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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




五軒長屋。台東区橋場2-14。2005(平成17)年7月23日

明治通りの白髭橋西詰交差点を南に入ったところにあった看板建築の五軒長屋。前の通りは都道314号線で、隅田川沿いに南下して言問橋西詰に出る。
長屋の左は砂尾山橋場寺不動院(橋場不動尊)の参道の路地。「すなおざんはしばでら」だろうか、あるいは「さびざん」? 760年(奈良時代末)の開基、本堂は1845(弘化2)年の建立、その前のイチョウは樹齢700年とか。なかなかの歴史でありがたそうなお不動さんだ。写真の長屋は橋場不動尊の家作かもしれない。2011・12年頃に取り壊されて時間貸しの駐車場になった。解体前はモルタル仕上げの壁が、左端の1軒のように鉄板が貼られてしまっていた。
写真後ろのマンションは「都営橋場2丁目アパート15号棟」、1981年4月及び1987年2月築、14階建241戸。都営橋場2丁目アパートは3棟あるが、棟の番号は住所から付けている。15号棟の住所は橋場2丁目16番地15号。工場の跡地に建てられたのかと思ってしまうが、平屋の長屋や民家が密集していたところを再開発したのだった。

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旧松本医院。台東区浅草3-30
1988(昭和63)年5月1日

言問通りの浅草観音堂裏交差点を北へ入ったところ。横丁との角の家は1階を柱だけ残してガレージにしている。戦前に建てられた洋風の家に見える。周囲は空襲で焼失した区域だから、鉄筋コンクリート造だったために躯体だけは焼け残ったのかもしれない。現在はTimesの駐車場になっている。
昭和26年頃の火保図(当時の住所は浅草馬道2-25)ではコンクリート造の表示があり、横の3棟が「松本寛」となっている。写真左のちょっとだけ写っている店は「マツモト薬局」で、その店の事務所だったとも考えられる。
1966(昭和41)年の住宅地図では角の家は「バー小春」。この地図では、写真左(北)へ行った並びに、「浅草ニュートルコ」(現・九重ビル)と「富士トルコ」(現・プレステージ・アサクサ)が記されている。浅草ニュートルコは昭和26年頃の火保図にも出ている。トルコ風呂の始まりは1951(昭和26)年に銀座に開業した「東京温泉」ということだが、浅草ニュートルコもほぼ同時期に開業したようだ。昭和38年の航空写真では、切妻屋根妻入の看板建築のように見える建物を中心に、その南側に小さな家を数軒まとめたものからなるようだ。

追記(2020年5月11日)
写真の建物は「松本医院」だったものだと、その松本医師の娘さんからコメントを頂いた。それによると、松本さんのおじいさま(内科医)が開業し、お父様(松本寛、慶應義塾大学助教授、 産婦人科医)がそれを継いだ。日本で最初の人工受精児を誕生させた医師だという。1951年に亡くなられているので、その時点で医院は廃業したと思われる。建物は2004年に取り壊された。
マツモト薬局は、閉院後だと思うが、松本さんのお母様が始めた漢方薬の店。

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ニューカレント、アルテ。台東区清川2-5
上:2011(平成23)年9月10日、左:同年9月11日

写真の通りは吉野通り(山谷通り)で、右に東浅草二丁目交差点。南千住-新橋の22番の都電が通っていた時は「浅草山谷町」停留所があったところだ。
「スナック 喫茶 ニューカレント」の建物は戦前築の洋風にした看板建築かと思ったが、この辺りは空襲で焼き払われているから木造の戦前の看板建築ということはない。昭和22年の航空写真を見ると陸屋根の建物がすでに写っている。するとRC造の建物が躯体だけは残ったものか、とも思える。改めてネット検索してみたら『エコノミーホテルほていやブログ>イトーヨーカドーのルーツは山谷だった!』というサイトが見つかった。
その記事によると、ニューカレントは「安田銀行」だった建物で、1932(昭和7)年の写真が載っている。1階は石積み風に造ってあり、2階から上は元のファサードがよく残っている。
記事の主眼は、隣の「イタリアンバル アルテ」の場所が、戦前は「羊華堂洋品店」で、その店が「イトーヨーカドー」のルーツだった、ということのほうにある。イトーヨーカドーは漢字で書けば「伊藤羊華堂」だった。

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野田屋本店。台東区日本堤1-40。2011(平成23)年9月10日

