浅草松竹。台東区浅草1-26。左:1987(昭和62)年4月4日、右:1986(昭和61)年10月26日
『日本近代建築総覧』ではROXY(撮影時では浅草松竹)、東京クラブ、浅草トキワ座の3館は、設計は松成設計事務所――『ウィキペディア』では「成松設計事務所」。 『日本近代建築史』では国際劇場の建築家名を「成松勇」としてある(2011.04.30追記)――で昭和6年竣工、「外観はそれぞれ異なるが内部は1つの建物」としている。1つの建物ではなく、3館が廊下でつながっている、ということではないかと思う。
大震災の前も金竜館、常磐座、東京クラブの名前で映画や実演などをやっていた。金竜館といえば浅草オペラなのだそうだ。それ以前には明治44年の「ジゴマ」旋風、などというのもある。昭和40年頃にテレビで活動弁士の物まねを見たが、「花のパリーかロンドンか、月が鳴いたかほととぎす」のせりふはジゴマで演じられたものらしい。大震災以後は、浅草オペラはほとんど上演されなくなったようだ。
浅草松竹は、竣工時は金竜館の名前を引き継ぎ、戦後の昭和21年に「ロキシー映画劇場」と改名する。1983(昭和58)年に「浅草松竹映画劇場」として松竹封切館になった。
右の写真では「波光きらめく果て」と「離婚しない女」の看板がかかっている。『近代建築ガイドブック関東編』の写真は、昭和50年代末らしいが、「ROXY」の名でSTチェーン(松竹と東急レクリエーションが擁する劇場のチェーン)封切劇場としてポルノ2本立ての看板を掲げている。映画のタイトルも分かるが、変なTBを張られそうなので書かないでおく。

浅草松竹。1985(昭和60)年1月2階前面の窓と入口上部のアーチ。1986(昭和61)年

新仲見世に側面を見せていた。1985(昭和60)年1月
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『日本近代建築総覧』『近代建築ガイドブック』などでは「松成」、『ウィキペデイア』では「成松」ですね。どこかで誤植があったのでしょうか? 専門書や専門誌を当たって調べる根気もないので(どういうものがあるのかも知らない)、本文では両方を出してごまかしました。語感では「成松」が優勢?
ついでにこの建築事務所が浅草国際劇場も設計していると知りました。