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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




浅草通り稲荷町交差点。台東区東上野5-1。1988(昭和63)年5月1日

浅草通りと清洲橋通りが交わる稲荷町交差点から上野方向の眺め。今もあまり変わったようには感じないが、やはりそうもいかない。写真中央右寄りの茶色のビル(奥田商店)は7階建てのビルに建て替えられた。奥田商店は電機店だったらしいが今はタバコが主になっているようで建て替わったビルで健在。地下鉄のりばの営団地下鉄のマークがそろそろ懐かしい感じになってきている。写真左寄りの3階建てのビルはプラチナ万年筆で現存。その左は2軒の商店だが、牛丼のすき家などが入った3階建てのビル(稲荷町ビル)になっている。写真左端は第一勧銀(現・みずほ銀行)稲荷町支店で、日本勧業銀行上野支店だった建物。現在は「日新上野ビル」で、1階はみずほ銀行稲荷町支店。




左:第一勧銀稲荷町支店。東上野5-1。1989(平成1)年7月23日
右上:プラチナ万年筆。東上野5-1。1988(昭和63)年5月1日
右下:プラチナ万年筆稲荷町サービスステーション(『プラチナ万年筆』のHPより)

プラチナ万年筆の建物がいつ頃の建築なのか推察してみた。 プラチナ万年筆のHP の沿革にある、「昭和17年―「プラチナ萬年筆株式会社」を設立」の店先での集合写真は浅草通りの建物としてもよさそうなのだ。その写真に続く工場の写真も同じ建物だとすると、建物は木造らしい。その建物は「大正13年―万年筆の製造販売をする「中屋製作所」を創立」のときに建てたものか、とも想像できる。
同サイトの『プラチナ万年筆の歩み』の1966年のところにあったのが右下の写真。昭和40年代にはこのような外観だったのだろう。これなら関東大震災の後に建てられた2階建ての建物に3階を増築したもの、としてよさそうだ。玄関の左右にショーウインドーを置いた配置が沿革にある写真と一致するように見える。

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出桁造りの民家。台東区東上野4-23
1991(平成3)年6月30日

東上野4丁目の北端に上野学園大学があるが、その南の向かいにある出桁造りの元商家だったと思える家。上野学園は今調べたばかりだが、音楽の専門学校だ。2007年に建ったばかりの高層ビルの校舎で、かつての敷地の北半分は高層オフィスビルになったようだ。
写真の家は現在は外壁などが改修されて、横の下見板や正面2階の銅板貼りの戸袋は見られなくなったが、瓦屋根は残っていて外観はそのままである。
その家の右隣はビルだがさらにその隣が下写真の家。正面左の看板建築との二軒長屋らしい。この通り沿いの長屋の後ろに四軒長屋があるのが路地沿いに見えている。
その路地の手前が台東保険所。当ブログでは、かつてそこにあった六軒長屋奥富の長屋を記録している。


二軒長屋。東上野4-23。2013(平成25)年8月3日

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四軒長屋。台東区東上野4-10
左:2009(平成21)年4月17日、右:2006(平成18)年11月29日

昭和通りの1本裏の通りに今も残っている看板建築にした四軒長屋。右写真の左に写っている、たぶんトタン貼りと思われる看板建築の家はなくなって時間貸し駐車場になった。
この裏通りを北(右)に行くとすぐ、有名な地下鉄の踏切がある通りに出る。下左写真はその通りに出て昭和通りの方の向かい側。波トタン貼りの家は1階が住居、2階はなにかの製作所だったものだろうか。今は取り壊されて1台分の時間貸し駐車場になっている。
下右写真は踏切の際の建物。戦前から建っているのだか戦後まもなく建てたものなのか、判断しづらい。写真左に踏切が写っている。銀座線の車庫(上野検車場)があり、2本の線路が道路を横切っている。


左:三階建て民家。東上野4-26。2006(平成18)年11月29日
右:居酒屋げんき。東上野4-11。2009(平成21)年4月17日

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上:三陽代理店。台東区東上野4-17
1991(平成3)年6月30日
左:看板建築の民家
2008(平成20)年3月2日

旧下谷小学校の北の裏通りや横丁に、関東大震災後に建った商家や長屋が残っている。旧町名は神吉町(かみよしちょう)で、台東区成立前は浅草区に属した。どう考えても上野(下谷)である。幡随院が昭和15年に小金井に移転するまで、上野学園のすぐ東にあった。幡随院→幡随院長兵衛→浅草、だから、そのイメージでむりやり浅草区に組み入れたように思える。
ここに出した写真の家はいずれも現存する。上の写真の家は看板建築風の洋風の外観の家。窓のガラスに「日動火災海上保険/株式会社/三陽代理店」とある。現在はこの文字はない。
左写真は1枚目写真の家の横の路地の家。看板建築にした二軒長屋だ。
下の写真は1枚目写真の家と四つ角に対して対角線にある看板建築の五軒長屋。現在もほとんど写真のままの外観で立っている。


五軒長屋。東上野4-15。1989(平成1)年7月23日

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銅板貼りの洋館。台東区東上野4-10。1988(昭和63)年頃

昭和通りの東上野交差点を東に入ったところに今も残っている民家。純日本風の入母屋造りの屋根の下にアーチの飾り付きの洋風の窓、壁は看板建築風の銅板貼り、という不思議な家である。構造は日本家屋のものかもしれないが外観からは洋館に分類するしかないようだ。白く塗った窓枠は建築時からのものらしいが、今はアルミサッシのものに交換された。



日の出、あらい。東上野4-12。2008(平成20)年3月2日

1枚目写真の家の前を東に行くと角が イワナガという床屋の看板建築の四軒長屋がある。その角を北に入ったところ。左写真右奥のあずき色の看板建築が岩永理髪店、奥のコンクリートの建物は旧下谷小学校。「パン&コーヒー」の「あらい」の隣はスタンダードな銅板貼り看板建築。上の壁に店名が書いてあるが錆びていて読めない。1986年の住宅地図では「日の出」

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太洋商会。台東区東上野4-1
上:1987(昭和63)年頃
左:1988(昭和63)年5月1日

浅草通りの比留間歯科医院の一つ東のブロックで、後ろに台東区役所、右に上野公共職業安定所(現・ハローワーク上野)がある。大通りに面して看板建築の商店長屋があったが、今は徳雲会館(台東区が運営する葬儀場)という3階建てのビルに替わった。同じビルに臨済宗徳雲院という寺もあるからその寺がビル化したものらしい。ということは写真の長屋は徳雲院の家作だったのだろう。
店は写真左から、新井テーラー、太洋商会(看板に「製紙機 包装紙」「TAIYO BAGGING MACHINE …」と読める)、理容アマノ、傘の遠藤商店。理容アマノは比留間歯科医院の隣へ移った。

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比留間歯科医院。台東区東上野4-1
上:2006(平成18)年11月29日
左:1989(平成1)7月23日

浅草通りの上野駅に近いところで、比留間歯科医院のかわいい洋館はよく目につくし、ネット上にもよく登場する。『日本近代建築総覧』では「建築年=1929(昭和4)年、構造=木造3階建、設計=自家設計、施工=早川(大工)」である。『東京レトロ散歩>東上野「比留間歯科医院」』によると、設計は「初代院長の比留間作次郎氏」、施工は「早川洋建築工房(改築)」だそうだ。
瓦は日本家屋のものだがちゃんと残っていて、とにかく保存状態がいい。家主はよほど建物に愛着を持っているのだろう。3階にあたるところにも窓があるが、屋根裏部屋のもので、実質は2階建てだ。歩道との境のモルタル壁の塀は昭和50年代の改築によるもので、以前は低いコンクリートの柱を立てて鉄棒を通した柵だった(『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988年、1900円)掲載の著者による昭和51年6月のスケッチによる)。



