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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




西片会館。文京区西片1-5。1988(昭和63)年10月10日

写真右奥の木立は「西片児童遊園(西片公園)」で、その南のブロックを南側から撮った写真。庭木に囲まれた民家に「西片町会事務所」の看板が出ている。1986年の住宅地図では「西片町々会事務所」だが、1969年の地図では「西片会館」。
西片町会>西片紹介』によると、西片町会の設立は大正12年9月の関東大震災を契機とする。西方町自体の被害は少なかったようだが、近隣の被災者はそういう地域へ避難してきて、阿部家本邸の一部や大椎の木の広場(現在の西片公園)などにひとまず落ち着く。ほおっても置けないので西片町の人々は協力して救援活動をしたが、それをきっかけに町会が組織されたという。
戦後は解散させられたが、昭和22年6月には西片会館建設委員会を設立し町会の再起を期す。昭和28年には西片町会が再発足した。
「西片の年表」に「1929(昭和4)年、旧町会建物を現在の会館の地「いノ24」に移築、模様替え」とあるから、写真の民家がそれになるらしい。時代は下って「2002(平成14)年4月、木造西片会館を取り壊す。旧会館の庭にあった紅梅を西片公園へ移植」「2003(平成15)年1月、鉄筋コンクリート造の新西片会館竣工。2月会館披露・祝賀会」となる。

写真左枠外の町会事務所の隣は戦前からある日本家屋の屋敷と思われる。その家の門に「本郷区駒込西片町拾番地いの二五号」という表札を付けている。

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上:K邸。文京区西片1-5。1988(昭和63)年3月13日
左:O邸。西片1-6。1988(昭和63)年10 月10 日

上の写真の左枠外が西片児童遊園。昭和22年の航空写真に写っているから戦前からある洋館だろう。現在は二階建てのアパートに建て替わっている。
左写真はK邸の一つ北のブロックにあった。洋館風の家に見えるが母屋は右奥にあって、その西(左)の部分から南へ突き出した部分である。屋根が日本家屋の形式なので、母屋は和式の家だったと思われる。左に写っている日本家屋は隣の家。現在は個々に建て替わっている。

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I邸。文京区西片1-11。2007(平成19)年2月24日

言問通り(の延長、清水橋通り)に架かる清水橋の通りを西へ行くとすぐ「西片児童遊園」で、そこを過ぎて南へ入る道路との角にあった日本家屋の住宅。塀際に洋風の小さな別棟があるが、そちらは案外と新しいものかもしれない。2015年に建て替えられた。
下の写真は、上の写真左奥に写っている家。撮影後、1・2年で取り壊されたと思える。現在は駐車場。
西片1・2丁目(旧駒込西片町)は江戸期は福山藩阿部家(幕末の阿部正弘が有名)の江戸丸山屋敷で、明治になっても阿部家が所有した。明治中期から広大な阿部邸の敷地を宅地として開発していったらしい。写真の2軒は普通に見れば庭付きの贅沢なお屋敷だが、「阿部さま」にすれば一般庶民の住宅なのだろう。



K邸。西片1-11。2007(平成19)年2月24日

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中村邸。文京区西片1-1。1986(昭和61)年5月

お屋敷町といっていい文京区西片にあった洋館。西片の高級住宅街というと普通は本郷台地の上に広がっているが、写真の洋館は台地の崖の下、言問通り沿いにあった。菊坂下交差点の少し北で、現在は「メイフラワー西片」(1990年7月築、5階建20戸)というマンションに替わっている。写真左の家は今も変わっていないようで、門とガレージは写真のままだ。
洋館は『日本近代建築総覧』に「中村道雄邸、昭和6年築、RC3階建、設計=高松政雄、1階外壁煉瓦タイル張」となっている建物。
高松政雄というと、「1885-1934年。曽禰中條建築事務所に入所し、丸の内のオフィスビルなどの設計に従事する。また、東京海上ビルなどの設計を行った。 特に病院建築の設計監督に從事する。病院建築は造詣が深く、慶應義塾大学病院などの設計を行った」(ウィキペディア)建築家がいた。中村邸の設計者がその人なのだろうか?


中村邸。1988(昭和63)年10月10日

中村邸の北側。洋館の裏手に母屋になるらしい2階建ての家、手前に平家の日本家屋が洋館とくっついている。駐車場は、今は時間貸しの機械が入ったが、やはり駐車場のまま。

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清水橋。文京区西片2-2。1988(昭和63)年10月10日

清水橋は言問通り(の延長部)に架かっている陸橋。空橋(からばし)ともいう。本郷台に割って入っている谷を言問通りが通り、谷で分かれた本郷6丁目と西片1・2丁目を渡している。
西片町会』は充実した町会のHPで、町の歴史が詳しく述べられている。清水橋については、以下のことが判る。
最初に架けられたのは明治13年(1880)。明治39年(1906)頃に架け替えられる。これも木の橋だったが設計は福島出身の建築家武田五一だという。『ウィキペディア』の武田五一の項では、1914年の架橋としている。武田五一は同時期に清水橋からはごく近いところに、求道会館(1915年)を建てているから、そのついでに橋も設計したということだろうか。
写真の橋は3代目の橋で、『西片町会』には記載がないが、大正15年(1925)架橋としているサイトがあった。両端のハンチが印象的だ。ハンチhaunchとは「おもに鉄筋コンクリート造の梁の両端部付近で、梁の下面が一定の勾配をもって傾斜し、梁のつけ根にいくに従って梁断面が大きくなる部分をいう。……梁の下面を斜面にせずになだらかな曲面にする場合や、梁の側面を広げた水平ハンチも使われることがある。」(ブリタニカ国際大百科事典)。
清水橋は2018年2月から2019年4月完成予定で架け替え工事に入っている。

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石井いり豆店。文京区西片1-2。1989(平成1)年4月9日

松井電機の右に続く家並み。現在は左のタバコ屋が「旬菜宵処おぐち」という居酒屋に、「まごころ」という弁当屋の建物は5階建てのビルに替わった。
写真右の「石井いり豆店」は今も変わらない佇まいを見せている。創業が明治20年という老舗だ。『煎り豆百年の味』によると、現店主は四代目。「初代は練馬の農家の次男坊で、増次郎といった。話では実家を出て、石井家の名籍を買い、家督となって浅草の豆屋に商売を教わりに行ったそうだ。一年ほど修行して独立。この西片で店を開いた」という。「昭和10年ごろ道路拡張の際、創業以来の普請を建て替え、3年前さらに大改修をした」というから、建物は昭和10年頃に建てたもので、店の前の言問通り(の延長部)は北に拡張したらしい。近年家を大改修したというから、現在の外観は写真のものとはいくらか違うのかもしれないが、「できるだけもとのままに」という工事だった。



三浦屋酒店。西片1-2。1988(昭和63)年1月30日

1枚目写真のところから右(東)へ少し行った菊坂下交差点の北側の昭和末の家並み。現在は写っている建物はほとんどが建て替わってしまった。写真左の小平(おだいら)歯科医院のビルは外観を改装しただけかもしれない。


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初音屋。文京区西片1-2。1989(平成1)年4月9日

田中雑貨店のすぐ東の街区。前の通りは菊坂下を通って不忍通りから先は言問通りに入る。白山通りまでをも言問通りとしてしまっていいようなもので、「言問通りの延長」などともいうが、「から橋(空橋)通り」と呼ぶ人もあるようなので、その名称がよさそうに思う。空橋とはこの通りに架かる陸橋で、清水橋の別名。
通りに並んでいる店は左から、「初音屋」(焼肉)と「日本舞踏/創作民舞/若柳流舞踏稽古場」、「萬月」(居酒屋)、「清光モータース」、「坂井電機」。現在は初音屋が4階建てのビル(上藤ビル、1992年築)に建替わったがその右の3軒は残っていて、萬月と清光モータースは商売も続いている。坂井電機は1階を住居に改装した。
初音屋の建物は切妻屋根でもあり、木造のように思える。萬月のビルは「南雲ビル」という。1974年の地図ではビルにする前の建物かと思うが「鵜沢書店」。



石坂。西片1-14。1988(昭和63)年3月13日

1枚目写真左の路地は石坂という坂道への入口。石坂は台地上の西片の高級住宅街と菊坂下の低地を結ぶ道路。上の写真はカーブしてから西向きに上がっていく中腹から上の部分。現在は写真の屋敷の家は建て替わり、板塀も石垣もなくなった。

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田中雑貨店。文京区西方1-15
上:1988(昭和63)年1月30日
左:2012(平成24)年4月28日

白山通りの西片交差点から東へ、菊坂下の方へ入ってすぐのところにあった雑貨店。トタンで石積風の模様にした看板建築だ。建物は現存していて、左の店(撮影時の地図では「庄や」)との二軒長屋。左写真でそれが判る。

1974年の地図には、田中雑貨店の横の路地を入った右側に「文京東映」という建物が記されている。現在そこには「パラシオン本郷」(1980年10月築、9階建31戸)というマンションが建っている。『消えた映画館の記憶』には、1953年には載っていなくて、1960年に出ている。判るのはそれだけだが、『Google古地図>昭和38年(1963)航空写真』に写っているのを見ると、映画館の表面は、横の路地から階段をあがった裏の路地に開いていていたようだ。

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小曽木質店。文京区千駄木5-5。2000(平成12)年5月5日

不忍通りの団子坂下交差点から西へ、本郷通りの向丘二丁目交差点へ向かう都道452号(白山神田線)から駒込学園近くの裏手に入ったところにあった質屋の蔵。都道はこの辺りでは「大観音通り」という表札が外灯に付いている。駒込学園前交差点の西北に「駒込大観音(光源寺)」があり、その交差点のすぐ東を北へ入ったところ。
周囲は戦災で焼失した地区である。写真の土蔵はその造りのため焼け残って戦後もずっと使い続けてきたものかと思う。周辺は一戸建て住宅が密集する住宅地で、小曽木質店の敷地も、現在は数棟の住宅に替わっている。

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山長鮮魚店。文京区千駄木3-38。2007(平成19)年12月1日

写真は「よみせ通り」の南部から北の方角を見ている。住所は左(西)が文京区千駄木、右が台東区谷中。よみせ通りは藍染川の流路で、自然と本郷区と下谷区の境となったのが今に引き継がれている。藍染川は大正末には暗渠に替わり、幅8mの道路の商店街になった。
看板建築が並んでいる。「山長」の四軒長屋は、軒の下に雷文模様や円柱を模した仕切りがあって、昭和初期の建物かと見える。ただし周囲にある看板建築は戦後の建築と見えて、山長の長屋もあるいは、と思わせる。山長の創業は大正中期という。

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