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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





勝造商事。台東区寿3-19
上:1986(昭和61)年10月26日
左:1988(昭和63)年5月1日

国際通りの寿2丁目交差点のすぐ南にあったビル。『日本近代建築総覧』に「勝造商事K.K.、建築年=昭和2年、構造=RC3、旧片倉工業K.K.所有の建物」となっているビル。正面をアールデコのデザインで飾ったしゃれたオフィスビルといった感じだ。
「勝造商事株式会社」はネット検索しても出てこないので、今は廃業したかと思う。唯一の情報は「散歩用おもちゃ」の新案特許の申請書が出されていることだ。玩具メーカーだったのだろうか。
昭和30・40年代の地図では、この建物は「同和信用組合」である。「在日朝鮮人のために設立された朝銀東京信用組合の前身」ということだが、1952(昭和27)年6月の設立で、1972(昭和47)年9月に「朝銀東京信用組合」に改称したのだか合併したのだかした。現在は破綻したかどこかに吸収されたのだろうが、ぼくの興味の範囲を超えている。
勝造商事の左は「新栄産業別館」だが、現在はこのビルと勝造商事のビルとで「パークキューブ浅草田原町」(2006年3月竣工、15階建、76戸)というマンションに建て替わっている。

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東京厚生信用組合浅草支店。台東区駒形1-1。1987(昭和62)年10月4日

江戸通りの厩橋交差点のすぐ北にある、古い小さなビルだ。地図でみると奥行きはけっこうある。ファサードは西洋の様式建築の要素を現代風にアレンジして配置したような具合だが、アールデコの要素までありそうに思える。ネットでは昭和5年築としたのがあった。
東京厚生信用組合は昭和28年の創立で、そうすると元はどんな会社が建てたものか気になってくる。現在の看板に引きずられて、元々金融関係のビルに見えてしまうが、はたしてどうなのか。『goo古地図』の明治の地図に厩橋交差点の角に「東京貯蔵銀行支店」とあり、あるいは関係があるのだろうか。
王子運送浅草営業所は荷物の集配をするための倉庫かガレージのような建物らしい。現在はマンション(プリムローズ浅草駒形弐番館、2003年12月築)に建て替わった。その右隣、下左の写真にわずかに写っているのは「第一金庫ビル」で、だいぶ古くなった姿で残っている。



左:1987(昭和62)年10月4日、右:2008(平成20)年3月1日

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タイガービル。台東区蔵前4-30.1987(昭和62)年10月4日

国際通りに面して建つ、戦前のアパート。2008年3月に、文化庁が指定する登録有形文化財になった。『 文化遺産オンライン>タイガービルヂング』によると、「建築年=昭和前期(ネットではもっぱら昭和9年)、1955年改修、RC5階地下付」で、「スクラッチタイル(こういう薄い色もありか?)貼の外壁で、当初はエレベーター付の高級賃貸集合住宅として建てられた」。
3-5階にベランダがあってアパートらしい外観だ。建物両側の丸窓は階段室のものかと思っていたが、よく見るとそうではない。階段室は後ろの両側にあるようだ。



左:2008(平成20)年3月1日、右:2005(平成17)年7月16日

この辺りの旧町名は「浅草桂町(あさくさかつらちょう)」といった。昭和16年3月1日の起立だから、そう歴史がある町名でもない。地元の名士で、逓信大臣にもなり、東京市長を在任中に亡くなった頼母木桂吉(たのもぎけいきち)の功績をしのんで付けられた町名という。春日通りを走っていた都電に、「桂町」電停があった。昭和39年1月1日には今の蔵前3・4丁目に変わった。

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蛇善。台東区蔵前4-1。1987(昭和62)年10月4日

