goo blog サービス終了のお知らせ 
ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 






吾妻寿司。台東区鳥越1-13。左:1989(平成1)年2月12日、右:2003(平成15)年11月6日

おかず横丁にある銅板張り看板建築のすし屋。建物はごく標準的な看板建築で、すし屋にふさわしい外観だ。店先の鉢植えが少し育ちすぎではないかと思う。街燈はいつごろ新しくしたのだろう?


左:銅板貼り看板建築。鳥越1-3。2003(平成15)年11月6日
右:たなか。鳥越1-3。1992(平成4)年6月6日

左写真の看板建築は蔵前橋通りの近くにあったが、ストリートビューを見たら空き地になっていた。壁面を軒の上に出したような部分と、2階の右側に袖のように出している部分があって、ちょっと独特である。戸袋とともにそれぞれが異なる日本の伝統的模様で銅板が貼られている。1階のガラス戸は木の枠で2階の窓も同様だ。こういう古い建具のままというのは貴重である。
右写真の家は左写真の家のちょうど裏側にあった家で、蔵前橋通りとおかず横丁を結ぶ路地に面していた。住宅地図では「有限会社たなか」。写真左の白い壁の家はおかず横丁に面した山口雑貨店だが、今は住居になってしまっている。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





うるしばら(漆原)食品店。台東区鳥越1-15
左:1992(平成4)年6月6日
上:2005(平成17)年4月9日

おかず横丁の惣菜屋。漬物が好評らしい。大正15年の創業というから出桁造りの建物もそのときに建ったのかもしれない。おかず横丁には出桁造りの店が何軒か見られる。右の写真で、左から鳥吉、うるしばら、港屋和菓子店、望月米店、望月不動産。港屋は昭和6年の創業。夏のかき氷が有名だそうだ。


田崎食料品店。鳥越1-14。左:1992(平成4)年6月6日、右:2003(平成15)年11月16日

おかず横丁のトタン張りの看板建築の店。はでな色に塗っているが確かに目印にはなる。右の写真では自販機を撤去してあるので廃業したのかもしれない。田崎食料品店の右へ1軒おいた郡司味噌漬物店はテレビでよく紹介される。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ミヤコ。台東区鳥越1-2
左:1988(昭和63)年12月31日
上:2007(平成19)年2月17日

当ブログ前回の上村工業の左に並んでいる銅板貼りの看板権建築。右の写真のように今も銅板の正面を残している。建物右の家はブログ前回の1枚目の写真では物件を書いた紙がガラス戸に貼られているようなので不動産屋らしい。同年末に撮った左の写真ではただの白い紙のようで不動産屋は廃業したようである。建物左の家は最近の写真では相撲の番付表を張り、暖簾を下げているが商売をしているのだかすでにただの住居なのかは知らない。


正喜商店。台東区鳥越1-1
1987(昭和62)年3月8日

上村工業の裏にあったがいつのまにか住宅に建替わってしまった。有名なおかず横丁の商店の1軒だった。撮影時には「おかず横丁」の名前はあったかもしれないが、まだそれを売りにする前である。外観を洋風にした看板建築で、正面右の枠には店名の文字を入れていたようだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






上村工業東京支店
台東区鳥越1-1
上:1988(昭和63)年4月10日
左:1986(昭和61)年4月6日

前の大通りは蔵前橋通り。上の写真で右端が鳥越2丁目交差点、その先に鳥越神社がある。上村工業のビルは『総覧』に載っているが建築年が昭和5年ということしか判らない。 上村工業はめっきなどの表面処理に関する化学品、機器の開発・製造する会社で、本社は大阪。1920(大正9)年に東京に出張所を開設しているが東京支店のビルが上村工業が建てたものなのかどうかは知らない。2007(平成19)年12月に日本橋大伝馬町に東京支社ビルを建てて移転した。今頃は取り壊されて新しいビルに替わっているかもしれない。解体前のビルは全体が灰色に塗られて看板は「東京支社」となっていた。
上村工業ビルの右は共積信用金庫本店。2002年に4社の信用金庫が合併して朝日信用金庫になった。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )






長田ビル。台東区駒形2-2
1987(昭和62)年10月4日(2枚とも)

前の通りは春日通りで、右手にすぐ厩橋、左手には江戸通りとの厩橋交差点である。現在、長田ビルは建て替わってエポック社の本社ビル(2001年7月に駒形1丁目から移転)になっている。2001年12月には都営地下鉄大江戸線が開通して、撮影場所(ビルの向かい)に蔵前駅の出入り口ができた。
「長田医院」の看板が目立つからビル全部が長田病院かと思ってしまうが、1986年住宅地図では「長田ビル/長田医院・東京イエス浅草集会所・白菊印刷」という記載。1955年区分地図には病院のマークがあるから、元はやはり病院だったのだろう。

コメント ( 15 ) | Trackback ( 0 )





駒形橋西詰交差点。台東区駒形2-7。1988(昭和63)年5月14日(2枚とも)

右奥への通りが江戸通り、左手へ行く通りが浅草通りで、写真左端に都営地下鉄浅草線の浅草駅の出入り口がある。その前を左に進めば駒形橋だ。交差点の角は千代田生命東京支社、そこから右へ、橋本ゴム工業旧館(「旧館」はぼくがかってに付けた)、同新館、鰻の前川、側面だけ見えているのがリボ駒形。
千代田生命のビルは「浅草駅前儀式ホール」となって残っている。橋本ゴム工業は2棟まとめて「シティハウス浅草ステーションコート」(2005年3月竣工)というマンションになった。2003年に「株式会社ハシモト」に商号変更して文京区湯島に移転している。前川もビルに替わり(前川ビルは1989年10月の竣工。正面から写真の家を撮影しておけばよかった)、店舗はすぐ裏の隅田川河畔に移った。


橋本ゴム工業

橋本ゴム工業(現・株式会社ハシモト)は1925(大正14)年の創業というから、写真のビルは創業後わりと早い時期に建てたものと思われる。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )





浅草フランス座。台東区浅草1-43。1988(昭和63)年5月14日

現在は2000(平成12)年元旦にオープンした「浅草東洋館」だが、その前は「浅草フランス座」だった。建物1階の「浅草演芸ホール」はそのまま存続している。
『ウィキペディア』『東洋館』『SMペディア>浅草フランス座』を参考にすると、フランス座の沿革はおおよそ以下のようになる。
1951(昭和26)年10月28日開館。1953(昭和28)年、渥美清が百万弗劇場から移管してくる。1956(昭和31)年、井上ひさしが文芸部員に。1959(昭和34)年11月、5階建てビルに改築。1-3階に浅草東洋劇場を開館、4・5階にフランス座を置く。1964(昭和39)年、フランス座を閉館して浅草演芸ホール(寄席)を開設。1971(昭和46)年、東洋劇場を閉館して、浅草演芸ホールを1階に移し、上階にフランス座を再オープン。1972(昭和47)年8月、北野武が入門してくる。1982(昭和57)年に再び閉館。1987(昭和62)年に三度目のオープン(写真はその翌年のもの)。1999(平成11)年に閉館。
ストリップはよく考えてみるとごく健全な娯楽ではないかと思う。とはいえ、皆がそういう認識になってしまうと娯楽としての要素が大きく欠落してしまう。淫靡なところもないと成り立たないようなところがあって、その点、世間の良識や警察が協力しているとも言える。

コメント ( 9 ) | Trackback ( 0 )




富士館。台東区浅草1-43。1985(昭和60)年1月

浅草ROXの北にあった元映画館。現在はパンドラ浅草店というパチンコ屋だがその建物は仮建築だろう。
富士館は1908(明治41)年に開業しているが、1912(大正1)年に後の日活になる会社が運営するようになり、日活の封切館になった。写真の建物は大震災後の昭和2年に改築したもの。設計=僊石政太郎、施工=清水組、構造=SRC 4階建。1800人を収容する巨大な映画館として建てられている。戦時統合が解けて1947(昭和22)年、日活が独立すると「浅草日活劇場」となる。1973(昭和48)年に閉館。(『ウィキペディア』参照)
そのあと、キャバレー新世界が入ったらしい。1959(昭和34)年、瓢箪池を埋立てた跡地に東急グループの、「娯楽の殿堂」を自称した「新世界」が建てられている。1972(昭和47)年に廃業したが、そこにあったキャバレーが旧富士館に移ったものかと想像できる。
右写真左の鉄板の塀は松竹映画劇場(旧帝国館)を取壊した跡である。この劇場も僊石政太郎の設計だった。1年前に来ていれば写真を撮れたかもしれない。



窓の間の黒い壁面は一見戸袋のようにも見えるが、アールデコ風の人物像のレリーフ。たぶん竣工時のままだと思う。1986(昭和61)年10月26日

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )





浅草東映。台東区浅草2-14。1988(昭和63)年5月14日

六区映画館街(今は「六区ブロードウェイ」というらしい)を北にいった突き当たりにあった。正面に立てば左に浅草ビューホテル、右に花やしきが見える。1890年に建てられた凌雲閣が建っていた場所だ。現在はパチンコ屋に建替えられた。
浅草東映の場所は昭和3年に昭和座という劇場が建ち、軽演劇を興行していたらしいが、戦時中に建物疎開で取壊されている。写真の映画館が建ったのがいつなのかはっきりしない。1959(昭和34)年に向かいに新世界が完成しているが、その前後だろうか。
港町キネマ通り浅草東映、浅草東映パラス1・2』でこの映画館を紹介していて、貴重な内部の写真も10枚近く載っている。閉館したのは2003(平成15)年5月22日という。
写真中央に見える「大人のおもちゃ/ひさご書房」の看板はおじさんが持っているプラカード。ちょっとややこしいので念のため。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )





浅草世界館。台東区浅草2-9。1985(昭和60)年1月(3枚とも)

この写真を撮った頃はROXY東京クラブトキワ座の三館に日本館もまだ映画館として現存していた。写真からはなんとか六区映画館街の面目を保っているというか、映画全盛期の面影が感じられる。建物自体は映画館が3館(浅草新劇場、浅草世界館、浅草シネマ)入る「浅草新劇会館」というのが現在の名称で、中映という会社が経営している。
建物は『日本近代建築総覧』では「浅草新劇場世界館(旧江川劇場)、S12、RC4、設計=加藤(秋)建築工務店、施工=清水組、備考=スパニッシュ風近代式・映画館・一部鉄骨「日本建築士」S7.12による」という記載である。『近代建築ガイドブック[関東編]』に加藤秋のことが少し書かれている。「明治22年千葉県生まれ。明治43年日本工芸学校を卒業。日本建築株式会社、東京大学営繕課などに勤務。大正7年独立して加藤建築工務所を創立。昭和14年逝去するまで映画館・商店を中心に設計」という略歴。たいした学歴も持たず、自己の努力だけでまじめに設計に取り組んできた人物だろう、としている。



浅草新劇場側の装飾

浅草新劇場は現在は邦画ポルノを上映しているが、撮影時は邦画の名作あるいは任侠映画をかけていたかもしれな。元は「江川劇場」で、実演の劇場だった。「江川の玉乗り」が有名だが、昭和になってもそれをやっていたとはちょっと思えない。戦時中松竹の経営となり「浅草松竹新劇場」と改称、清水金一の実演が売り物だった(ウィキペディア)というが、これは戦時中の短期間かもしれない。
浅草シネマは建物の地下にあるようで、元はストリップ劇場の「浅草座」だったという。ストリップ劇場といえば戦後のことで、一時期、この劇場でも興行されたのだろう。

左:上映中の映画のポスター。右:近影。2008(平成20)年4月2日

正面右の壁面に浅草で見られる映画のポスターが並べられていたようだ。どうせなら全部を撮影しておけばよかった。
現在はテラコッタの飾りやタイルの剥落を防ぐためだろう、右写真のように白いパネルで覆ってしまっている。包帯巻きにされたようで痛々しい。

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »