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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:金沢クリーニング。台東区浅草橋2-10。2013(平成25)年4月29日
右:小林玩具製作所。浅草橋2-10。1992(平成4)年5月2日

当ブログ前回の銅板葺長屋の並びで、その一つ北の街区。左写真右の白い壁の家がうなぎの「なかや」で、3階の壁に見えるところは衝立のようなものだと判る。グレーのモルタル壁の家は1986年の地図では小林玩具製作所。右写真右下に玩具の自動車が写っているが、あるいは製作したもの? 路地との角の看板建築はクリーニング店だった家。トタン貼りらしく、錆が浮き出ている。トタン板はタイル張りに見えるようにだと思うが、格子模様が打ち出されている。



左:和助、右:食楽。浅草橋2-16。2013(平成25)年4月29日

左写真は金沢クリーニングの北の街区の路地。この辺りには戦前からある長屋や一戸建ての家がまだけっこう残っている。それは路地の奥だけではなく、通りにも数は少ないが、出桁造りの商家や看板建築の店がまだ見られる。
右写真は和助の路地を抜けた通り。通りを北へ行くと蔵前橋通り渡って鳥越明神通りにつながっている。写真左のフクヤデンキ(福屋電気)は、ナショナルの看板がまだかかっているので廃業したのかもしれないが、建物の横に銅板の造作が残っている。

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サンケイメリット。台東区浅草橋2-6。2011(平成23)年12月18日

福井町通りというのは総武線の北を、清洲橋通りと江戸通りを結ぶ東西の通りで、浅草福井町・浅草新福井町はJR浅草橋駅の北にあった旧町名。その通りに向いて「東宝商事」の看板がかかる古いビルがある(「福井ビル、山城屋」)。その横を入ったビルの裏手に2棟の銅板葺二軒長屋が並んでいた。今、ストリートビューを見たら、すでに小さなマンション(サンブリヤ浅草橋、4階建て9戸、2013年1月築)に建て替わっていた。


サンケイメリット。浅草橋2-6。2011(平成23)年12月18日



左:旧なかや(うなぎ)。浅草橋2-6。2013(平成25)年4月29日
右:Googleマップ>ストリートビューより

1枚目写真の左に写っている建物で横丁同士が交わる四つ角に向いている。その角の方から建物の表面を撮った写真がないので、ストリートビューからお借りしたのが右の写真。隣の稲生治療院は昭和41年の地図に「マッサージ稲生」と出ている古い治療院。さらに隣の民家は木造長屋の1軒が残っているものだと思う。
四つ角の向かい側は「なかや」といううなぎ屋だ。そのなかやの建物は3階建てのビルに見えるが航空写真では2つの切り妻屋根が見え、古い家を看板建築風に改修したものらしい。昭和41年の住宅地図をみると、写真の角の家が「うなぎなかや」となっている。その家が手狭になったためか、向かいの二軒を買い取ったかなにかして移ったのだろう。

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足立布団店。台東区浅草橋2-20。1992(平成4)年5月2日

前の通りは左衛門橋通りという通称名が付いたJR浅草橋駅西口から入谷の金美館通りに至る通りで、その都立忍岡高校がある辺り。
クリーム色のモルタル壁、洋風窓の家は切り妻屋根の妻側を看板建築にしたものらしい。今はマンション(メディウス浅草橋、10階建て18戸、2003年11月築)に建て替わっている。その右は1986年の地図では片岡商店。この家は住宅に改装されたが残っている。出桁造りの家は今もそのままの姿で残っている。1986年の地図では「足立フトン」。



左:清水勝商店。浅草橋2-20。1992(平成4)年5月2日
右:民家。浅草橋2-20。2013(平成25)年4月29日

清水勝商店は上段写真の家の裏に今もある商家。出桁造りの家だが、一階の屋根を省略した形だ。現在は1階右側の引き戸とその上の窓がアルミサッシのものに取り換えられたが、それ以外は写真のままだ。
左衛門橋通りと清水勝商店のある裏通りの間に路地が1本通っている。右写真の民家はその路地の角。3階建てというのが珍しい。屋根の付いた門が残っているが、庭をつぶして駐車場にしている。外壁が改修されているが、元は和風下見板だったのだろう。

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門前長屋。台東区元浅草2-7
2013(平成25)年8月3日