蔵前橋通りの蔵前1丁目交差点(江戸通りと交わる)がすぐ写真右にある。現在もほとんど変わらない景観で、写真右に写っているカメラの「一光堂本店」がなくなって駐車場になったのが建物では唯一の変化である。店も、蛇善は当然として、喫茶店の「チャイム」、「蔵前タオル」は変わっていない。
蛇善は「蛇、マムシを中心とした精力剤等の製造、販売」する明治17年創業の店。角のビルは昭和22年の航空写真に写っている建物のようなので、戦前からあるビルのようである。その裏付けになる資料があった。『東京の下町―私の見てきた浅草・蔵前』(北村金太郎著、サイマル出版会、1977年、980円)に、次の一節がある。
 蔵前の交差点近くの、「へび善」の建物は、たしか戦災に残った鉄筋コンクリートの建物で、戦前には、蔵前としては珍しい建物であった。「へび善」といえば、大正、昭和ひとけた時代には、東京では数少ない蛇屋で、私の少年時代(筆者は1902年生まれ)、へび屋の若い美しいおかみさんが、赤い手がらの大丸まげ姿で、たすきをかけて、白い二の腕まであらわにして、店の縁の下においてある箱の中から一匹一匹つまみ出しているのを、何とも奇異な感じで見つめていたことが幾度かあった。


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浅草御蔵前書房。台東区蔵前3-12。2008(平成20)年3月2日

浅草御蔵前書房は大相撲関係の資料が充実していることで有名な古書店。店構えは古書店というより、やはり古本屋だ。建物は看板建築に分類されるのだろうが、戦後の建築である。戦後まもなく焼け跡の中にとりあえず仮店舗を建てたものが、そのまま残っているものと思われる。壁が下見板なのは、当時、他に材料がなかったのかもしれない。その壁が写真ではかすんで見えるのは落下防止のネットが張られているからだ。『 Kai-Wai散策>浅草御蔵前書房(2005.06.30)』の写真ではネットはまだかかっていないので、2006年頃の処置である。緑色の縦線は、ネットを壁に固定するための棒らしい。
御蔵前書房のHPには「古物商許可…昭和33年5月2日交付」とあるので、開店もその頃かと思う。
最近は本が増えるのがいやで、あまり買わないようにしているのだが、この店で一度買ったことがある。500円程度のものを2冊、奥のレジに持っていったら、座っていたおばあさんはおもむろに天眼鏡を取り上げて値付けのシールを調べて値段を言った。テキパキ応対する若い店員より趣がある。


青木印刷。蔵前3-15
2007(平成19)5月29日

蔵前3丁目は江戸通りと国際通りと春日通りで囲まれた三角形をしていて、その中心あたりに銅板張りの家を見つけた。空襲で焼き払われた地区だから、昭和初年の震災復興期のものではない。戦後になっても銅板貼りの家が建てられた数少ない例かと思う。

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日本住宅無尽。台東区蔵前2-6
1987(昭和62)年10月4日

江戸通り(国道6号)の東側に沿ったおもちゃ卸問屋街の一角で、写真左のビルは増田屋コーポレーション(1724年創業の玩具メーカー、ラジコンの玩具などで有名な会社らしい)のビル。このビルは撮影後じきに建て替えられて、現在のマスダヤビルディングは1989年5月の竣工。写真右の「ハッピーオカダ」(住宅地図では「㈱岡田」)は乳幼児用品や乳母車の店らしいが、ネット検索では捜せず、今はビルもなくなって、その跡地は時間貸しの駐車場だ。「そば処松月庵」はなにも変わりはないが、右のビルがなくなって、交差点の角に建っているかのような塩梅だ。
日本住宅無尽のビルは縦長の窓が古風な感じを出している小さなビルだ。時計塔があるのがなんとも珍しい。昭和30年代の建築かと思える。不思議なのは入り口が隣のビルにあること。増田屋のビルは日本住宅無尽の土地を一部借りて建てられたのかもしれない。建て替わった「ジェイ・エムビル」は増田屋のビルの蔵前駅(都営浅草線)の出入り口のところまで伸びている。

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浅草聖ヨハネ教会。台東区蔵前2-7。2008(平成20)年3月1日(4枚とも)

江戸通りのすぐ裏にある日本聖公会の教会。尖頭アーチの縦長の窓やバットレスで判断がつくが、ゴシック様式による教会である。2008年7月に国登録有形文化財になった。そのデータベースによると、「昭和4年(1929)竣工、昭和30年(1955)改修」の建物で「西(江戸通り側)を正面とし、間口9.1m奥行22mのRC造2階建の礼拝堂を北に、RC造3階建の談話室を南に設け、その間を階段室で繋ぐ。」と解説されている。



