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Unknown
(
松本 祥子(旧姓)
)
2020-05-09 19:21:38
懐かしい実家のビルがこのコレクションに載っているのを見つけ、 嬉しいやら、 恥ずかしいやら。
内容に正確でない箇所があり、 コメントさせて頂きます。
この鉄筋コンクリートの建物は、 私の祖父が内科医、 後に 父 松本 寛 (慶應義塾大学助教授、 産婦人科医として日本で最初の人工受精児を誕生させた) が開業していた、 松本医院です。
隣のマツモト薬局は、母が、 父の急逝(1951年)後5人の娘を育てながら、 経営していた漢方薬のお店でした。
鉄筋のビルが建てられたのは関東大震災の後としか分かりませんが、 第二次大戦で疎開して、 戻って来た時に、 遠くから焼け跡にこのビルがぽつんと1つだけ建っていたとの事です。
母が亡くなった 2004年までこの姿でした。 すこしでも、収入の足しにと、 一階だけを取り崩し、駐車場にしていましたが
戦後の高度成長期に、 爆弾を受けた様な姿のままで、ちょっと恥ずかしかったのを覚えています。
今回、このコレクションに取り上げて頂き、 思いがけず、 実家を想い出しました。
有難うございました。
>松本祥子様
(
流一
)
2020-05-11 10:51:01
この小さな鉄筋コンクリート造の建物が「松本医院」だったと判って納得がいきました。「バー小春」は瞬間的なものでしょうから、タイトルは「旧松本医院」と変更します。疎開先から戻ると、焼跡の中に診療所だけが遠くからも見えた、という話は印象的ですね。そこを整理して早急に医院を再開できたのでしょうか。
本文は、私が建物についてどのように考えていたかを隠すこともないのでそのままにし、「追記」として、松本祥子様からの情報を公開させていただきました。埋もれてしまう町の歴史が記録されたのなら嬉しいです。
Unknown
(
たんぽぽ
)
2021-04-03 18:11:46
昨日、母の引き出しから古い日本郵船の『御乗船記録芳名録』が出てきました。
昭和13年のアメリカ行きです。祖父が国民使節で洋行した時の物です。その当時、客船で要項する方々は、それなりの事情や、経済的なこともありますので、それなりの方かと、お名前検索したら、こちらにヒットいたしました。
第64次往航。大洋丸。そこに松本寛様、慶応医学部学生。浅草区馬道2ー25とあります。
キャビンクラスという一番良いクラス。日本人は9名。桑港上陸は6名。
その中に松本様と同行されたのではと思われるのが、安藤畫一慶應大学医学部教授夫妻。産婦人科医の有名な方ですよね。
学生さんで教授と洋行はやはり優秀な学生さんだったかと。あの当時ね若い方は軍医として戦死されたりしてますから、戦後ちゃんとご自宅に帰られて、ご家族にも恵まれて良かったと、こちらのブログで安心いたしました。
私も近代建築マニアです。
>たんぽぽ様
(
流一
)
2021-04-05 11:13:09
昭和13年の日本郵船大洋丸アメリカ行きの『御乗船記録芳名録』ですか! おじい様は乗客だったようですが、『芳名録』は乗客の皆に渡されたのでしょうか? 「国民使節」は民間の親善使節のように感じられるのですが、どのようなことをされたのでしょうか? つい、いろいろ疑問が出てきてしまってすみません。とにかく貴重なものをお持ちですね。
当時まだ学生だった松本寛氏は、安藤畫一教授の助手として渡米した、と考えられますね。松本氏は実家を住所として書いているわけですが、たぶんそこで暮らしてもいたのでしょうね。
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この鉄筋コンクリートの建物は、 私の祖父が内科医、 後に 父 松本 寛 (慶應義塾大学助教授、 産婦人科医として日本で最初の人工受精児を誕生させた) が開業していた、 松本医院です。
隣のマツモト薬局は、母が、 父の急逝(1951年)後5人の娘を育てながら、 経営していた漢方薬のお店でした。
鉄筋のビルが建てられたのは関東大震災の後としか分かりませんが、 第二次大戦で疎開して、 戻って来た時に、 遠くから焼け跡にこのビルがぽつんと1つだけ建っていたとの事です。
母が亡くなった 2004年までこの姿でした。 すこしでも、収入の足しにと、 一階だけを取り崩し、駐車場にしていましたが
戦後の高度成長期に、 爆弾を受けた様な姿のままで、ちょっと恥ずかしかったのを覚えています。
今回、このコレクションに取り上げて頂き、 思いがけず、 実家を想い出しました。
有難うございました。
本文は、私が建物についてどのように考えていたかを隠すこともないのでそのままにし、「追記」として、松本祥子様からの情報を公開させていただきました。埋もれてしまう町の歴史が記録されたのなら嬉しいです。
昭和13年のアメリカ行きです。祖父が国民使節で洋行した時の物です。その当時、客船で要項する方々は、それなりの事情や、経済的なこともありますので、それなりの方かと、お名前検索したら、こちらにヒットいたしました。
第64次往航。大洋丸。そこに松本寛様、慶応医学部学生。浅草区馬道2ー25とあります。
キャビンクラスという一番良いクラス。日本人は9名。桑港上陸は6名。
その中に松本様と同行されたのではと思われるのが、安藤畫一慶應大学医学部教授夫妻。産婦人科医の有名な方ですよね。
学生さんで教授と洋行はやはり優秀な学生さんだったかと。あの当時ね若い方は軍医として戦死されたりしてますから、戦後ちゃんとご自宅に帰られて、ご家族にも恵まれて良かったと、こちらのブログで安心いたしました。
私も近代建築マニアです。
当時まだ学生だった松本寛氏は、安藤畫一教授の助手として渡米した、と考えられますね。松本氏は実家を住所として書いているわけですが、たぶんそこで暮らしてもいたのでしょうね。