ったところ。写真右のモルタル壁の看板建築は住宅のように見える。現在は5階建てのビルに建て替わって、1階には「神田万彦/果実問屋/創業天保十年」という看板がかかっている。撮影時でも万彦の自宅兼事務所だったかと思う。
がっちりマンデー!!>…千疋屋総本店…(2014.11.09)』には、大田市場から高級果物を仕入れて千疋屋へ入れているのが神田万彦(青木稔社長)とある。千疋屋との付き合いは178年になるとか。
『子規と四季のくだもの』(戸石重利著、文芸社、2002年、1600円)を立ち読みした中に、須田町交差点角にビルを構えていた「万惣」との関係が書かれていた。初代青木惣太郎(弘化2年生まれ、川越出身)は、神田市場(多町・須田町にあったが関東大震災で秋葉原駅の北へ移転。1989年大田市場へ再度移転)の果物問屋万彦の養子になり、ノレン分け後万惣を興す、とあった。それにしても万惣は解散したということなのだろうか。
写真左の家は看板の文字がよく読めないが「時計 武田」だろうか。現在は5階建てのビルに建て替わっている。



理容室ハシモト。神田須田町1-30。2012(平成24)年3月4日

神田万彦と同じ四つ角のもう一方の角。理容室ハシモトは『 千代田区神田周辺地区における景観形成の推進のための調査』(平成17年、歴史・文化のまちづくり研究会神田研究部会)では四軒長屋としている。ハシモトが2軒を使い、写真左の壁を改装した部分に2軒、ということだろうか。昭和28年頃の火保図にはすでに「橋本床ヤ」と出ている。

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岡谷商事、笹村商店。千代田区神田須田町1-30。1991(平成3)年9月1日

上市園の横町を南にいった次のブロックである。看板に、岡谷商事は「毛織物卸」、笹村商店は「綿織物卸」と商売の内容が書かれている。下右の写真が現状で、古い看板建築の建物はほとんどがまだ残っている。
岡谷商事は銅版張りだった正面がトタン波板に張り替えられている。笹村商店の後ろは看板建築が2棟で、飲み屋だった表の造作が残っているしもた屋と「栄ネーム」だった家。この2棟もかつては銅版張りだったが(『するが亭、栄ネーム店』)、下右の写真では鉄板のようなもので貼りなおされている。確かに、薄い銅板を板の壁に張り付けただけではやたらと永くは保ちそうに思えない。建てられてから80年にはなる銅板張り看板建築は今や限界なのかもしれない。



左:岡谷商事、1994(平成6)年2月6日。右:近影、2012(平成24)年3月4日

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ヤマニ裏地店。千代田区神田須田町1-12。1994(平成6)年2月6日

靖国通りの須田町交差点付近の1本南の裏通り。角のヤマニ裏地店から看板建築の長屋が並んでいる。三金(おでんの飲み屋らしい、今は「二灯庵」という鉄板焼きの店に替わった)が看板建築らしいデザインした正面をしているが、それ以外の家はモルタル壁のそっけない正面で、注目度は低い。
千代田区神田周辺地区における景観形成の推進のための調査』(歴史・文化のまちづくり研究会神田研究部会、平成17年)に「3.景観資源>(3)看板建築等リスト」があって、「18.三金、神田宝仙堂(薬)―外壁モルタル、カラー鉄板,3軒長屋」「19.ヤマ二裏地店―1F外壁煉瓦,2F板張り、4軒長屋」が挙げられている。「三金、昌平薬品、神田宝仙堂」が三軒長屋とすると、ヤマニを2軒分としてその右(車庫らしい)の家とでは4軒長屋にならない。たぶんヤマニは裏の2軒を加えての4軒長屋ということかもしれない。
ヤマニ裏地店は昭和28年の創業という。当時は須田町一帯に300軒近いラシャ(羅紗)屋が集中したらしい。ラシャはだいたいが背広(当時はスーツなどとはいわなかった)の生地で、都内のテーラーが須田町で生地を仕入れたのだろう。ヤマニ裏地店は裏地とボタンなどの付属品を扱う。紳士服に限らないから顧客は絶えないのだろう。



あさひ。神田須田町1-12。2005(平成17)年3月31日

ヤマニ裏地店の裏にある家で、二軒長屋の看板建築らしい。ストリートビューで見ると、手前が「あさひ」という居酒屋、奥が「げたばき」というワイン酒場。手前の空地にはビルが建ったので、今は建物の横はみられない。

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上市園、東京ネクタイ。神田須田町1-12。1988(昭和63)年8月14日

喫茶店びいんず(現在は取り壊されてマンションの建築中)の向かい。並んでいる古い家は1986年の地図で、左から「上市園、東京ネクタイ、光文社」。1977年の地図では「やすり製作所、東洋ネクタイ、光文社」。1950年頃の火保図では「渡辺やすり商店、帝国SG不動産、巴屋ラシャ店」。現在、上市園は健在だが、その右の2軒は「神田館」(1995年2月築、11階建て)という賃貸マンションに建て替わっている。
上市園をネット検索したら、『モハメイドペーパーの 何が出てくるか?>ヤスリの専門店(2014.02.19)』というサイトがあった。主に鉄道模型がテーマのブログだ。記事は『スパイクから運転まで―鉄道模型入門』という昭和36年発行の本に「上市ヤスリ店」が紹介されていて、筆者はそれを読んでその店へ行きヤスリを購入している。当記事をアップする際に店がまだあるか確かめに行き、茶や海苔などの食料品店の上市園として存続していることを確認する。
上市(じょういち)ヤスリ店は模型用に限らず各種ヤスリを制作販売していたのだと思う。製品には「上市」の銘を入れている。模型製作に使う特殊なヤスリは専門店でないと売っていなかったのだろう。店にはモデルマニアが出入りし、「老主人」が親切に説明してくれたようである。
上市の場所を当書では「神田のカワイモデルの裏側2本目の通り」と説明している。鉄道模型のカワイモデルは中央通りにビルを構える店で、ぼくも1960年頃に初めていって、以後数回いっている。鉄道模型マニアで知らない人はいない。

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びいんず。千代田区神田須田町1-10。2007(平成19)年1月4日

靖国通りから横町(多町大通りの1本東の裏通り)を入ったところ。建物上端の稜線が特徴的な喫茶店の「びいんず」から3軒の看板建築が並び、その先に網がかけられた洋館風の廃屋、と古い建物が見られた。現在、この一角は右端のビルから廃屋の先の四つ角に面したビルまで全て取り壊されてマンションを建設中だ。


旧村木商店。1986(昭和61)年6月8日

ネット上では「旧村木商店」の名称が通用している建物で、長いこと空き家になっていたが、2013年1月に解体された。この写真では玄関の上に「村木」の文字が残っている。撮影時の住宅地図では建物の右が「英ガラス」左が「佐山商事」奥に「村木」という記載。
近代建築探訪』というサイトは「岡田ファン」を自称する岡田信一郎に詳しい方(『近代建築ホームページ』というHPを持つ)のブログで、そこに『近代建築探訪>OSN076看板建築(村木商店)2012.03.29』という記事がある。そこでは「国会図書館所蔵の岡田信一郎設計図」の中に「村木商店」があったと述べられている。そこからの引用と思える正面図と側面図も載っている。前面が洋風の事務所、後ろは和風下見板の日本家屋で住居らしい。
同じブログの『気になる建物(2009.02.15)』では、村木商店が「馬鈴薯、玉ねぎ、くわいを扱う問屋」だったと解説されている。関東大震災の以前まで、神田多町の一帯にあった神田青果市場の問屋の1軒だったのかもしれない。
下の写真は角のビルが取り壊されて、旧村木商店の南面が見えている。



旧村木商店。2012(平成24)年3月4日

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