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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




マリンカ、中根商店。台東区浅草橋3-8。1988(昭和63)年4月10日

忍岡高校の北の通りに、現在「シティーコープ浅草橋Ⅲ」(10階建て、59戸、1993年3月築)というマンションになっているが、それが建つ前の家並み。角にトタン張りの看板建築にした二軒長屋。その左側は純喫茶マリンカ、角の右側は木の表札がかかっていて家内工業所のように見える。この建物は昭和40年代の地図では「やなぎや」となっている。
マリンカの左のモルタル壁の看板建築は中根商店(帽子製造業)。前面は戦後の改装だろうか。現在のマンションに今も店を構えている。昭和40年代の地図では「萩原ボタン」。



八木無線電気、太郎。1987(昭和62)年8月2日

1枚目写真の別方向からの写真。写真左の「テレビ」の看板が残っている店は八木無線電気。どうみても廃業している。同じ建物の右側は「太郎」という居酒屋らしい。1枚目写真では、同じ看板の裏側だと思うのだが「居酒屋藤英」となっている。

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小西屋。台東区浅草橋3-7。2013(平成25)年4月29日

都立忍岡高校の北の通りに残る看板建築の家並み。どれもしもた屋のようで、古い住宅地図で個人名ではなさそうな店名を探すと「小西屋」と「天弁すし」があるが、どの家だったのかは特定しづらい。
下の写真は1枚目写真の家並みの裏の通り。二軒長屋、三軒長屋と出桁造りの商家が残っている。


左:旧・小川商店。浅草橋3-7。2013(平成25)年4月29日
右:㈲ケイ・ワイ。浅草橋3-7。2011(平成23)年12月18日


出桁造りの家。浅草橋3-7
2013(平成25)年4月29日

4軒はばのよく見る規模の出桁造りの家。二階の銅板を貼った戸袋の色合いが渋い。他にあまり見ないのは1階の屋根に載せた手摺りの意匠だ。楕円形の穴を並べた形になるように柱の四隅に板を差し込んでいる。写真右は撮影時は時間貸しの駐車場だが、今は住宅が建った。

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望月商店。台東区浅草橋2-22。2003(平成15)年11月16日

都立忍岡高校と育英小学校の間の裏通り。角の銅板貼りの看板建築は家内工業所とその住居のような塩梅だが、二軒長屋なのかもしれない。その右の看板建築の家は居酒屋らしく、看板が出ている。写真左の白い壁の家は1986年の住宅地図では「望月商店」。
現在、角の家が住宅に建て替わったが、写真右の看板建築と望月商店の建物は残っている。


田野株式会社(糸・手芸品卸)
浅草橋2-22。1992(平成4)年5月2日

1枚目写真の左の横丁を奥へ行くと左衛門橋通りに出る。その手前にある建物で、わりと立派な出桁造りの商家だ。現存しているが建物の前面は改装されていて、今では写真の建物とは分かりにくい。入っている会社も「袋物製造卸/東京ハナフサ」(革の財布が主力らしい)と変わっている。

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旧福井中学校。台東区浅草橋1-22。2003(平成15)年11月16日

台東区立福井中学校は1991(平成3)年4月に蔵前中学校と合併して浅草中学校になった。浅草中は旧蔵前中の場所だから、福井中は実質廃校である。校名は旧町名「浅草福井町」によるが、その福井町は越前福井藩松平家の屋敷があったことに由来する。
校舎は関東大震災後の復興小学校だ。『日本近代建築総覧』では「区立福井中学校(旧東京市福井尋常小学校)、建設年=昭和4年、構造=RC3階建、設計=東京市、施工=松村組、備考=「東京市教育施設復興図集」による/地下1」。
福井小学校は校舎が空襲で焼けてしまったまま、再興されずに廃校になってしまったようだ。焼けた校舎をなんとか修復して、新制教育制度で必要になった中学校として使うことになったのだろう。残念ながら福井中が存在していた頃の写真は撮っていない。2010(平成22)年10月に解体され、2013年2月にヒューリック浅草橋ビル(12階建て地下2階)というオフィスビルが竣工した。

上の写真は校舎の東側(左)と北川(右)、下の写真は東側の玄関と裏口。3段目の写真が西側。


1992(平成4)年5月2日


左:2009(平成21)年11月15日、右:2007(平成19)年6月7日

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四軒長屋。台東区浅草橋5-1。1992(平成4)年5月2日

左衛門橋通りに面して今でも残っている四軒長屋。長屋の裏は都立忍岡高校である。出桁造り風で瓦を残しての四軒長屋は今では貴重だ。小林不動産は下の写真では来吉(らきち)というラーメン店に替わっている。2007年頃の開店らしい。三菱鉛筆の看板は荒井商店。
長屋の南にほとんどくっつくように建っている日本家屋の民家も見ごたえがある。通りに面した格子窓や玄関の格子戸、二階の窓の手すりなど、原形のままかと思わせ、ほとんど改修されてこなかったようである。町屋の民家としてよくある造りとも思えないが、建て替えるなら、そっくり江戸東京たてもの園に移してもいいくらいの建物ではないかと思う。


左:1992(平成4)年5月2日
上:2011(平成23)年12月18日

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宇田川自転車店。台東区浅草橋2-25。2011(平成23)年12月18日

育英小学校の近く、蔵前別館の斜め向かい。宇田川自転車店は「HONDA」の看板がそのままになっていて、以前はバイクも売っていたのだろう。壁の色と同じ灰色に塗りつぶされて写真では分からないが、初代ホンダシビックと思われる車のシルエットが残っている。
隣の二軒長屋は二階が後退したタイプで、あまり改修されずに残っている。今は左の家がガラス戸に「革漉所横野」の文字を入れている。なお長屋の向かい(浅草橋3-5)には「勝村皮スキ所」の家がある。



