六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

丸太ん棒はだれでもいいのです。あなただって、私だって・・・。

2013-08-09 23:23:25 | ひとを弔う
 今日はナガサキ忌ですね。
 
 原爆や原発の相互関連については6日の日記(http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20130806)に書きましたので改めて触れませんが、ここで亡くなられた人たち、その後、原爆症に苦しみながら斃れた人たち、生きながらえたものの後遺症に苦しんだ人たちに、かけるべき言葉もありません。
 とりわけここでの炸裂が、本来なら小倉で投下さるべきものが、そこでの三度の投下失敗のもと、予備であったこの地への投下であったことを知っている私にとっては、複雑な思いとともに考えさせられるものがあるのです。

 もちろん、小倉であればよかったという意味では全くありません。どこであろうとこの所業は許されるべきではありません。と同時にどこであろうともよかったところにこの殲滅兵器の特色があります。ようするに、小倉でも長崎でも、あるいはその他の都市のどこでも良かったというところにこの兵器が通常兵器とは一線を画す、いわば通常兵器の限界を超えたものであることが示されているのです。

 たとえば、日本の戦国時代の戦は、どこの領地を、あるいは敵のどの武将を倒すかに焦点は絞られ、それが達成された時点で戦は終了しました。ヨーロッパなどでの戦もやはりその限度内であったように思います。
 近代の戦争は、飛び道具などの発達により不特定多数を殺戮する範囲がぐんと増えたとはいえ、それもまだ戦略戦術の範囲内で、どこをどう落としたら勝利に至るのかの範囲内でした。

         
 
 しかし、原発は違います。もはやそうした戦略戦術を超え、ただひたすら人間の殲滅を、多くの人間を殺すことのみを使命とするにいたったのです。
 殲滅を使命とする原発という兵器ののもとにおいては、どこの誰をというのはもはやまったくの関心外なのです。

 ですからそれは、小倉であるか長崎であるか、はたまた他の都市か、そんなことはどうでも良かったのでした。したがってそのもとで死するのはあの人でもこの人でも、そしてあなたでも私でも誰でもよかったのです。
 誰であるかを選ばず、ともかく死へと至らしめる、そしてその量が膨大であることのみを自己目的とする技術としての殲滅兵器はもはやその対象を選ばないのです(詳論はさけますが、これは技術というものの持っている究極のありようと通底するものです)。
 
 原爆が、アウシュビッツと並んで殲滅の装置であることは今や明らかです。アウシュビッツのユダヤ人たちが、何であるか、誰であるかをすべて奪われて、ただ殲滅の対象として消されていったのと同様、ナガサキでもヒロシマでも、彼らが何であれ、誰であったのかは不問のまま、ただひたすら殲滅のために殲滅されたのです。

 ここに私たちが当面している文明があります。
 この文明はひとを不要品を片付けるように、しかももっとも効率よく片付けることを心がけます。人種や民族、老若男女、労働者、教育者、芸術家、ジムやローラ、ヨセフやアンナなどなどの区分はもはや不要なのです。0093471、83409427、お望みならばアルファベットを一文字加えましょうかD816435501 。
 しかし、ガス室からブルドーザーで運び出される多くの死体たちにとってはそうした個体表示すらもはや不要なのです。

 戦争は、あなたでも私でもなく、ひたすら人間そのものを殺しに来るのです。
 かつてナガサキで処刑された26人の殉教者はパウロ三木のようにミカエル小崎のように、それぞれがその名をもち、親戚縁者がいて、それらを嘆き悲しむ人びともいるなかで、個として名を残すことのになりました。

 ただし、68年前の今日、ナガサキで焼かれた人は丸太ん棒のように黒く焼け焦げ、どこの誰ともわからないまま軍用トラックで無造作に運ばれたのでした。

 今日地球上には、私たちを数十回にわたって黒い丸太ん棒にする核兵器が存在します。それらはまた、「非保有国」という名のもとにそこに散りばめられた多くの原発と連動しながら増殖を続けています。

 こうした状況下で迎えるナガサキ忌もヒロシマ忌も、ある種のカタルシスに終わらせてはならないのです。本当は、原発再稼働や、さらには日本の核武装を密かに企むような連中を壇上に乗せてはいけないのです。
 

 

コメント
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