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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




かぶちゃん。台東区橋場2-3。2019(平成31)年4月13日

写真左端の建物が、「五軒長屋」と同じ角の南の角に建つ建物。その右の看板建築に「居酒屋かぶちゃん」の袖看板が付いているが、その店は引き戸の玄関から、写真中央の日本家屋のほうである。玄関の前に鉢植えを置いてしまっているから、店は閉めたようだ。
『加藤嶺夫写真全集 昭和の東京2台東区』(株式会社デコ発行、2013年、1800円+税)の写真(かぶちゃんの前の通りの一つ右の街区から撮っている。昭和45年撮影)ではこの家並みに薬屋がある。1966(昭和44)年の住宅地図にある「カブキ堂」がそれかと思うが、「かぶちゃん」の店名との関連がありそうだ。
写真右端の家は四つ辻の角にある。『写真全集』の写真では床屋だ。


かぶちゃん。2019(平成31)年4月13日


橋場米穀店。橋場2-2
2019(平成31)年4月13日

「五軒長屋」の角を南へいってすぐのところ。戦前からの長屋の1軒が残っているものと思える。後ろの二階が家全体の形としてしっくりこない。平屋に二階を増築したのかもしれない。商売はやっているようには見えない。

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八軒長屋。台東区橋場2-12
2019(平成31)年4月13日

白髭橋の南西の矩形の地域が橋場2丁目。その中心辺りが12番地で、その東側の道路に2棟の看板建築の長屋が南北に並んでいる。写真手前が北の八軒長屋。2間の幅しかない1軒もあるが全長30mである。片流れ屋根の簡易な造りだ。1階上の浅い庇に鋸刃模様が浮き彫りされている。
北の角が「倉島木工製作所」で看板に「仏壇製造倉島」とある。その隣は2軒分の「張替本舗 金沢屋」、畳や襖の張替、リフォームをする店。南のほうに「三谷友電社」という電気工事の会社があり、他は住居と思われる。

下写真の五軒長屋は改修済み。八軒長屋と同じ片流れ屋根なので、改修前は八軒長屋と同様な外観だったのかもしれない。





五軒長屋。台東区橋場2-12。2019(平成31)年4月13日

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大崎荘。台東区橋場2-11。2019(平成31)年4月13日

当ブログ前回のTSシューズの前を東へ、行ったところ。1986年の住宅地図に、後ろの2階建ての2棟も含めて「大崎荘」、右の空き地は「荒木アコード」と記載されている。建物は戦後まもなくの建築かと思われる。アパートには見えず、工場だったと思われる外観だ。はたして、1966年の地図では「萬代ゴム工業所」となっていた。



二軒長屋。橋場2-11。2019(平成31)年4月13日

大崎荘の右に建っている二軒長屋。右のビルは三軒長屋だった端の1軒が建て替わったものだろう。長屋の左の1軒に「アクセサリー加工(ロウ付・ハンダ付)河野」の表札が出ている。

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サトートーイ、TSシューズ。台東区橋場2-11
2019(平成31)年4月13日

岩美屋の南を東へ入った裏通りとの角。角の家は二軒長屋のようにも思えるが、入母屋屋根で玄関が一カ所なので、一戸建ての商店か家内工業所として建ったものだろうか。「サトートーイ」の名称は1986年の住宅地図から。
角から2軒目の3階建ての家は、ガラス戸に「株式会社T,Sシューズ」とある。周辺の地場産業だった皮革製造業に関連するのかもしれない。1966年の住宅地図では「岩田製作所」。3階部分は増築したものなのか、3階建てに建て直したのか判断に迷う。横の路地を北へ入ると宮本紙器のところに出る。

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岩美屋。台東区橋場2-10。2019(平成31)年4月13日

大富商事の南で、写真左奥が大富商事。写真中央にトタン葺き看板建築の二軒長屋が残っている。写真右は看板に「和菓子製造販売」とある岩美屋。建物は日本家屋を看板建築にしたものだが、建物本体も看板建築の造作も戦後のもののように思える。前面下部を石貼りにしていて、小売店の体裁なのだが、ネットには出てこない。廃業したのだろうか?



三軒長屋。橋場2-10。2019(平成31)年4月13日

岩見屋の南の横町を東へ入って、裏通りとの角が写真右の3階建ビルの民家。ビルの左に看板建築の二軒長屋だったらしい民家と長屋風日本家屋の一戸建て、と見えるが航空写真で見ると、看板建築と一戸建ては三軒長屋になるらしい。右のビルも含めて元々は四軒長屋だったのだろうか。



和光。橋場2-10。2019(平成31)年4月13日

2枚目写真右の角を曲がった裏通り。三軒長屋と二軒長屋が並んでいる。写真左端の1軒は2階の前面が物干し台だが、他の4軒はその部分を増築して部屋にしている。
奥の二軒長屋も2018年に右端の1軒が取り壊されるまでは三軒長屋だった。「和光」の看板のかかる1軒の右に、裏の長屋へのトンネル状の通路がある。

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二軒長屋、大富商事。台東区橋場2-10。2019(平成31)年4月13日

