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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




魚繁、小峯米店。台東区台東3-3。2008(平成20)年3月1日

西郷医院から西へ3軒先の並び。白い看板の家は「魚繁」という魚屋だった。『昭和の東京2台東区』(写真:加藤峯夫、出版:デコ、2013年、1800円+税)に昭和43年5月25日撮影の写真が載っている。その写真の看板には「鮮魚 御料理仕出し 魚繁」の文字が。看板は2011、12年頃に取り外された。
『昭和の東京』の写真には魚繁の右の家の看板がわずかに写っている。「いの一番」(うま味調味料)の袖看板のようで、「小峯米店」となんとか読める。

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千京商店。台東区台東3-3。2008(平成20)年3月1日

西郷医院の南にある二軒長屋。1986年の住宅地図に写真奥の方が「千京商店」としてあるが、撮影時では2軒とも住宅のようだ。



保刈工務店。台東3-3。2003(平成15)年10月23日

1枚目写真の手前の路地を抜けたところの横丁。写真左奥が「保刈工務店」で、1枚目写真の路地がその手前に開いている。写真右手の長屋に「サン・ファッション」の看板が残っている。写真中央の看板建築から右の3棟は再開発されて、「プレール・ドゥーク秋葉原2」(2008年3月築、12階建44戸)というマンションに替わった。

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星野硝子。台東区台東2-32。2003(平成15)年10月23日

清洲橋通りの佐竹通り南口交差点を西へ行って150mほどの交差点を南へ入ったところ。
星野硝子の割と大きい建物は、外観は改装されているが現存している。戦前築の出桁造りの家の前面を、たぶん戦後になって看板建築風に改装したのかと思う。ネットでは硝子食器製造卸としてあるのがあった。2階中央の文字は「食器類」らしい。今は看板もなく、廃業したのかもしれない。
星野硝子の後の看板建築風の民家はやはり正面は改装されたが建替えたのではないようだ。1966年の住宅地図では「倉庫」なので、星野硝子の倉庫だったのだろうか。その左の木造長屋はHTM(2007年4月築、5階建20戸位)というマンションに替わった。
写真右の矢代ビル(1995年9月築、5階建)は佐竹通り南口交差点に出る通りとの角にある。矢代ビルが「中村屋フードショップ」という看板建築長屋だったときの写真が『中村屋、新星出版社/台東2丁目』で公開してある。

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左:ワカツキ通商。台東区台東3-7
右:金美堂箔押所。台東3–10。2003(平成15)年10月23日

左写真は、末広会商店街(すえひろレンガ通り)の南の裏通りで、当ブログ前回の「N邸、M邸」のはす向かい。写真右のワカツキ通商の社名は「台東区近代洋風建築調査報告書[データ編]」(平成8年3月)から。銅板貼りの家と共に「Brilliage御徒町」(2022年1月築、4階建)というマンションに建て替わった。

右写真は「N邸、M邸」の西の街区で、写真中央の2軒と突き当たりの縞の日よけが「金美堂箔押所」。「ホットスタンプ金美堂」とガラス戸にある。写真右の路地との角の家も製本関係の工業所らしい。
金美堂の左の「黒木製作所」の看板建築が建て替わっただけで、景観は今もほとんど変わらない。

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N邸、M邸。台東区台東3-8
2003(平成15)年10月23日

末広会商店街(すえひろレンガ通り)の南の裏通り(間に路地がある)。
戦前築の3軒の家がならんで写っている。撮影時には写真右枠外にもう2軒、トタン貼りの看板建築がある。写真右に看板だけ写っている「石川自転車商店」は3階建の看板建築で、2014年頃正面が改装された。銅板張り看板建築の左の家はストリートビューを見ると、2010年にはすでになく、駐車場になっている。

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吉崎屋洋品店。台東区台東3-22。2008(平成20)年3月1日

当ブログ前回の「丸文、かつ美」と同じ末広会商店街の中程の四つ角から東方向を見た写真。煉瓦舗装が切れるところまでが末広会商店街で、その先の突き当たりが佐竹商店街。
現在は左から2軒目の家が2012年頃に3階建住宅に建て替わった他は、変わりない家並みである。商店が並んでいたのだろうが、1986年の地図ではそれと分る記載は無く、1966年の地図に、手前角の家が「吉崎屋洋品店」となっている。
末広会商店街は『YouTube>末広会商店街』によると、大正4年にすずらん通りとして誕生した。湯島・末広町から佐竹・小島町に抜ける唯一の通りだったため常に賑わっていた。昭和30年頃には通りに70軒くらいの店があったという。現在、ストリートビューで店といえるのを数えてみると10軒だった。

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丸文、かつ美。台東区台東3-8。1989(平成元)年1月29日

末広会商店街(すえひろレンガ通り)の松山寿しの向かいが台東3–8で、写真はその街区の西側の横丁から北方向を撮っている。写真右の床屋がすえひろレンガ通りに面した「内山理容店」。写真からは居酒屋と思われる「丸文」と「かつ美」が認められる。現在、レンガ通りとの角の家(内山理容店の向かい)とその左の家の半分が残っている。角の家は当ブログの『末広会商店街/台東3丁目』で、すえひろレンガ通りから撮った写真を載せている。
1966(昭和41)年の住宅地図では左から「丸文、西、バーみみずく、油藤商店」と「内山バーバー」という記載。

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松山寿し。台東区台東3-20
2008(平成20)年3月1日

写真の街灯にあるように、「末広会商店街」のまん中辺りで、写真右端の家が最近建て替わったが、その左の四軒長屋は今も残っている。商店街の通りは「すえひろレンガ通り」という。2009年に台東区が命名したという。昭和通りの台東1交差点と台東3交差点の間のまん中当たりから東へ向かう通りで、330mの長さ。
「安心堂」から左が看板建築の四軒長屋で、左端は路地の角。白っぽい日よけが「松山寿し」で、かなりの老舗だという。安心堂は1966年の住宅地図では「安心堂ゴム靴店」、その左は「中華珍味」。『昭和の東京2台東区』(写真:加藤峯夫、出版:デコ、2013年、1800円+税)に4軒長屋が写っている昭和42年撮影の写真が載っている。長屋の左端の家の看板をむりやり読むと「家庭文化用品 エンゼル印発売元 株式会社東洋アルミ」だろうか。エンゼル印はたぶん魔法瓶。

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左:コーポ谷口。台東区台東3-38。1988(昭和63)年12月31日
右:看板建築の長屋。台東3-38。1992(平成4)年3月22日

当ブログ前回の坂井邸の南のブロックが台東3-38。西側は裏通りだが、それ以外の3面は路地である。1992年までは「竹の湯」という銭湯があった。
左写真の家はその街区の北側の真ん中あたりで、現存している。「コーポ谷口」の表札がかかっているからアパートなのだろう。現在は写真左の部分(「表千家茶道教授」の看板から左)が建て直されたか改装されている。
右写真の看板建築の長屋は台東3-38の街区の南東角。今も建物は残っているが、正面は改装されてきれいになり、見た感じがだいぶ違ってきている。

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坂井邸。台東区台東3-45。1985(昭和60)年10月27日

昭和通りの台東三丁目交差点と、清洲橋通りの小島二丁目交差点を結ぶ通りから昭和通りに近い横丁を南へ入ったところにあった商家。坂井邸と名前を出してしまったのは、すでに建物がなくなったのと、『台東区近代洋風建築調査報告書[データ編]』(平成8年)に「65坂井邸、台東3–45–4、木造2階建て、出桁、1階洋風」で載っているからだ。
出桁造りの和風の家だが、1階はタイル貼りの壁に洋式のドア。ショーウインドーがあるので商家だったと思うのだが、斜め棒のドアは小売店らしくない。『アクトデザイン凛太朗のブログ>台東1丁目~4丁目散策Ⅱ』では、細かく観察していて細部の写真も載せている。1階壁のタイルは横に線が引かれたスクラッチタイル、2階の銅貼りの戸袋は麻の葉模様、と分る。

坂井邸は2022年には取り壊されて「うれしい保育園仲御徒町駅前」(2023年4月1日開園)という施設になった。



坂口薬局、坂井邸。1992(平成4)年3月22日

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