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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




銅板貼り看板建築。日本堤2-6。2011(平成23)年9月10日

土手通りの日本堤一丁目交差点から山谷(さんや)通りの山谷派出所前交差点(今は吉野通りといい交差点名はない)へ抜ける通りがある。その中ほどが日本堤二丁目交差点で、その西北角にきれいに緑青に覆われた銅板葺きの看板建築があった。昨年(2018年)に取り壊され、2019年4月のストリートビューでは跡地がフェンスで囲われビルの工事が始まったところだ。11階建60戸のマンションが建つという。
写真の左奥が土手通りの方向で、日本堤二交差点から土手通り迄の南側(1区画のみ)と、北側の一部(写真に写っている範囲)が戦災に遭わずに焼け残った地区である。有名な廿世紀浴場がそこにあった。
看板建築が6棟写っていて、商店や町工場だったと思われるのだが、手持ちの地図では個人名しか出ていなくて、由来がいっさい不明なのが残念。ちなみに旧町名は「浅草田中町(あさくさたなかまち)3丁目」。



銅板貼り看板建築。日本堤2-6。2005(平成17)年7月23日



看板建築。日本堤2-6。2005(平成17)年7月23日

1枚目写真の左に写っている家並み。パラペットがない家は戦前の建物だと思うが、それがある建物は戦後に建て直したか改修したものかもしれない。写真右の家は角の銅板貼り看板建築と一緒に取り壊された。真ん中の2棟は2014年に取り壊されて3階建てのビルに建て替わった。

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紙屋木工所。台東区日本堤2-37。2011(平成23)年9月10日

土手通りの三ノ輪一丁目交差点辺りの1本東の裏通り。古く見える家は、戦後、焼跡にいち早く建った家ではないかと思う。この家並みの向かい側(土手通り沿いの38・39番地)は戦災では焼け残った地区である。茶色に塗った2棟(そのうちの右の建物は3階建てのビル)が1966(昭和41)年の住宅地図で「紙屋木工所」となっている。
写真右に写っている消火器には「東三ノ輪町会」とあり、写真左奥の四つ角にある台東区掲示板にも同じ町会の名前が入っている。「日本堤」の町名は1966年10月から実施されたが、写真の辺りの旧町名は「三ノ輪町」だった。



中村化工。日本堤2-22。2011(平成23)年9月10日

明治通りの南千住二交差点から南へ入って90mほどのところ。旧町名だと「浅草日本堤4丁目」。写真の平屋の家は硝子戸に「中村化工」とある。1966年の地図で「中村屋パン」となっている。今では4階建ての共同住宅に建て替わった。その先の戦後まもなく建ったと思われる2棟は今もそのままだ。

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東京電力浅草サービスセンター。台東区西浅草2-27。1992(平成4)年6月7日

国際通りの公園六区入口交差点からかっぱ橋本通りに入ってすぐのところにあった東電の営業所。写真のビルとその後ろの浅草変電所を建て替えたのが現在の、1階にミニストップが入ったビルだ。いつ建て直されたのか分からないが、旧ビルの撮影後まもなくではないかと思う。その新しいビルには「テプコ浅草館」という施設があり、東京電力の文字と大きなマークがついていた。2011年3月の東日本大震災で福島第一原発の事故を起こして以来、東電はPR活動を自粛してしまったらしく、テプコ浅草館も5月には閉館した。今はビルに東電の文字が見当たらないが、Googleマップは「東京電力㈱浅草変電所」としてある。
写真のビルは昭和初期の震災復興期のものと推定がつくが、『日本近代建築総覧』では「東京電力浅草サービスセンター」という建築名と所在地しか記載がない。上の写真で、サービスセンター(SS)の後ろにあるコンクリート壁のビルは「東京電力浅草変電所」で、やはりSSと同じ頃に建てられた建物かもしれない。写真を撮っておかなかったのが残念だ。



東京電力浅草サービスセンター。西浅草2-27。1992(平成4)年6月7日

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浅草今半。台東区西浅草3-1
1992(平成4)年6月7日

