goo blog サービス終了のお知らせ 
ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京大学正門及び門衛所。文京区本郷7-3。2012(平成24)年4月28日

『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)によれば、正門のデザインは濱尾新(はまおあらた、1849-1925、帝大第3・8代総長)の注文による。「先づ日本的なもので、天地をあらはし、武士道の精神を示すべし」と言って営繕課技師の図案を蹴って、東京市内を巡回して赤坂見附の閑院宮邸の冠木門を見つけた。それをモデルに、営繕課の山口孝吉が製図、細部の意匠と扉を伊東忠太がデザインした。新旧の門の写真の古い絵葉書を貼った写真帖のようなものが当書に掲載されていて、そこに「東京帝国大学正門/大正元年/浜尾新発意/伊東忠太考案/山口孝吉施工」と書いてある。

帝国大学営繕課は1894(明治27)年に設置された営繕掛と明治40年頃に置かれた臨時建築掛とが1912(明治45)に統一して「営繕課」に格上げされた。その初代課長が山口孝吉。山口は1897(明治30)年、東京帝大工科大学造家学科卒業。1900(明治33)年、文部省建築課嘱託になり、帝大の建設に携わる。1907(明治40)年に帝大技師となり、営繕課長の彼が中心になって帝大の校舎が建設された。関東大震災後、それらの校舎はほとんどが建替えられたわけだが、「理科大学科学教室(化学教室東館)」が残っている。

東大新聞オンライン>COLUMN 2019.01.15 本郷キャンパス建築めぐり 明治期煩悶時代の正門』には、「明治45年7月10日に図書館で行われた卒業証書授与式の天皇陛下行幸をもって開門しました。正門の高さは、正門の行幸の際の騎馬儀杖兵の槍先を考慮したためともいわれています」とある。明治天皇は1912(明治45)年7月30日に崩御したからその直前である。『ウィキペディア』には「天皇は明治45年7月11日の東京大学卒業式に出席したが、気分は悪かったという」とあった。
明治天皇は1899(明治32)年に東京帝国大学の卒業式に臨席、優等卒業生に銀時計を下賜された。以降、それが恒例になり、1918(大正7)年まで続いた。「恩賜の銀時計」である(今日は何の日? 歴史辞典0710)。



東京大学正門及び門衛所。2012(平成24)年4月28日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2010年頃から、東大本郷キャンパスの再整備が急に進みだしてようで、今も工事中の建物が幾つもある。本郷キャンパスの建物はその配置計画も含めて、関東大震災後に内田祥三(うちだよしかず)によって造りあげられたといっていい。なんとなくいつまでもそのままの状態でいくような気がしていたが、当然、そういうことはない。なくなった建物があれば、まったく新しい建物も増えた。そこで、東大の建物を本ブログにまとめてみることにする。参考資料として最近出版された『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)を多用する。


安田講堂。文京区本郷7-3。左:1988(昭和63)年1月30日、右:2012(平成24)年4月28日

安田講堂(東京大学大講堂)は関東大震災前に計画され、工事が着手された建物だ。『東京大学本郷キャンパス』には、正門からイチョウ並木の先に大講堂を置くという構想は濱尾新(1849-1925、帝大第3・8代総長)から出たものという。1912(大正1)年には正門が完成し、イチョウ並木も整備された。1921(大正10)年に安田善次郎から100万円の寄付があり、建設が具体化していく。
「ウィキペディア」では、「内田祥三が基本設計を行い、弟子の岸田日出刀が担当した。……1921年(大正10年)に起工し、関東大震災による工事中断を経て1925年(大正14年)7月6日に竣工」。鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)、地上7階地下1階。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)では「設計については諸説あるが、学生時代から縦線を強調したデザインをよくした若き岸田日出刀と思われる。ゴチックのコンセプトと、表現主義的なモチーフをおりまぜた、様式より近代への懸樋である。全体のまとめは師の内田祥三であろうが、岸田の代表作となっている」としている。
「LIXIL」が発行している『LIXIL eye』という冊子の『生き続ける建築-6 内田祥三』には、内田の大講堂正面外観の図が載っていて、そのキャプションに「実施案以前の内田案には、「goth式ガ余リニ鮮明ナルコトガ如何ナルモ□□ヤ佐野」と付されている。この後、岸田のE.メンデルゾーン好きにいささか閉口させられる内田だが、大講堂で自案を捨て、似た構成で外観の異なる岸田案を推すに至る背後には、佐野〈利器〉のこの意見があったことになる。……」とある。




