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ヒトラー・ユーゲントの来日と還ってこなかった少年兵たち  

2013-08-17 02:01:24 | 歴史を考える
 いつの間にか有耶無耶になってしまいましたが、「ナチスに学べ」と語った副総理がいました。そして8月15日には3名の閣僚を含む100人以上の国会議員が靖国神社に参拝しました。日本の国会議員の総数は700人余ですから、7人に1人はオカルティストということになるわけですが、ここではそれを改めていい立てようとするわけではありません。

 ナチス-----靖国の関連で、いつか読んだヒトラー・ユーゲントの訪日と靖国参拝の話を思い出したのでした。それで調べてみたら、何とヒトラー・ユーゲントの来日がこの8月16日だったのです。
 え?そんなことは知らない?そりゃそうでしょうね。彼らの来日はちょうど75年前の1938年のことなのですから。なぜ私がそれを知ったかというと、この1938年こそ、私がこの世に生を受けた年であり、この年にどんな出来事があったかを調べたことがあったからなのです。

               
                 ヒトラー・ユーゲントの旗

 ところで、このヒトラー・ユーゲントについても概説すべきでしょうね。日本語にすれば「ヒトラー青少年団」ということになりますが、文字通り、ヒトラーの周辺に組織された私的な青少年団だったのですが、1933年にナチスが政権に就くや、その他の青少年団体をも吸収し、ついに36年には「ヒトラー・ユーゲント法」が制定され、10歳から18歳までの青少年全員の加入が義務付けられるに至りました。もちろんその他の団体は禁止されましたから、選択の余地がない総動員体制だったわけです。

 その代表が来日したのが75年前の8月16日でした。
 すでに、1936年には、日独防共協定が締結されていましたから、同盟国の青年たちとして国を挙げての大歓迎だったようです。なお、この際、「万歳ヒトラー・ユーゲント」という歌も作られ、その作詞は北原白秋でした(作曲は高階哲夫)。

 http://www.youtube.com/watch?v=SV-xjvJuE0Y

 そしてその年の10月、彼らは靖国に参拝したのでした。

         
              ヒトラー・ユーゲントの靖国参拝

 さて、このヒトラー・ユーゲントがその辺の青年団やボーイスカウトのようなものなら当たり障りがないのですが、同時に彼らはヒトラーの意志を実現する組織としてユダヤ人の迫害など様々な活動を行ってきたばかりか、戦争末期に於いては少年兵として戦場に駆り出され、その多くが戦場の露と消えたのでした。

 しかし、少年兵の投入はナチス・ドイツのみの所業とは限りませんでした。
 この国、日本でも戦争末期、多くの少年兵が戦場で命を落としています。
 まず地上戦が行われた沖縄では、多くの中学生や女学生が前線へと送り込まれました。中学生に関してはその動因数は約900人でそのうち約400人は還ることはありませんでした。

 最も多くの少年兵が犠牲になったのは硫黄島でした。ここには約21,000の日本兵がいたのですが、何とそのうち、3,800人は少年兵でした。彼らは昼はアメリカ軍の猛攻に耐えて洞窟などに潜んでいたのですが、夕刻その攻撃が止むと、北の方角、故郷に向かって、「故郷の廃家」という歌を合唱したのだそうです。私はその事実を、おおよそ5年前、このブログに涙しながら書き記しました。

  http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080313

 結果としてこの島では、「降伏をするくらいなら全員玉砕しろ」という野蛮極まりない戦闘の結果、約20,000人が無為に死を強要され、生存者は5%に満たない有様でした。少年兵たちもまた、そのほとんどがこの島に骨を埋めることになったのでした。

           
                  日本の少年航空兵たち

 私がことさら胸を痛めるのは、この少年たちが遠い昔の人たちではないということです。その折、私は6歳でしたから、わずか10歳上の人達が、ひょっとしたら私がどこかですれ違ったかも知れない人たちが、その犠牲になったということなのです。