土手通り側から「いろは会商店街」を東へいくと、吉野通り(山谷通り)に出る手前でアーケードは切れてしまう(2018年2月に撤去された)。写真は東側のアーケードのゲートと吉野通りの間を撮ったもの。かつての電車通りだった吉野通りまでアーケードが続いていてもよさそうに思う。商店街から外れた場所は旧町名だと浅草山谷三丁目で、いろは会商店街の方は浅草田中町(たなかまち)二丁目になる。山谷の方は別の町だから同じ商店街にはならない、ということだったのかもしれない。
「野田屋本店」の出桁造りの商家に目が行く。周辺は空襲で焼けた地域だから、この家も戦後の建物かと思うのだが、どうもよく判らない。左手前は「リーカーショップ ノダヤ」で支店の?野田屋酒店。野田屋は2015年に廃業し、最近「AvenirIci南千住」(2017年1月築、8階建24戸)というマンションに替わった。
野田屋本店の右は「大衆食堂 きぬ川」。漫画「孤独のグルメ」に取り上げられて有名なのだという。2017年10月末で廃業し、建物も取り壊された。跡地には8階建てのマンションが建つようだ。1986(昭和61)年の住宅地図ではきぬ川の場所は「食事みやこ」となっていて、向かい側(トオダイ堂薬局の隣)にきぬ川がある。



野田屋本店。日本堤1-40。2011(平成23)年9月10日

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三河屋呉服店。台東区日本堤1-28。2011(平成23)年9月10日

いろは会商店街の真ん中あたりに三河屋呉服店がある。写真では呉服店の営業はやめてしまい、雑貨店のようで、電化製品まで置いてある。「山谷」で呉服店は難しいだろうとは思う。三河屋のような大きな呉服店があったということは、商店街の歴史が古いということと、吉原の存在が関連していそうである。
TOKYO ASAKUSA.com>いろは会商店街振興組合』によると、「むかし陸羽街道から吉原土手へ抜ける小道の一部に夜店の出店が許された」という説明がまずある。「むかし」がどのくらいむかしなのか分からないが、陸羽街道は山谷通り(吉野通り)を指すようだ。「大正8年頃夜店通りに商店会ができ、連合大売り出しが始められた」「そして11年、いよいよ通りの全店が結束して「いろは会」をつくった」。平乃屋や近江屋乾物店は商店会発足当時からの店、ということになる。
昭和12年「いろは通り商店街商業組合」と改称、昭和20年3月の空襲で焼野原に、25年「いろは会」を再発足した。
アーケードが完成したは昭和51年4月。それを機に「ショップメイト」の愛称を付けた。高度成長期で、商店街も山谷の労働者が支えたのかもしれない。
2018年2月にアーケードは撤去された。維持していくのが難しくなったのだろう。

下の写真は三河屋の向かい側。和菓子の「尾張屋」はケースの商品が少なくて寂しい。ネット検索ではそれらしい店が検出されないから廃業したのだろうか。2010年のストリートビューには、アーケードから下がる垂れ幕に各店のかるたの文句が書かれている画像がみられて、「手づくりの和菓子は味一番の尾張屋で」とある。
「柴田商店」は1966年の地図では「柴田屋道具店」で、その右の家は同地図では「世界一洋服店」。


尾張屋、柴田商店。日本堤1-15。2011(平成23)年9月10日

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小林屋金物店。台東区日本堤1-29。2011(平成23)年9月10日

小林屋金物店はいろは会商店街の中でも間口の大きい店だ。写真では店先に荒物屋らしい商品を出しているが、ネット検索ではそれらしい店が検出されない。廃業したのだろうか。小林屋から右へ、「須峯肉店跡」(今は住宅が建った)、「旧辰巳屋」(呉服店?、今は住宅に)、「一富士食堂」(看板には「和洋中華料理」とある。ネット検索でヒットしないのとストリートビューで見た様子では廃業か)……。
写真右奥に「近江屋乾物店」がある。『街てく。>いろは会商店街』によると、近江屋は大正11年の創業で、鰹節専門店だった。戦後型看板建築の店舗の壁に「鰹節 近江屋」の金文字が貼ってある。今は缶詰やカップラーメンも置く。SVでは路上に段ボール箱で台をつくって商品を並べている画像が見られる。
写真左奥への横丁には、小林屋の左に「新柳」(和菓子)。今は取り壊されて時間貸駐車場に。

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平乃屋。台東区日本堤1-31。2011(平成23)年9月10日

「いろは会商店街」(いろは会商店街振興組合)の、土手通り側から入ってすぐのところ。看板建築が並んでいるようにみえるが1棟の長屋で、角の平乃屋から次の横町の角まで、6軒長屋である。いろは会商店街の店舗は1戸建ての戦後型看板建築がほとんどで、つまり切妻屋根の妻側を正面にした妻入(つまいり)にして、簡素なモルタル壁の看板建築にしたものだ。長屋式の店舗は平乃屋の建物以外には見当たらない。外観は戦前の看板建築を踏襲しているが、空襲の焼跡に建てられたもの。
店は左から、「平乃屋(たばこと惣菜)」、「中屋(文具事務用品)」、〈小川屋玩具店〉、「かめや菓子店」、〈中村生花店、丸一洋品店〉(〈 〉は1966年の地図による、写真では廃業しているか別の店になっている様子)。
東京・街角・たばこ屋さん>インタビュー>平乃屋』で平乃屋のご主人が語っている。それによると、平乃屋は大正7年に下駄屋として創業、現在は三代目。39年前にたばこを売るようになったときに、「うちは下駄屋なんだ!」というお父上と喧嘩になったという。下町らしい頑固おやじだったらしい。労働者の町・山谷というイメージは薄れてきたようだが、たばこはよく売れそうである。自分の健康を犠牲にして税金を納めている喫煙者を、もっと温かい目でみてもいいのではないかと思う。
写真右の「支那そば発祥の(地?)」の幟は「山龍肉店」。どういうことなのかは分からなかった。

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民家。台東区日本堤2-7。2011(平成23)年9月10日

当ブログ前回の、門の路地入口がある裏通りをそこから少し西へ行った四つ角で、3棟の古い住居が固まって残っている。
角の白い壁の家は片流れ屋根で正面と両側面に看板建築風に壁を立てている。家内工業所だったような感じだ。その右の1階の屋根の上に物干し台のベランダの手すりが見える家は和風の住宅として建てられた家らしい。




二軒長屋
上:2011(平成23)年9月10日
左:ストリートビュー2015年3月より

角の家の左の家。二軒長屋だろうか。奥行きがけっこうある。ちょうど角の家とその右の家を合わせた幅が長屋の奥行である。長屋の右側は平屋、左側は引っ込んで二階がある。増築したのだろうか。今、ストリートビュー(2018年4月)を見たら左の家が建て替え中だった。2016年2月のSVで、すでに更地になっている。

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民家、路地の門。台東区日本堤2-6
2011(平成23)年9月10日

日本堤二丁目交差点の北を西へ入った横丁。日本堤二交差点角にあった銅板貼り看板建築の裏手である。関東大震災後に建った古い民家が一塊残っている。この裏手にはやはり戦前からある長屋が2棟あったのだが、最近、日本堤二交差点角の看板建築とともに取り壊されたようである。今はその跡地にマンションの建設が進んでいる。
左写真は上の写真の真ん中の民家とその左の看板建築の二軒長屋との間の路地への入口。昔の航空写真を参考にすると、路地には入口から見て左側に三軒長屋、右側には通りに面した家の後ろに四軒長屋がくっついていたらしい。つまり写真の路地の中の手前は通りに面した家の側面で、長屋は少し奥へ入ったところからになる。路地の入口を門にしてあるのは路地が私道で、2棟の長屋は同じ大家さんのものなのかもしれない。
そんな路地に入り込むことなど思いもよらないのだが、プロの写真家が発信しているブログ『Kai-Wai散策』に路地の奥から撮った写真が載っている。「トタンアーチ路地」と「山谷の路地奥」で、ともに路地の奥の突き当りと思える場所から入口の方向にカメラを向けている。その写真の手前に2棟の長屋を2階でつないでいるような建物の一部が写っている。路地の奥に写っている緑と赤茶の壁がそれだ。渡り廊下のようなものかと思うが、そんなものは不要である。たぶん、両長屋の2階の住民が公共で使用するスペース、つまり洗面所とかトイレではないだろうか。



左:ストリートビュー2015年3月、右:同2018年4月より

表通りの長屋が取り壊されて、その裏の長屋が見えていた時期があった。上の写真はストリートビューに記録されたその長屋。左写真は「三軒長屋」のほう。右写真は1枚目写真の家の裏側。三軒長屋も四軒長屋も取り壊されている。

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早川彫刻所。台東区日本堤2-6。2005(平成17)年7月23日

日本堤二丁目交差点にあった銅板葺きの看板建築の北に隣接していた長屋。元は四軒長屋だった建物と二軒長屋式の家とがくっついて並んでいる。三軒長屋になった長屋の方は2011年には下の写真のように1軒が取り壊されていて、さらに2018年にもう1軒が取り壊されて今は「早川彫刻所」の1軒だけが残っている。三軒長屋の2軒と二軒長屋の1軒が同じ仕様で2階の壁が改修されている。大家さんが同じなのだろうか。
早川彫刻所の看板には「箔押用金板/高周波切断/超精密刻印/プレス金型」とあり、家内工業所のようだ。



二軒長屋。日本堤2-6。2011(平成23)年9月10日

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