写真の通りは明治通りの清川二丁目交差点から南へ入る都道314号で、富士の湯の南の街区になる。二軒長屋と看板建築の「大富商事」が並んでいる。2棟とも戦前からある建物ではないかと思う。大富商事は包装梱包資材の問屋のようだ。
大富商事の横に路地が入っていて、下の写真はその路地にある平屋の長屋。四軒長屋くらいの長さの長屋が2棟縦に並んでいる。Googleマップの航空写真を見ると、一番奥に屋根に瓦が残り原形がかなり残っていると思われる2軒があるのだが、路地は奥で行き止まりのようだから入りづらい。



平屋の長屋。橋場2-10。2019(平成31)年4月13日

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上:富士の湯。台東区橋場2-21
ストリートビュー(2016年2月)より
左:二軒長屋。橋場2-21
2019(平成31)年4月13日

明治通りの清川二丁目交差点から都道314号を南にいったすぐのところに「富士の湯」という銭湯がある。昭和の始め頃に創業したということで、建物も創業時のものと思われるが、正面からみたところではなんとも地味である。現在の正面の入口左右の壁は増築した部分であるらしく、そのため平面的になってしまったようだ。
富士の湯の右、路地を挟んで戦前築の二軒長屋がある。その路地を入った富士の湯の裏手にはやはり戦前築と思われる平屋の長屋が数棟残っている。


宮本紙器。橋場2-11
2019(平成31)年4月13日

富士の湯の南の横町を東へ入ったところ。宮本紙器の屋根は寄棟屋根の半分なので、元は隣の家との二軒長屋だったのだろう。硝子戸に貼られたポスターは、共産党、幸福実現党、公明党といろいろ。政策が対立していると思われる政党が並んでいるので、空き家に勝手に貼られたのかとも考えたが、路地に作業で出たと思われるごみが出ている。

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S家。台東区橋場2-22。2019(平成31)年4月13日

写真右が明治通りの清川二丁目交差点で、角はうなぎの「筑波屋」。S家は入母屋屋根の日本家屋。商家だったようで、正面は戦後の改修のようだが簡単な看板建築風の造りにしている。戦前からある建物だろう。
写真の家並みの裏通り、同じ橋場2丁目22番地に「平賀源内墓」がある。橋場の名所であるが、あまり知られていないかもしれない。平賀源内といえば「エレキテル」で、ぼくは彼が静電気の正体をどう考えていたのかに興味がある。『ウィキペディア』には「陰陽論や仏教の火一元論などで説明しており」とあり、とても学問としての体系には至っていないようだ。「土用の丑の日はうなぎ」を平賀源内が言い出した、という話も有名で、筑波屋につながる。



石浜荘。ストリートビュー(2018年4月)より

S家の裏に古い木造家屋が見えている。三軒長屋だ。あまり改修の手が入っていない様子で、かなり原形を留めているように思える。「石浜荘」は1966年の住宅地図から。旧町名が浅草石浜町だった。

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民家。台東区橋場2-20。2019(平成31)年4月13日
右:ストリートビュー(2010年1月)より

明治通りの白髭橋西詰交差点と清川二丁目交差点の間の横町を南に入ったところ。写真右奥が明治通りで、その角は佐野屋タバコ店。この横丁の西側に、裏通りとの四つ角までの120mに民家や長屋が一列にならんでいる。15棟位があるが、半分は戦前からある建物が残っているように思われる。
左写真の平屋の民家は2012年頃に屋根などが改修されたようだが、ストリートビューで改修前の姿が見られる。



左:民家、右:宇賀神化工、四軒長屋。橋場2-20。2019(平成31)年4月13日

台東区の北東部(今戸、清川、橋場など)は靴を主とする皮革加工業が地場産業と言われてきた。今は隅田川を越えて墨田区や足立区に拡散している。宇賀神化工(靴材料裁断)はそんな歴史を踏まえてみることができる。1枚目写真の平屋の左隣の家は、今は見られないが、ガラス戸に「佐藤皮革(皮革加工)」とあった。

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レンガ蔵。台東区橋場2-14。2005(平成17)年7月31日

明治通りの白髭橋西詰交差点を南に入って、橋場2丁目交差点の手前に最近まで残っていたレンガの蔵。写真後ろのビルは「橋場トドロキマンション」。レンガ造なのかレンガ風のタイル張りなのかは分からない。2階の窓の鉄扉には「藤」の字を丸で囲んだマークが描かれている。1947年の航空写真では蔵の奥にお屋敷のような民家が写っていて、その家の蔵らしいのだが、商店の倉庫なのか、質屋の蔵だったのかもしれない。
蔵の左は通りに面してプレハブの倉庫が2棟上下に置かれている。1986年の住宅地図にはその倉庫が「大山部品」となっている。その地図では橋場トドロキマンションが「大和ビル/鎌田電機工業所」、蔵の右は空地だが「富国工業/東京三菱ふそう自動車販売」となっている。



橋場トドロキマンション。2019(平成31)年4月13日

レンガ蔵が取り壊された後の写真。橋場トドロキマンションは「1971年12月築、RC造7階建」と不動産サイトにある。右の空き地は現在、12階建ての有料老人ホームを建設中だ。

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