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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東方学会。千代田区西神田2-4。1987(昭和62)年1月4日

『日本近代建築総覧』に「東方学会(旧上野塾)、建築年=大正15年(1926年)、構造=RC3階建」と記載されている建物。
平成15年に千代田区の「景観まちづくり重要物件」に指定された。『千代田区>景観まちづくり重要物件』の解説では「竣工:大正 15 年(1926)頃。歴史・文化的特徴:東方学会は、昭和 22 年(1947)外務省所管により、日本の東方文化の学術的研究の発達、東方諸国の文化の進展および国際文化の交流を目的として設立された。建物の由来等は不詳。意匠・構造の特徴:鉄筋コンクリート造モルタル塗仕上げの簡素な建物で、中央入口を階段室にし、中廊下で教室をレイアウトした学校建築のようである。下側にカーブを持たせた窓庇兼用の窓台と、同様の形状の屋根庇が水平線を強調しているのと、入口の半円アーチ以外は非常にプレーンな、機能本位のモダニズム建築」としている。
1926年に建って1947年に設立された東方学会のものになるまでの期間にどう使われていたか分からないということで、「上野塾」がなんなのかも分からないのである。

『あの日の神田・神保町』(佐藤洋一、武揚堂、2008年、2000円)には「……明治中期より中国からの留学生コミュニティがこの場所に形成された。その名残ともいえるのが東方学会(戦前までは日華学会)。孫文や魯迅、周恩来や蒋介石などの留学生はこの界隈で留学生活を送っていた。……日華学会が設置した東亜高等予備学校(火保図では農地開発営団の場所)が近隣にあり、そこに多数の中国人が学んでいた」とある。
東方学会の前身が「日華学会」ということは『財団法人東方学会』には出てこない。事業の内容に関連性がないので前身とは言えないのかもしれない。日華学会とは『ゆまに書房>日中関係史資料叢書7 日華学法』の紹介文でだいたいのことが分かる。

近代建築探訪>東方学会(旧東京中学校)』では、なんと! 設計者は堀越三郎、「東京中学校」として竣工した、と明らかににされている。「1934年、中学校は大森区調布嶺町(大田区鵜の木)に移転し、併設されていた東京実業学校も1936年に蒲田駅近くへ移転。建物は日華学会(中国からの留学生を支援する財団法人)に売却され、戦後、東方学会の所有に」なったという。



東方学会。2016(平成28)年12月12日

東方学会のHPによると、「1962年3月、東方学会新館竣工(日本住宅公団共同建築)」。写真の建物は「本館」になって、その裏にある5階建てのビルが新館。現在は「UR都市機構西神田2丁目市街地住宅」、以前は「住宅公団西神田二丁目アパート」といった。さらに「1971年2月、本館増築改修工事完成 (4階増築、内外装工事)」とあり、4階が増築された年が分かる。

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鵜澤徽章製作所。千代田区西神田3-3
1992(平成4)年5月4日
左写真は建物の裏側。ストリートビュー(2018年2月撮影)から

日本橋川に沿う道路の堀留橋近くにある看板建築。関東大震災復興期の建物と思える。L字型平面の主要部分が3階建てで寄棟屋根である。正面の「鵜澤商店」の右からの文字は竣工時のものかもしれない。「鵜澤徽章製作所」「徽章・メダル・カフス・タイ止メ」の袖看板は2014・15年には取り外されて、今のグーグルマップでは「メゾンシズ」となっている。アパートになっているようだ。
西神田3丁目は戦災に遭わなかった地区だが、この建物が戦前築では最後まで残った建物になるのかもしれない。

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学士会館。千代田区神田錦町3-28。1988(昭和63)年11月8日