トタン貼り看板建築、松本鍼灸治療院。浅草橋2-24。2013(平成25)年4月29日

宇田川自転車店の西の街区。左写真左の白い壁の家の左が山路制帽(今はビル)だった。路地との角のトタン張りの看板建築は1階を車庫にしていて、しもた屋だろう。その左の家は向柳原診療所が入っていた。トタン張りの家と合わせて三軒長屋のようにも思える。今はその2棟とも取り壊されて駐車場にしている。
右写真の松本鍼灸治療院は左写真の家の横を入ったところにある。右奥の家と二軒長屋のようだ。

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大化蔵前営業所、大峰時計店。台東区浅草橋2-24。1987(昭和62)年8月2日

手前の通りは忍岡高校と育英小学校の北を東西に通っている通りで、両校の中間あたり。現在は写っている建物は左の太田ビルを含めて全て建て替わってしまったうえ、通りには歩道が設けられて、家並みは一変してしまった。場所は店名を古い地図で探すしか特定のしようがない。
看板建築の二軒長屋が横丁との角をはさんで3棟並んでいるのだろう。角の家はしもた屋になって久しいのか、古い地図を見ても個人名の記載だ。横丁を入った右の看板建築の1軒が下の写真の状態でつい最近まで残っていた。


ナガホリ。浅草橋2-24
2013(平成25)年4月29日

1枚目写真の右に写っている看板建築の左側の家。袖看板が残っていて「東京釣具協同組合員/ナガホリ」だから釣具店だったのだろうか。たぶん釣具を作っていた家内工業所のように思える。現在は取り壊されて空地に。右の駐車場は伊藤製作所の跡、そのさらに右に山路制帽(今はビル)があった。1992年のその写真を見ると、角の看板建築の家は現在の3階建てのビルに替わっている。

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左:大東冷器、東京ミキ。台東区浅草橋2-17。2003(平成15)年11月16日
右:あかねや。浅草橋2-23。2013(平成25)年4月29日

左写真は都立忍岡高校と区立育英小学校との間の南北の通り。トタン貼りの看板建築はガラス戸に「大東冷機…」と読める。現在は取り壊されて空地だ。タイル貼りの看板建築の右の小さいビルは左衛門橋通りからくる横丁との四つ角に向いている。その四つ角の北西の角があずま床で、看板建築が並んでいた。今、あずま床はビルに建て替えられて「Az hair」の店名になっている。
右写真は四つ角を西へ行った、Az hairと同番地の西の角。看板建築風の3棟は戦前からある古い家を改装したものかと思う。奥の看板をあげている家があかねや呉服店。左奥の4階建てマンションは山路制帽があったところ。


誠望堂。浅草橋2-21
2013(平成25)年4月29日

あかねやの向かい側。角の日本家屋の家は「有限会社誠望堂」の看板をかけている。昭和38年の航空写真だとかなり大きい切り妻屋根の家が写っていて、元は四軒長屋だったのだろう。家の後ろは空地で駐車場になっているが、1986年の住宅地図では「箭己(せんき?)稲荷神社」。そんな痕跡は見当たらない。

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三軒長屋。台東区浅草橋2-19。2013(平成25)年4月29日

左衛門橋通りの東の裏通りとさらにその東の通り(福井町通りから福井ビルの横を北へ入る横丁)との間の路地に2棟の三軒長屋が縦に並んで残っている。左写真のグレーの壁の方は南側の長屋で、かなり改修が進んでいる棟だ。右写真は北の方の棟で、元の形がわりと残っている棟。南の棟も元はこのような形だったかと想像できる。下左の写真は北の長屋を北から撮ったもの。



左:三軒長屋。浅草橋2-19。2013(平成25)年4月29日
右:ダンヂ商店。浅草橋2-19。1992(平成4)年5月2日

右写真は左衛門橋通りの東の裏通りに、今でもあるモルタル壁の看板建築。路地との角の家が1986年の住宅地図で「ダンヂ商店」。妙な店名だと思ったが古い地図では「丹治」だった。右の路地を入ると三軒長屋が並ぶ路地が交わり、そこを過ぎて金沢クリーニングのところに出る。

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左・中:三軒長屋。台東区浅草橋2-7
右:魚すえ。台東区浅草橋2-9。2013(平成25)年4月29日

左及び中の写真は銅板葺の長屋(現在はマンション)の向かい側の路地を入ったところ。その路地にまた路地が交わっていてその角に古い家が残っている。古い航空写真を見ると三軒長屋のようで、3階建ての家は長屋の真ん中の一戸を改装してのことらしい。
右写真は中写真の路地を抜けた横丁。写真右がなかや(うなぎ)。看板建築に挟まれているのが二軒長屋。その右の方が1986年の地図では「魚すえ」。1966年の地図では右の看板建築が「石渡洋服店」、二軒長屋が「福山鮮魚店」。



左:寿し政、右:西村印刷。浅草橋2-18。2013(平成25)年4月29日

魚すえの横丁から北へ2本目の路地が寿し政のある路地。古い二軒長屋に出店している。
右写真の銅板貼り看板建築は金沢クリーニング店の少し北へ行った向かい側。西村印刷だった家は写真左の青い看板建築のほう。銅板貼りの家は玄関が鉢植えで閉ざされているようだが、どこから出入りしているのだろう。

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