ミイズ美容室。左:1989(平成1)7月23日、右:1988(昭和63)年5月1日

比留間歯科の隣に看板建築の二軒長屋があった。今は長屋の左側はマンションを建築中、右の理容天谷(あまや)は建て替わった。
パーマのミイズ美容室は建物が取り壊されるまで営業は続いていた。理容天谷は以前は少し浅草よりにあったのが移ってきたもので、1枚目写真に見える壁の金文字は旧店舗にあったものだ。上の写真ではたばこ屋に見える。ミイズの左は「ミチノク」の看板があるが、1階は喫茶エルムで、取り壊しの前は沖縄料理の「琉王」、二階が焼肉の「あ・うん」になっていた。

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トタン貼り看板建築。台東区東上野3-12
左:2006(平成18)年11月29日、右:2013(平成25)年7月14日

永寿総合病院(旧西町小学校)の近くの横丁にあるトタン張りの看板建築。緑色に塗った波トタンの家は下谷神社の脇にもあるが、銅板の緑青をイメージしたものなのだろうか。トタンはすぐに錆が正面に出てきてしまうらしい。真ん中の家のように最初から錆色に塗った家もよく見かける。その家が「高野箔押所」。
三軒長屋といっていいのかもしれないが、アパートのような建物らしい。



名古屋精工所。東上野3-11。2013(平成25)年7月14日

1枚目写真の家のすぐ南の街区。トタン貼り看板建築なのだろうが、あまり看板建築というような感じではない。角の家とその後ろの家は片流れ屋根だ。1986年の住宅地図では写真左が渋谷製作所、角の家が名古屋精工所。今は看板がないからそのまま存続しているようではない。路地に入った青トタンの家が「トーヨーアート」の看板を出していて、1986年の地図と一致する。

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五軒長屋。台東区東上野3-35。左:1989(平成1)年2月21日、右:2013(平成25)年8月3日

浅草通りの南の裏通りで、下谷神社の斜め向かいにある五軒長屋。現在も右端の家が「㈲上野制作所」とガラス戸にかいていあり、この家だけは1989年の写真のままだ。1989年の写真でも左の3軒は1階を住居として改修されているようだ。


長部紙器工業所。東上野3-28
1989(平成1)年2月12日

下谷神社の西の横丁にある二軒長屋と出桁造りの家屋。二軒長屋として建てられたと思われる長部紙器工業所は今も建物は写真のままで操業を続けている。
長部紙器の隣は出桁造りの間口はそう大きくはないが立派な日本家屋。側面が見える左の方向からきちんとした写真を撮っておけばよかった。今はかなり改修されて写真の面影はほとんどない。『下町残照』(村岡秀男、朝日新聞社、1988年、1500円)によると、この家は鳶の頭(かしら)の家。当書には昭和62年撮影の写真と当主との話が載っている。その当時で頭は三代目、仲間内では「稲荷町」と呼ばれるらしい。玄関には纏(まとい)が置かれている。

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浅草通り裏の看板建築。台東区東上野3-34。1988(昭和63)年5月1日

浅草通りの南の裏通りで、下谷神社の前を東西に通っている。銅板貼り看板建築の家が3棟ならんでいる。左の1軒は1階が住宅のものに改修されている。他の2軒は木の枠のガラス戸で、家内工業所のような構えだ。その隣はおそらく白く塗ったトタン貼り看板建築、次いで銅板貼り看板建築だ。
現在、左の3軒は健在だが、その左の家は1階を車庫に改装し、その隣は4枚のガラス戸の1枚をドアに替えている。白い看板建築とその隣はそれぞれがビルに建て替わった。



左:黒沢写真店。東上野3-34。2013(平成25)年8月3日
右:クロンボ。東上野3-34。1989(平成1)年2月12日

左写真の右手の路地は浅草通りと1枚目写真の裏通りとの間にある路地。写真のところから入ると、田中家の横から下谷神社の参道に出られる。路地との角にある家は「黒沢写真店」だった家で、ショーウインドーにはカメラを飾っていたのかもしれない。
左写真右はビルの新築工事中だが、そこにあったのが右写真の2軒の家。1986年の住宅地図では、ソーコと食堂クロンボ(洋食)、右のビルが浅草通りとの角に建つ四国仏壇のビル。

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