国際通りの公園六区入口交差点、かっぱ橋本通りとの角にある「浅草今半」の「国際通り本店」の旧店舗。浅草今半は昭和3年3月に雷門の店から分離独立して、このビルを建てて開店した。
一見してそんな昔の建物には見えないが、左の写真が浅草今半のHPにも出てくる建築当時のもの。すき焼きの店だから和食を意識して、一階は和風に改装している。昭和3年に建てたころは、肉といえば西洋のものという明治の気分が残っていて、洋館の建物にしたのかもしれない。
現在の建物は2008年に建て替えたもので、10月の開店。旧店舗を再現したようなデザインにしている。つくばエクスプレスが2005年8月に開通して、その浅草駅の出入り口が浅草今半の右のYS-2ビル(1999年3月築)に出来た。

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テーラー富士屋。台東区浅草3-9。1987(昭和62)年4月4日

ひさご通りから言問通りに出た向かい側。ひさご通りはそのまま写真左奥の千束通りへ続いている。交差点角のテーラー富士屋(山口ビル)から言問通り沿いには、吉井薬局、富士銀行千束町(せんぞくまち)支店。千束通り沿いには、秋山寝具店、コユキヤ玩具店、山一産業。そこに現在は「ランドール浅草」(2006年10月築、13階建て90戸)という大きなマンションが建っている。コユキヤはマンション1階に納まって「ゲームショップ」として続いている。



勝田時計店。浅草3-1。1988(昭和63)年5月1日

言問通りの馬道交差点から北西方向の浅草3丁目を撮ったもの。角の勝田時計店から左の言問通り沿いに、秋山サイクル、富栄、梅林、横丁があって、浅草花園、マルエム商事……。現在、ここに写っている低層の商店はだいたいがビルに替わっている。

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浅草寺一山支院。台東区浅草2-31。1987(昭和62)年4月4日(4枚とも)

浅草寺観音堂の斜め後ろに浅草神社(三社様)がある。この、寺と神社はどういう関係になるのだか知らない。その浅草神社の裏、言問い通りとの間に浅草寺の支院とか岐院とか予院と言われる寺がかたまって建っている一画がある。関東大震災後に区画整理して出来上がった。
『日本近代建築総覧』では「浅草寺岐院集合住宅、建築年=1932(昭和7)年、構造=RC2階建、設計=岡田信一郎、岡田捿五郎、施工=井原寅松、備考=「日本建築士」S7,1-12による」。『月刊岡田信一郎>第12号(2000年2月)』では「竣工当時の建築雑誌の記載に従い」として「浅草寺一山支院」の名称にしているので、当記事ではそれをまねた。
岡田捿五郎(しょうごろう、1984(明治27)年-1976(昭和51)年)は岡田信一郎の弟で、東京美術学校図案科第2部(現・東京芸術大学建築科)卒。欧米の建築を視察して帰国後、岡田信一郎事務所で設計監理に従事し、昭和7年兄の死後はあとを受けて建築設計事務所を経営。一方、昭和2年から東京美術学校建築科講師となり、18年同校教授に就任。後、東京芸術大学教授、37年名誉教授となった。主な作品に琵琶湖ホテル、日本出版クラブ、旺文社本館など。(コトバンク > 20世紀日本人名事典)。井原寅松は不明。
支院の建物は11棟あり、各棟に2院が入っている。内部は2院が独立しているらしく、門は建物の東西に2か所設けられている。地下室があるという。屋根は元から陸屋根だったらしく、3階が増築されている。写真の3階の小屋のように見える増築部分は、今はより本格的なものに造りなおされている。外観は和風と見る人もいるが、ぼくには洋風に見える。




団地?には2本の路地があり、その入口には門があって関係者以外は入りにくいようにしている。路地はなぜか一直線ではなく、わずかばかりの段差で階段状になっている。
観光客はもちろん、散歩している近所の住民にもこの建物に関心を払う人はまずいないようだ。そもそも周囲に人をあまり見かけない。国指定重要文化財の明治生命館と同じ設計者だと知れば改めて見直すのだろうか。

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浅草寺病院。台東区浅草2-30
上:1988(昭和63)年5月1日
左:1987(昭和62)年4月4日

月刊岡田信一郎第12号(2000年2月)』によると、1936(昭和11)年12月竣工、施工は竹中工務店、設計者は不明。浅草寺病院のHPに「1937(昭和12)年1月 浅草寺病院新築落成。浅草寺医療院に改称」とある。ちなみに、浅草国際劇場と浅草世界館の完成が昭和12年だ。「浅草寺病院」と改称したのは戦後の1948(昭和23)年9月。
浅草寺病院の前身は1910(明治43)年8月に浅草寺境内念仏堂に設置された「浅草寺診療所」で、10月には六十六仏堂供所に移し「浅草寺救護所」とした。「明治43年の大水害」による被災者を救うためで、この災害は荒川放水路を建設する契機になった。
Google古地図の昭和22年航空写真をみると、建物は3階建ての陸屋根である。4階はその後の増築で、瓦屋根もたぶんその時の改装かと思える。その際、「月刊岡田信一郎」で言及されているように、岡田の設計になる「浅草寺一山支院」とデザインの統一をはかろうとしたことは考えられる。
現在の建て替えられた建物は2002(平成14)年12月の落成。



浅草寺病院。1987(昭和62)年4月4日

『追憶の東京 下町、銀座編』(小針美男、川本三郎、河出書房新社、2006年、1500円)に浅草寺病院のペン画と共に、美空ひばりがこの病院に入院した時に川田晴久が献身的な世話をした、ということが記されている。1957(昭和32)年1月13日、浅草国際劇場の「花吹雪おしどり絵巻」公演の千秋楽で、大川橋蔵と出演していた美空ひばり(当時19歳)が、ファンの少女から塩酸をかけられた。有名な「美空ひばり塩酸事件」だ。緊急搬送されたのが浅草寺病院で、3週間入院していたという。
浅草国際劇場の開館と浅草寺病院の落成が昭和12年だったと既に述べたが、美空ひばりが生まれたのが奇しくも昭和12年である。

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初音小路。台東区浅草2-7。上:2005(平成17)年7月16日、下2枚:2015(平成27)年12月25日

初音小路は西参道と花やしき通りの間にある飲み屋街。場外馬券売り場の横にあるので、競馬を楽しむ人がここで飲みながら過ごすらしい。平日の競馬を開催していない日はどんな具合なのだろう? 観光客は少ないというが、確かに吾妻橋の方からここに来るとすると、その間に見るべきものがいろいろあって、ここまでたどり着けないかもしれない。路地には藤棚がしつらえられていて、店も路地にテーブルと椅子を出す。花の咲く時期はその藤棚の下で飲むことができる。これはずいぶんといい気分になれると思う。
初音小路はひょうたん池を埋め立ててできた、という記述がネットではよく見かける。そういう認識でもいいように思うが、1951(昭和26)に池を埋め立てた跡地にできたのは、「浅草宝塚劇場」、「楽天地スポーツランド」(昭和27年)と「新世界」(昭和34年、娯楽の殿堂を謳った、現在はウインズ浅草)とその東の通りである。浅草寺が空襲で焼失した本堂(観音堂)の再建費用を捻出するための埋め立てで、土地を売却した金額で費用の半分をおぎなえたという。
初音小路は池の埋め立てに伴う整備の過程でできた。『地図物語-あの日の浅草』(武揚堂、2007年、1800)に、「西参道の開通は昭和30年2月」とあるから、初音小路も同じ頃の成立ではないだろうか。長屋風の建物は見たところRC造のように見える。
藤の木はひょうたん池の周囲にあった藤棚のものを移植したもの、という説もある。伝説のような気もするが、ひょうたん池をしのぶためにはあまり深く考察しないほうがよさそうだ。


初音小路。2015(平成27)年12月25日

1枚目写真の右の、3枚目写真の手前の駐車場は稲村劇場があった跡だ。昔は縁日や祭りには見世物小屋がたったそうで、稲村劇場は常設の見世物小屋。戦後まもなく出来て昭和50年頃まであったという。ネットでは『タナベ昭和館』の「宇和島 芝居・活動小屋幻景 8[最終回]」に解説と貴重な写真が載っている。『ぼくらは下町探検隊』(なぎら健壱著、ちくま文庫、2003年、780円)には、呼び込みの様子が記されている。残念ながら著者は中には入らなかったそうだ。