 長くなりましたが、もう一つだけ書き加えます。
 少年たちが戦場に駆り出されるという事実は終わってはいないのです。
 現在の世界の5分の1は戦場であり、潜在的には3分の1が戦場たりうるといわれています。そして、それらのなかで武器を手にする少年兵の存在も決して珍しくはないのです。少年たちに主体的な判断を期待することは困難です。そのほとんどが周辺の大人たちの刷り込みによるものです。

 少年たちが武器を持たなければならない世界、それがあたかも英雄的な行為であるかのように讃える世界を私は嫌悪します。
 これは、1945年、アメリカ軍が上陸し、本土決戦になったら、竹槍で一人一殺を実践しようとしていた軍国幼年の、68年後の述懐です。

 
 

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7 コメント

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Unknown (只今)
2013-08-17 10:27:24
 来名したヒトラー・ユーゲントは、愛知一中とサッカー試合。
 その時の選手だったという佐藤さん(八髙生)に歓迎歌を教えてもらった記憶があります。
 ♪ハーケン・クロイツ バンザイ・ナチス♭
 という箇所が口にのぼせますが、
 それは1941年、国民学校一年生時のこと。
 大日本青少年団員の候補育成の集いではなかったかと思うのですが、
 ユーゲントは佐藤さんと同様、憧れの存在で、まぶしい限りでした。
 
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Unknown (冠山)
2013-08-17 21:24:02
先日、ルソン島からかろうじて帰ってきた少年兵二人の対談を聴きました。今年、米寿です。彼らの終戦は、9月15日という。それまでなんでも、なんでも、食って生き延びた、という。人肉も食われていた、と否定しなかった。どうやって生きられたか、きれいごとで説明できないなかで、戦争は、人を人でなくする、ぜったい反対と言いきっていました。
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Unknown (六文錢)
2013-08-18 00:15:13
>只今さん
 少しの年代差で違うものですね。私の場合は自分の生まれた年の出来事を調べているうちに文献で知ったのみですが、只今さんは身近でそれに関連した人をご存知なんですね。
 若くて使命をもった一団、そしてその制服、やはり憧れる時期がありますね。私も幼年時、海軍さんの純白の制服を神々しいとまで思っていました。
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Unknown (六文錢)
2013-08-18 00:35:27
>冠山さん
 うっかりしていました。冠山さんは今の私の大先達ですから、ついお若いころを想像しにくいのですが、当時の年齢に換算すれば立派な少年兵でいらっしゃったし、その体験をお書きになったものも読んでいました。
 ルソンの話も悲惨なようですね。私の実父が戦死をしたビルマもそうだったようで、最初は行け行けどんどんだったのが、そのうちに兵器や食料の補給を絶たれ、孤立させられた兵士たちはおっしゃるように言葉に尽くせない辛酸をなめたことだと思います。
 何れにしても日本軍は、兵士を使い捨てのコマとしてほとんど人間として扱ってこなかったようですね。
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Unknown (冠山)
2013-08-18 10:36:21
ルソン島から餓死寸前で生還した少年兵は、なんでも食ったと書きましたが、その中には、現地フィリツピン人の畑から、家から強奪した食べ物もありました。フィリッピン人にとって彼らは侵略の武装兵でもあり、現地ゲリラ兵と銃火を交えました。その体にしみついた記憶が米寿の彼らを苦しめています。
今、戦後かすかに見えたかの連帯への希望がおびやかされ、苦悩しています。戦争はしてはなりません。
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Unknown (六文錢)
2013-08-18 13:18:22
>冠山さん
 仰るとおりですね。
 引き続き、戦争シリーズとして、今の県岐阜商業の松井栄造氏に関する記事を載せました。
 彼が戦地から、「改造」や「中央公論」を送ってくれと家族に要請していたのを初めて知りました。
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起きてはいけないひどい事件発生 (芋田治虫)
2018-04-01 18:15:15
ドイツの学校で、「ヒトラー・ユーゲントと国民突撃隊」は無罪と言った生徒を、担任の教師が射殺するという事件発生。↓
https://youtu.be/LC1pBq1UevU
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