上:2007(平成19)年12月15日
左:2012(平成24)年4月28日

「ウィキペディア」によれば、1968(昭和43)年の東大紛争後、20年間も閉鎖されていたが、1988(昭和63)年から1994(平成6)に修復工事が行われた。富士銀行など旧安田財閥ゆかりの企業の寄付があった。1991(平成3)年には講堂での卒業式が復活している。
『東京大学本郷キャンパス』によれば、閉鎖中の1976(昭和51)年に、渡邊定夫教授の設計によって、安田講堂の前の広場の地下に中央食堂が建設された。
2011(平成23)年の東日本大震災の被災を調査した結果、躯体の耐震性と天井などの安全性が懸念された。創建当時の姿に戻す復元を目指す改修が行われる。ただし、講堂としての機能性を重視し、改変も許容するという柔軟な方針がとられた。創建時は自然光を構内に導いていたが、それを復活したのが特筆に値する。創建以来、最も大規模なものになったこの工事は2014(平成26)年に竣工した。



2007(平成19)年12月15日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





Y邸。文京区西片2-12。2007(平成19)年2月24日

中村邸の裏手、平野家住宅と同じ通りにあった家。白い壁がきれいで、最近の住宅に見えないこともない。気を付けてみると、1階裾の壁と塀にスクラッチタイルが使われている。昭和初期に流行った壁材である。さらに、手前に張り出している部分の2階の窓がステンドグラスだ。戦前に建った洋館ではないかと推定できる根拠になる。
2010年頃に取り壊されて時間貸駐車場(ナビパーク西片第一、6台)になってしまった。



Y邸。2009年11月撮影のストリートビューより

西片町会>平野邸』によると、前の道路は「……昔、「桑の小路通り」と呼ばれていた。明治20年ごろまで西片町で養蚕事業が行われており、この辺りが桑畑の中心だったことに由来している。以前は桑の木が町の中のそこここに残っていた」という。Y邸横の路地は、同サイトの「昔の町内地図>大正」に記載がある路地だろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






中村邸。文京区西片2-12
上:1988(昭和63)年1月30日
左:2000(平成12)年5月5日

切妻屋根の裾がゆるい角度になっていて、その分急勾配で高くなった屋根が印象的な洋館だった。そう大きくもまた多くもない庭木が建物をうまい具合に隠していて、上の写真では屋根しか見えない。写真手前のタイル張りの塀は中村邸の手前の家のものだから、庭木もその家のものかもしれない。
『日本近代建築総覧』では「中村英夫邸〈英生ではないかと思うがあるいは代が変わったか?〉(旧中村医院)、建築年=大正初期、構造=木造2階建て、屋根裏部屋付。医院として使用」。モルタル塗りの壁で、コンクリート造のように見える。
都市徘徊blog>中村邸』によると、「旧村松医院」としていて、2013年末に解体されたという。こちらのサイトの写真は逆光にならない曇りの日に、建物がちゃんと収まるアングルで撮られている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