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浅草観音温泉。台東区浅草2-7
上:1988(昭和63)年5月14日、下:2015(平成27)年12月25日。右下は浅草寺の五重塔から


『ウィキペディア』によると、浅草観音温泉は1957(昭和32)年の開業。温泉は「重曹泉(ナトリウム-炭酸水素塩泉)で26.3℃から加温、循環式、黒湯だが濾過して淡黄色」。『立ち寄り湯みしゅらん>浅草観音温泉★★』には浴場に掲示してある成分表に「地下3000尺、湯涌量1日8000石、温度28度」とあるそうで、つまり「地下909m、湧出量100ℓ/分となる。実際はもっと浅いらしい」としている。
開業した1957年というと2月に石橋湛山内閣から岸信介内閣に変わった年で、10月にソ連がスプートニク1号を打ち上げた。アメリカ大統領はアイゼンハワー。流行語はなんといっても「太陽族」。ネットで潜入レポートを見ると、外観も内部の施設もその当時からほとんど変わっていないようである。1枚目の写真では屋上に「娯楽と憩いの霊泉」のネオンサインが残っている。この頃は後ろに四角柱の煙突がまだあった。今はビルを覆うまでになった蔦も入口の看板の下を這っているだけ。
玄関の上の看板に「唄と踊りで今日を楽しく」とあるのは3階の大広間演芸場があったからで、歌と踊りはプロの芸を見るのではなく客が自分で演じて楽しむものだったのだろう。今は土日に休憩室として利用できるだけだ。それでも看板を替えないのが今や客を呼ぶ要素といっていい。看板には「酒は大関」と「男は黙ってサッポロビール」の文字もある。大関株式会社とサッポロビール株式会社が看板の設置費用を折半したのかもしれない。大関のほうは「酒は大関こころいき」としたほうがTVコマーシャルとはっきり判るし、サッポロとの文字数のバランスもとれたのではないかと思う。「酒は大関」の歌は1965(昭和40)年からのCMかららしい。「男は…」のCMは1970(昭和45)年の登場。


ひさご湯。浅草2-24
2005(平成17)年7月16日

花やしきの裏手にあった銭湯で、ひさご通りの中ほどから横町を東へ入ったところ。2006年6月15日で廃業したそうだ。今は「ライフピア浅草(10階建て28戸、2012.03築)」というマンションに建て替わっている。ひさご湯の創業や写真の建物をいつ建てたのかは不明。
周辺は言問い通りのすぐ裏手で旅館や料亭が多くあった場所だ。ひさご湯の隣の駐車場は1986年の地図では「旅館なみ寿」となっている。今もひさご湯(現・ライフピア浅草)の裏に「旅館やなぎ」と「旅館夕月」だった古い建物が残っている。

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上田玩具店、喫茶ダービー。台東区浅草2-28。1988(昭和63)年5月14日

ひさご通りの南の入口辺りから花やしきのほうを撮ったもの。ダービーは花やしきを囲むように建っている店の一つなので、花やしきの借家だったらしい。今は「浅花風(アハナウィンド)」という花やしきのみやげ店が入ったビルになっている。
建物は戦後まもなく建てられた看板建築風の仮建築かと思う。1966(昭和41)年の地図では「パチンコ浅草会館」。1969年の地図では「純喫茶ダービー」に変わっている。昭和26年(まだひょうたん池がある)と思われる火保図に「浅草會舘」とあるのはパチンコ屋だったらしい。



花やしき裏側。浅草2-28。2005(平成17)年7月16日

ダービー(現・浅花風)の横を入ると、花やしきに沿って斜めに言問い通りへ抜ける道路である。通り名はないと思うがつければ「花やしき裏通り」だろうか。写真は消火栓の位置が今も変わらないとすれば、裏通りに入ってすぐのところ。屋上の手すりなどが古い建物に見える。今は建て替えられたようだが、少し左へいくと1階が同じ仕様の建物が部分的に残っている。

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