礼拝堂の前の壁、下部に「1928」のプレートがはめ込まれている。建物の竣工年とされる1年前だが、プレートを設置した年を刻んだということだろうか。

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蔵前変電所。台東区蔵前2-9
2003(平成3)年11月16日

蔵前というと大相撲が連想される、などと言っても今ではほとんど通用しないだろうが、その蔵前国技館があったところは東京都下水事務所(蔵前ポンプ所)になり、その北に東京電力の蔵前変電所がある。写真の建物は1933(昭和8)年に竣工した建物。事務所棟には見えないから、中に変圧器などを収めた建屋なのだろう。今も機械が入っていて働いているのどうかは分からない。
ここは東電の前身、東京電燈株式会社が1895(明治28)年に浅草発電所を建てたところである。そのさい、ドイツのAEG製交流発電機を導入したが、それが交流50Hzの始まりだという。関東大震災で倒壊した後は、発電所は千住に新設して移された。
建物のデザインはもしかして、1930年代に流行ったというか、幾つかの実作がある「新古典主義」だろうか。第一生命相互館(渡辺仁+松本与作、1938年)、国鉄上野駅(鉄道省、1932年)、日本劇場(渡辺仁、1933)などと共通する気分を感じる。
『Clocks & Clouda>蔵前変電所(2012.12.08)』には、『東京電燈株式会社五十年史』(1936年)から、発電から消費の流れの中で第二次変電所として、竣工まもない蔵前変電所の写真が紹介されている。

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鳴子庵。台東区日本堤1-36。2005(平成17)年7月23日

土手通りの日本堤1丁目交差店から山谷通りへ向かう通りがあるが、鳴子庵はその通り沿いにあった。今はマンションに建て替わっている。
建物は建築時からほとんど変わっていないように見える。細い格子の窓はいかにもそば屋という造りである。二階は全部が宴会場のような客室らしく、道路沿いの二面に巡らしたガラス戸と手すりは、料理屋の造りの一典型なのかもしれない。戦前の、新吉原が賑った頃にはこの店も客が引きも切らずという有様だったか、と想像できる。


菅原クリーニング店
2011(平成23)年9月10日

鳴子庵の横を入ったところで、写真左の白いビルが鳴子庵があったところに建ったマンション。菅原クリーニング店の入っている建物は、聖川福音教会の前面が他と違っているが、看板建築の四軒長屋である。柱の上部に環にリボンを下げたような紋章風のレリーフが付いている。

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平屋の長屋。台東区日本堤1-34。2011(平成23)年9月10日

廿世紀浴場(今は住宅)の隣に、平屋の二軒長屋が2棟並んでいる。空襲では焼失を免れた場所なので、戦前からある長屋らしいのだが、終戦直後に建てられた仮住宅かな、とも考えていた。 『Kai-Wai散策>日本堤の平長屋(2006.11.14)』では、こちらにお住まいのご婦人から「戦災で焼けなかった建物」と聞き出している。
最近撮った上の写真では各長屋の1軒は空き家のようである。当ブログ前回の「廿世紀浴場」の写真では右端の家に「熊木○○病院」の古い看板(当の家が出している看板である)が物干しの支柱に付いていたが、今ではそれも外され家の前の鉢植えもなくなっている。
2棟の長屋の間には路地が奥へ通じている。用もないのに入るわけにもいかないような気がして、いまだに入り込めないでいる。前記の『Kai-Wai散策』によると、路地を入ると、やはり平屋の長屋(たぶん六軒長屋)が向かい合って建っていて、路地はあたかも中庭のようだという。「こんな感じ」の写真を見ると、敷石が1列に並び、鉢植えの草木があふれるように置かれていて、魅惑的な空間のようだ。


青ちゃん。日本堤1-34
2011(平成23)年9月10日

平屋の長屋と同ブロックだが、土手通りの1本東の裏通り。古い家が並んでいるが、戦前からの建物かどうか決めかねる感じである。いずれも住居になっているような中で、居酒屋の「青ちゃん」は夜になれば店を開くのだろう。客はみんなご主人を青ちゃんと呼ぶような顔見知りなのに違いない。

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