今はレストラン、ホテルが一般の人が利用できる施設だが、学士会の会員のためのクラブハウスとして建てられた。学士と言っても会員は旧帝国大学を卒業しているか、その教授に限られる。つまり、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学の7校。
設計はコンペの一等当選案、高橋貞太郎のデザインを佐野利器(としかた)が構造設計してまとめた。コンペは一般公募ではなく、学士会会員に限ったようだ。1926(大正15)年6月に着工(最初の予定では1923(大正12)年9月1日、つまり関東大震災で延期された)、1928(昭和3)年4月末に完成。会館のオープンは5月20日。RC造の4階地下1階建。
学士会館という建築』(東大教授・鈴木博之「学士会会報」2008年)に、建設当時の学士会館を紹介した建築学会発行の雑誌の記事が紹介されている。建物の外観について「…簡素質実は常に全体の設計に考慮された事であるが、然かも端麗にして、冒し難き気品を有し、会員が社会に対して恃すべき態度其のものを会館の外貌として居るので、古典建築の有する雅味と、荘重と、近代建築の有する気品と明快と、此の四つの要素が調和されて、新会館の様式が生れ出たのである」。当サイトにはコンペの、高橋貞太郎、北澤五郎、中村與資平の各プラン(透視図)が載っている。
昭和11年、2・26事件の際には、第14師団東京警備隊司令部が置かれ、昭和17年には屋上に高射機関銃が据えられという。戦後は米空軍に接収され、「学士会館士官クラブ」として使われた。返還されたのは昭和31年7月21日。



学士会館新館。1986(昭和61)年9月23日

旧館から後退して建つ5階建ての部分は、1937(昭和12)年9月20日の開業の新館。設計者は藤村朗(あきら)。三菱地所の社長になった人だ。兄の藤村操(みさお)は1903(明治36)年に華厳滝で投身自殺したことで有名。
学士会館の運営は最初、築地精養軒に任された。昭和7年10月に「学士会館精養軒」として独立、今も続いている。

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今荘。千代田区神田神保町3-15。2006(平成18)年3月31日

さくら通り西側の入口の交差点に向いた角にあるうなぎ屋。大通りは、一般的になっているのか疑問だが「雉子橋通り」で、靖国通りから北は「専大通り」という。この辺りはいつのまにか集英社のビルが立ち並んでしまった。
店のメニューは「うな重」の一品だけで、座敷席だという。角の隅切りした面に装飾を集中させている。3階の千鳥破風、2階の看板と丸窓、1階の唐破風といった造形で、和食を提供する店だと判る仕掛けだ。それらがないとただの家になってしまう。またそれがあるために看板建築ということになっている。
千代田区>景観まちづくり重要物件>今荘』によると、竣工=昭和 8 年(1933)頃、設計者=佐藤組。「震災復興期の木造3階建の建物で、看板建築の一種ともいえるが、独自の和洋折衷デザイン、特に、震災復興の区画整理で初めてできた角地の隅切りを活かしたファサードが印象的」としている。千代田区景観まちづくり重要物件の指定は平成 15 年6月。
今荘は明治30年(1897)に、牛鍋屋として創業したという。それが1980年頃まで続いていたらしく、昭和30年頃の火保図は「今荘牛鍋料理」、昭和44(1969)年の地図では「今荘食堂」、昭和52(1977)年では「すきやき今荘」という記載だ。うなぎ屋になったのは案外と新しいようだ。

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朝田質店。千代田区神田神保町2-21
1987(昭和62)年11月1日

さくら通りの裏に今も残っている看板建築の建物。しもた屋になっているのだろうが、正面の「看板」部分は建築時の状態がよく保たれているように見える。大中小の半円アーチを使ったデザインが面白い。地図で質屋だったと知らなければ個人医院かと思ってしまうだろう。写真では壁の色が何色ともつかないのだが、1994年に撮った写真では白く塗り直されている。
昭和30年頃の火保図では「朝田友一質ヤ」。その地図では写真左の「平田染工」が「平田化学工業KK」ですでに載っている。

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第一相互銀行別館。千代田区神田神保町2-19
左:1983(昭和58)年9月、右:1991(平成3)年6月30日

神保町のさくら通りに今も残っている銀行だった建物。『日本近代建築総覧』では「第一相互銀行(旧相互無尽会社)、建築年=昭和5(1930)年、構造=RC4階建、設計・施工=安藤組」。
『ウィキペディア』によると、「相互無尽株式会社」は1911年に「相互貯金株式会社」の名称で神田神保町(現在地なのだろうか?)に創業。 1951年10月、相互銀行法の施行で「第一相互銀行」とした。80年代には地上げ屋や暴力団の総会屋も絡んだ融資で問題になり、大蔵省の指導で1989年10月に「太平洋銀行」が発足。それも1996年3月に経営破綻。6月にさくら銀行(2001年4月、住友銀行に吸収合併され「三井住友銀行」に)の出資で「わかしお銀行」が発足。2003年3月、三井住友銀行と合併。
左写真の頃はまさに第一相互銀行別館で、横丁の向かいに「第一相互銀行本店」があった。右写真は太平洋銀行だった時期。
東京 DOWNTOWN STREET 1980's>千代田区神田神保町~その一(2011.05.03)』で1981年撮影の写真を見ることができる。横丁側入り口上部の長方形の出っ張りが井形の飾りだったと判る。



左:旧第一相互銀行別館。2007(平成19)年4月14日
右:三井住友銀行千代田営業部
2009(平成21)年12月撮影のストリートビューより

太平洋銀行は2003年3月に三井住友銀行に替わり、神保町の店舗は「千代田営業部」といった。その後、2012年10月で廃止され、駿河台下の神田支店に統合され、そこが神保町支店となった。現在は千代田営業部のビルは建て直され、2015年5月に「神保町寮」(10階地下1階)として竣工した。マンションなのだろうか?
別館は周囲にビルが建ち、さくら通り側の入口が塞がれている。2009年に外装を改装して塞いだ部分や白く見える壁の部分もきれいになった。横の壁のスクラッチタイルを持ってきて貼り直したりしたらしい。

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北原ビル。千代田区神田岩本町15。1987(昭和62)年9月13日

昭和通りの和泉橋のすぐ南、柳原通りを西へ入ってすぐのところ。『日本近代建築総覧』に「北原プレス機械K.K.、神田岩本町15、建築年=昭和4年、RC3階建て、設計・施工=清水組」とあるビル。「北原プレス機械」というとメーカーのような感じだが、ビルの横に「北原商店」の文字の跡が残っていて、卸売業だったのかもしれない。
壁のスクラッチタイルが建築時のものなら、相当いい保存状態といえる建物だ。コンクリートがむき出しになっている壁面は剥落する前にタイルをはがしてしまったのだろうか。
喫茶店の「アカシヤ(明石屋)」はレポートしているサイトが幾つかあり、それによると創業は1973(昭和48)年。内部は開業当時のままのようで、テーブルに砂糖壺が置いてあり、モーニングサービスもやっている。
3階に袖看板を出している「産業資材新聞社」の創立は1968(昭和43)年。創立時から北原ビルに入ったかどうかは知らないが、アカシヤよりは先だったのかもしれない。


近影。2008(平成20)年3月18日

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ミネギシ。千代田区神田岩本町1。1986(昭和61)年12月30日
右上:カンノ。1987(昭和62)年9月13日

昭和通りの和泉橋のすぐ南、柳原通りを西へ入ると北原ビルという昭和2年に建てられたビルがある。そのビルの向かい側にあったビルと看板建築である。
1階に紳士服のミネギシが入っているビルは1989年9月に現在のビルに建て替わった。『日本近代建築総覧』に「ストック・アンド・ゼノックス第4別館、神田岩本町1-9、建築年=昭和4年、RC4階建て、設計=鉄道省技師」で載っている。元はどういう会社が建てたものか判らないが、戦後まもなくの地図では「株式会社井上商店」。ストック・アンド・ゼノックスという会社は、念のためネット検索してみると、1971(昭和46)年の創立で1993(平成3)年に倒産したようだ。

角の看板建築の家は「㈱カンノ/東京カッティング神田営業所」と「エーゼット」の袖看板があるが、下写真のシャッターの張り紙は「店舗募集」だろうか。
東京ダウンタウンストリート1980's>千代田区岩本町~その三(2011.06.05)』で1982年に撮られた営業中の写真が見られる。店内に既製服が吊るされていて、「カッティング」とは布地の裁断のことらしい。

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黒田栄次郎商店、海老原商店。千代田区神田須田町2-13。1983(昭和58)年8月

昭和通りの和泉橋のすぐ南、柳原通りを西へ入って万世橋の方を見た昭和の家並み。
写真左の黒田栄次郎商店は1987年撮影の下の写真では取り壊されている。『看板建築』(藤森照信/増田彰久、三省堂、1988年、1500円)には「…海老原商店の左側はここ数年の〈地上げ〉狂騒の中で放火され焼失した。」とある。海老原商店も被害を受けたが、すぐ修復したという。それが下の写真で、上部の銅板の飾りは作り直したばかりなので緑青の色には至っていない。現在のYKS黒田ビル(黒田機器KK )は1992年の完成だから何年間かは駐車場にしていたのかもしれない。
海老原商店とその右の「高山松蔵」は『日本近代建築総覧』に「海老原商店、建築年=昭和3年、木造3階建、設計=黒沢画伯(正面デザイン)、施工=鴻池組、看板建築」「高山巌宅、建築年=大正12年」と記載されている。この2棟の建物については『看板建築』に内部の写真や間取りとともに解説されている。海老原商店は明治20年に海老原利八が、古着の商店街として栄えていた柳原の一画に店を構えたのが始まり、とあり古着商から始まったらしいが、現在の商売はわざと伏せたのだろうか、書かれていない。
『看板建築』では「高山家」は仕舞屋の造り、としている。この家は2、3階の窓の雨戸が銅板貼りだ。銅板を貼るのは防火のためだから、雨戸も銅板貼りにすることは当然のことかもしれないと改めて気が付いた。2階窓の手すりの下に「高山松蔵」の銅板の表札がある。




上:にんべん洋服店。神田須田町2-13
1987(昭和62)年9月13日
左:源商店。1987(昭和62)年2月1日

高山家の右は銅板貼り看板建築の二軒長屋だろう。左の家の上部の壁に書かれている字は右から「ナラ洋服店」。二軒長屋と高山家の2棟3軒の銅板貼り看板建築はつい最近まで残っていたが、2014年5月に取り壊されて現在はTimesの駐車場になっている。
出桁造りの源商店と車庫として使われているらしい角の看板建築の家は、現在マンションに替わっている。その「アーバイル神田イースト」(10階建て34戸)は2004年2月の完成。写真の右枠外には横町を介して伊関電気

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舘ネーム店。千代田区神田須田町2-15。1987(昭和62)年9月13日

神田川の南に沿って、万世橋から柳橋まで東西に通じている通りを柳原通りという。江戸期は神田川の水が増水しても下町にいかないように土手が築かれて「柳原土手」の地名で、古着屋が並んでいたという。それが明治期もうけつがれ、通りには市電も走った。大正期には古着が洋服の既製服に替わってきて、戦後は岩本町を中心に繊維業の密集地になっている。
写真は柳原通りの、昭和通りと山手線ガードの間の辺り。銅板張りの看板建築が並ぶ。中央の同じ形の3軒あるいは4軒は長屋のようだ。店は左の横町の角から「伊関電気、まりっぺ、舘ネーム店、都築商店、215ビル(古畑)」。現在は写真の看板建築はまとめて「クレアール神田」(2004年6月築、13階建て68戸)というマンションに替わった。その1階に伊関電気と舘ネーム店が無事に入っている。

テレビでも取り上げられる「岡昌裏地ボタン店」は215ビルの右にある。『東京ダウンタウンストリート1980's>千代田区神田須田町(2011.05.22)』には、1982年に撮影した看板建築の町並みが載っている。そこには岡昌裏地ボタン店の左にあった「柴田ミシン商会」の看板建築も記録されている。


伊関電気。神田須田町2-15。1987(昭和62)年2月1日

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