平野家住宅。文京区西片2-9
2007(平成19)年2月24日

平尾家住宅は、『国指定文化財データベース』によると、主屋、客間棟、洋館、住宅蔵、茶室の4棟が1998年に国の登録有形文化財に指定された建物(他に茶室門と住宅門)で、敷地の奥には割と近年増築されたらしい別棟がある。「わが国最初期の住宅作家とされる保岡勝也による和洋折衷住宅」で、主屋(洋館の後ろにある棟と思える)は1921(大正10)年、その他は1922年頃の建築としているが、『西方町会』では「大正10年(1921)に洋館、翌年に和風主屋が建てられた」とある。
設計者の保岡勝也(1877-1942年)は、1900(明治33)年、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、工科大学では学長であった辰野金吾に師事した。三菱合資会社に入社し、曽禰達蔵の下で丸の内赤煉瓦街の設計に携わる。1913(大正2)年に独立して、川越の八十五銀行本店(1918年)、山吉デパート(1936年)などを設計した(ウィキペディア)。「住宅作家」としても評価されているという。
『西方町会』には「この家は中央公論創始者・初代社長の麻田駒之助の邸だった。洋館部分の1階を中央公論、2階を婦人公論の編集室として使った時期もあり、その後平野家が譲り受けた」ともある。
道路から見えるのは客間棟と洋館の正面に住宅門。写真の塀は門と同じく煉瓦造モルタル塗で、内側に控えがあるという。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




金澤家住宅。文京区西片2-2
2000(平成12)年5月5日

写真では主屋がわずかしか写っていないが、2階建て純和風の住宅に、切妻屋根の洋風のアトリエが付属した家である。
国指定文化財データベース』によると、1930(昭和5)年に、「東京美術学校建築科の助教授であった金澤庸治(ようじ)が父親のために建てた住宅」で、「2階建の主屋のみ棟を東西方向に振っているのが特徴。施工は清水組」。アトリエ(金澤家住宅洋館)は「板塀に沿って建てられた平屋建、下見板張りの洋館で、北西面の外壁と屋根の一部をガラス張りとしていることから一見してアトリエの造りと解る。切妻屋根の右手の寄棟部は応接室。建築設計事務所兼自宅を意図したものとされる」ということだ。
金澤庸治(1900ー1982年)は、東京美術学校建築科を卒業後、そこの教職に就いて建築教育にあたる。東京芸術大学大学美術館正木記念館を設計している。「恩師である岡田信一郎の右腕として岡田の作品をバックアップする(ウキペディア)」という一面もあったという。
落合道人>西片町の気になるアトリエ住宅』には、清水組『住宅建築図集』から、「竣工直後の金澤庸治邸」と「金澤邸竣工時の平面図」が引用されている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






小石川植物園本館。文京区白山3-7
1989(平成1)年5月7日

小石川植物園は「徳川綱吉が将軍職にあった貞享元年(1684年)に、子供の頃の綱吉の下屋敷であった白山御殿の跡地に作った薬園(小石川御薬園)を起源としている。明治になって、文部省博物館の附属となった時に小石川植物園と改称され、日本における最初の植物園となった。その後、明治10年(1877年)4月12日の東京大学創設後間もなく本学の附属となり、理学部の管理する施設となった」「本館には研究室や事務室、標本室などがある」(東京大学大学院理学系研究科・理学部>第1回植物園)。そういう施設だから、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園」という。
本館の建物は1939(昭和14)年に建ったもので、RC2階建塔付、内田祥三(よしかず)の設計。内田は関東大震災後の東京帝大構内の復旧を主導し多くの建物を設計しているが、多くはゴシック様式を基調とする古風な建物で、「内田ゴシック」といわれるデザインある。植物園本館はモダニズムというしかないようで、アールデコとか表現派にはならないようだ。内田は1936(昭和11)年に「東京大学三崎臨海実験所本館」を建てていて、そこに出窓のような半円形の部屋を造っている。植物園本館の左右の翼先端の造形は、実験所で使ったデザインを再使用したのかもしれない。時計塔は実用からは外れて外観を整える役割しかない。内田はなかば遊びで設計していないだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





