藤圭子さんの突然死で、TVは色めき立って何やかやと騒々しい。
しばらくはこれで稼ぐつもりだろう。
デビュー時、これまでの演歌とはいくぶん違うなと思った。
早速、五木寛之などが「怨歌」などという造語を用い、小説などに書いた。
彼女の歌はルサンチマンそのものだというのだ。
あまり意味ありげに持ちあげるのもなんだかなぁと思った。
ただし、ルサンチマンという意味では案外あたっていて、彼女本人のそれや、演歌に含まれる喪失した恋への追憶などと同時に、ある意味、時代の風潮をも併せ持っていてのかもしれない。したがって、それまでの演歌ファンであった中高年層以外の、割合若い層からも支持を受けたのかもしれないと思っていた。
これは勝手な憶測だが、彼女の活動した時期は、68年の全共闘の反乱を経て、70年安保にいたり、かつ、三島由紀夫の自決やさらには連赤事件にひとつの終止点を見出すなど、戦後をひとつの動機とした諸々の連鎖が一応絶たれ、容易に出口が見いだせない混迷の時期であった。
その意味では、そうしたことども全てがある種のルサンチマンを呼ぶ要素をもっていたのであり、彼女の「怨歌」はそれらと共鳴したのかもしれない。
そうした彼女が第一線から消えた頃、この国は根の浅い無邪気な自信を伴って陽気に再生したかに見えた。曰く、「ジャパン・アズ・ナンバーワン!」。
それらが新たな危機への入り口であることには気づかず、人びとはひたすら浮かれはしゃいでいた。もはや時代は彼女のものではなかった。
そんな藤圭子さんに一度だけ面と向かって会ったことがある。
もうその活動の頂点を経過した70年代の後半だったろうか、私がやっていた店の前がかつての力士が経営していたちゃんこ料理店で、そのせいか、スポーツ選手や芸能人たちがよく出入りしていた。
そんなある日、何げなしに私が店から出ると、前の店からも女性が一人出てきて、それが藤圭子さんであった。タニマチに取り囲まれての宴席に疲れてひと息入れに出たといった風情であった。
それに気付いた私は「こんにちは」か「こんばんは」かの挨拶をした。
彼女も、微笑みながら挨拶を返した。
もちろん、彼女にとっては路傍の石に等しい居酒屋の亭主に、特別な意識など持ちようがなかったに違いない。
TVなどの画面で見るよりはずいぶん小さい人だなぁというのがその折の印象だった。
何があったのかそんなことは知らないし特に知りたくもない。
ただ、ああ、あの折の女性が自死を選んだのかという感慨は残る。
合掌あるのみだ。