「門前長屋」という言葉は『旧浅草区まちの記憶』(森まゆみ著、平凡社、2008年、1600円)という本で知った。お寺の門の前にある長屋のことだろうが、寺の家作でもあることを意味しているのかもしれない。写真は願寿寺というお寺の門の横に建っている四軒長屋と二軒長屋が並ぶ景観。清洲橋通りから横丁を入ってすぐのところだ。
四軒長屋の中央には裏側への通路が開いている。入ってみたい誘惑にかられるが、さすがにできない。その通路の左の家の玄関がちょっと凝った和風の造りで、長屋とは思えない佇まいである。既出の本によると、大和家八千義という安来節の師匠の家で、木馬亭で公演もしている人だそうだ。こういうブログでは個人名は出さないのルールだが、ここの師匠の場合は森氏が取材していたときに呼びかけて家に上げて話をしているから、かまわないだろう。「入ると右が二畳ほどの玄関、左に二畳、上がった四畳半が茶の間兼稽古場」ということで、若い女性に三味線の稽古をつけている写真も載せている。師匠がセーターにズボン姿なのがなんだか変な感じがする。


2006(平成18)年11月29日

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古賀青果店。台東区元浅草2-2。2013(平成25)年8月3日

斉藤燃料店の長屋の向かいにある二軒長屋。正面は2階が後退し、1階の屋根の上に物干し台を置いた、割とよく見る長屋なのだが、奥行きが深いのが特徴。長屋の右側はまだ開いていないが八百屋である。左はしもた屋らしいが、1986年の地図では「永寿不動産」。角の明治牛乳販売所は戦後の建築だろう。



二軒長屋。元浅草2-5。2013(平成25)年8月3日

浅草通りの裏通りにある看板建築風のしもた屋と二軒長屋。右写真左のマンションは日の出湯があるビルで、二軒長屋の隣にあるが、通りから引っ込んで建ててある。日の出湯の入り口はマンションの真ん中にあるが、湯船洗い場などの本体は長屋の裏側にあるのではないかと思う。

元浅草の町名は昭和39年10月から使うようになったが、あまり評判がよくない町名である。浅草という地名の発祥の地というわけでもなく、「元」の意味が不明なのである。ぼくは「元は浅草区」ということかと無理に当てはめている。旧町名は永住町(ながすみちょう)。寺町といっていいだろうか。永六輔の実家は最尊寺というお寺で、元浅草3丁目にある。住職が「永」という名前の人が他にも住んでいられるようで、永さんが住む町でもある。

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四軒長屋。台東区元浅草2-5。2013(平成25)年8月3日

元浅草2丁目の中心辺りに妙経寺(みょうきょうじ)という寺がある。その山門の左右に写真の長屋が建っている。寺の家作ではないかと思う。四軒長屋の角は斉藤燃料店だった家だが、あきらかに空き家だ。屋根にネットをかぶせ、開口部はベニヤ板で塞がれている。前面の1階の屋根もなくなっている。『 東京ダウンタウンストリート1980's>東上野、元浅草(2012.05.02)』の写真では、まだベニヤ板の処置はしていなくて、建物の角に張り出していた、「斉藤商店」の看板が残っている。


酒井タバコ店。元浅草2-5
2013(平成25)年8月3日

妙経寺山門の左側は改修された二軒長屋のように見えるが、屋根の高さが異なるので別個の家かもしれない。タバコ屋は自販機のみの営業。親切に灰皿を置いている。隣は1986年の地図では「山口製作所」だが、今は住居のようだ。
『近代建築総覧』に「妙経寺・納骨堂、元浅草2-5-13、建築年=昭和14年、構造=RC、設計・施工=大林組、聞込みによる」というのがある。山門からまっすぐ奥に見えるお堂のことだろうか。この寺で古い建物はそのお堂だけのようだ。

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栗田板金。台東区元浅草2-9。2013(平成25)年8月3日

おおまかに言って元浅草2丁目の北半分は、空襲での焼失をなんとか免れた区域である。今でも戦前築の木造家屋が20軒程残っている。『東京ダウンタウンストリート1980's>東上野、元浅草(2012.05.01)(2012.05.02)』に触発されて、つい最近歩いてきた。
上の写真は浅草通りの松ヶ谷1交差点で交わる南北に通っている左衛門橋通り。その浅草通りの裏通りとの角にあるのが栗田板金という町工場。その左は立派な出桁造りの商家だがしもた屋のようだ。1970年頃の地図になんの商売だか判らないが「三河屋」となっている。写真左のモルタル塗の家は戦後に建て直したものだろうか。1970年頃の地図では「台東自動車部品」。



堀田建工。元浅草2-9。2013(平成25)年8月3日

浅草通りの裏に残っていた長屋風の家。空き家だろうと思ったが裏から二階の部屋に服が干してあるのが見えた。隣は1階にシャッターが取り付けられ、二階はサイディングで塞がれている。「堀田建工」の文字が残っているが使われてはいないようだ。さらに三軒長屋が並ぶ。この長屋はきちんとリフォームされて使われている。
この古い家並みの裏は栄蔵寺で、写真右端に写っているドーム屋根は昭和初期に造られた納骨堂。『近代建築総覧』に「芝山仁王尊出張所栄蔵寺・納骨堂、建築年=昭和初期、構造=RC1階建、設計者=(大工)」の記載がある。

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永寿総合病院。台東区元浅草2-11
上:1986(昭和61)年10月26日
左:1985(昭和60)年10月27日

浅草通りと清洲橋通りが交わる稲荷町交差点の角にあった病院。2002(平成14)年2月に、東上野2丁目の区立西町小学校の跡地にビルを新築して移転した。解体されたのはその後らしい。永寿総合病院のHPによると、1956(昭和31)年2月に160床の病院として開院。「永寿総合病院」の名称は1965(昭和40)年11月から、ということだ。
建物は『日本近代建築総覧』では「永寿医院、建築年=昭和3・4年、構造=RC6、竣工時アパート。昭和31、35年増改築。地下1階」。6階部分は増築したものだろう。空襲での焼失から免れた地域にあるので、内部も焼けずに済んだビルと思われる。『 昭和16年の台東区』の「西町」の地図に「古澤ビル」(南稲荷町114)と記載されている。
下の写真は解体前の病院の外観。病院らしく壁を白く塗って明るく見せている。6階の窓が5階以下の窓に合わせたデザインに造り直されている。
このビルはぼくにはおなじみの以下のサイトでも取り上げられている。
廃景録>消えた近代建築>永寿総合病院
建築・都市徘徊>Tokyo Lost Architecture>永寿総合病院



永寿総合病院。1988(昭和63)年5月1日

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田原町ビル。台東区西浅草1-8。1988(昭和63)年5月1日

昭和61年5月に解体された「仁丹塔」が乗っていたビルである。その名残りのように、屋上に大きな仁丹の看板を置いているが、これは広告塔があったときからあったものだ。最初に仁丹塔が建ったのは1932(昭和7)年で、そのときも、写真のビルの上に組上げたと思うのだが、戦前の塔の写真は見たことがない。田原町ビルは押上げ窓や階段室の丸窓などから戦前に建ったものと思われるが、なにも判らない。
最初の塔は1944(昭和19)年に「金属供出」で取り壊された。空襲で焼け崩れる前に取り払ったのだろうか。戦後の1954(昭和29)年になって、塔は再建される。仁丹は昭和50年頃までは割と普通に多くの人がもっていた。
ぼくは知らなかったが、仁丹塔の下に蛇屋があったという話を聞く。「フクチャン」というのがその店名らしい。上の写真、ビルの1階右側に「フクチャン本店」の看板が読める。『My favorite things 2013>蛇屋さん』では「福ちゃん」、『落合道人>新十二階がそびえていた交差点』では「ふくちゃん」の表記だが、いずれも蛇料理の店としている。

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安井商店。台東区雷門1-15。1986((昭和61)年10月26日

雷門通りに、今では「本屋総本家浅草雷門店」の店舗になって残っているビル。安井商店は皮革工具を扱う店ということだが、今は後ろの2階建ての家(住居として建てたのだと思う)で商売をしている。大通りに面した店舗を飲食店に貸して、経営は安定していることと思う。
『日本近代建築総覧』に「建築年=大正12年?、構造=RC3、年代は不明確」で載っている。なにやらなにも判らないらしい。雷門通りに向かって建っている他の建物と位置がそろっているから、関東大震災後に通りを整備してから建てたものではないかと想像できる。外観は大正時代を想起させるものがある。
雷門1丁目の西半分は、以前は浅草田原町という町名で、地下鉄の駅名は「田原町」のままだからこの町名も半ばまだ生きている。浅草ゆかりの文学者、久保田万太郎が生まれたのが浅草田原町三丁目(現在の雷門1-15・16)で、雷門永谷マンション(竣工=1977年、10階建、56戸)というマンションの角に文学碑が立っている。このマンションが建つ前は協和銀行雷門支店だった。『総覧』に「協和銀行(旧貯蓄銀行)、建築年=昭和13年、現在取壊し中、葉書による回答」で載っている。
安井商店の隣の「宮師宮嶋」は、ネット検索すると川口市の仏具店として出てくる。写真の店はその東京支店? あるいはここから移転した?

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