旧東京医学校本館。文京区白山3-7。1989(平成1)年5月7日

小石川植物園(東京大学理学部附属植物園)の西端に建っている擬洋風の建物は「東京医学校本館」として現在の東大構内に建てられたもの。「明治9年(1875)に竣工した木造二階建の建物で、明治政府が諸官庁の建築工事を管掌させた工部省営繕局の設計になる」(国指定文化財等データベース)。『日本近代建築総覧』では「東京大学医学部本部(旧東京医学校)」の建物名で、設計者は「西郷元善」となっている。龍岡門を入った右手に建てられたという(近代建築写真室@東京>旧東京医学校本館)。
「明治44年(1911)に前半部が赤門脇へ移され、史料編纂掛(後半部は神田錦町の学士会館)の建物となる。この際の平面規模の縮小と共に、屋根の上の搭屋、車寄の上の手摺などの形状が変更され現在見るような姿となった」(東京大学総合研究博物館>小石川分館)。このときの建物はグーグル古地図の航空写真で確認できる。同地図の明治の地図では「第一醫院本室」と記載されている。
「昭和3年(1928)以降は営繕課や施設部の建物となる。昭和40年(1965)に解体され、44年に理学部附属植物園(小石川植物園)内の現在地に再建され、45年に国の重要文化財の指定を受ける」。
平成13年(2001)11月に、「東京大学総合研究博物館」の「小石川分館」として開館した。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




彰栄保育福祉専門学校。文京区白山4-14
1988(昭和63)年3月13日

彰栄保育福祉専門学校は、一般に「幼稚園の先生」と言っていると思うが、「幼稚園教諭」を養成する専門校。学校のHPによると、「122年前アメリカから派遣された1人の婦人宣教師により作られた幼稚園教諭養成塾から始まります」ということで、「1896年(明治29年)東京幼稚園保姆養成所として開設。後に東京保姆伝習所と改称」したという、歴史がある学校だ。彰栄幼稚園は1898年(明治31年)の設立。1917年(大正6年)に「保姆養成学校」として東京府の認可を受ける。1954年(昭和29年)に「東京保育女子学院」と改称し、1976年(昭和51年)に専修学校となり「彰栄保育専門学校」と改称した。現行の名称は1992年(平成4年)から。
写真の本館?は、『日本近代建築総覧』に「東京保育女子学院、建築年=昭和7年、RC3階建、設計・施工=清水組、外壁一部タイル張、竣工時写真有り」で載っている。
周囲は空襲で焼き払われた地区で、本館も火が入ったと思われる。現在、写真の門は改修されて、レンガの門柱と飾の入った門扉、および塀になっている。あるいは昔のものに復元したのだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






京華女子中学・高等学校
文京区白山5-13。1988(昭和63)年3月13日

京華学園は「京華女子中学・高等学校」、「京華中学・高等学校」、「京華商業高等学校」の3校があり、それらを統括するのが「学校法人京華学園」ということなのだろう。キャンパスは二つに分かれているが、いずれも白山通り沿いでごく近くにある。京華女子中学・高等学校は私立の中高一貫の女子校。
京華学園は1897(明治30)年に本郷龍岡町に「京華尋常中学校」として創立されて、一昨年に創立120周年を祝っている。1909(明治42)年に「京華高等女学校」を設立。このとき校舎は白山(当時は小石川原町)に建てた。昭和6年に校舎(木造2階建?)が火災で焼失。ということは関東大震災では倒壊しなかったわけだ。それを建て直したのが写真の校舎で、1933(昭和8)年1月に完成した。『関根要太郎研究室@はこだて>京華女子中学高等学校』によれば、「木田保造により再建された鉄骨鉄筋コンクリート製校舎」で、設計者も「木田保造率いる木田組」ではないかと推定している。
木田保造(1885-1940年)については、ぼくは初めて知ったが、やはり『関根要太郎研究室@はこだて>木田保造について』に解説されている。函館の東本願寺函館別院(1915年)を手掛け、当時まだ工法が確立していなかった鉄筋コンクリート造で完成させている。函館には木田が施工した建物が10余棟が現存し、建築界にはかなりの貢献をした人らしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »