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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

雨と傘とファッシズム?

2010-02-04 04:10:38 | よしなしごと
 冬だから寒いのは致し方ない。
 しかし、振るのか振らないのかはっきりしない天気は困る。
 先日も、近場ではあるがいろいろ行くところがあって、空を見上げたらどんよりはしているが少し日が射している所もあり、大丈夫だろうと高をくくって家を出たら、50メートルも行かないうちにパラパラッと大粒なのが降り始めた。慌てて駆け戻り、傘を持って再び出かけた。

          
 
 傘を持たず、慌てて駆けだしてるひとなどもいて、「どうだ、傘を取りに帰って正解だったろう」と優越感に浸っていたのもつかの間、5分もしたらピタリと降り止んでもう振る気配もない。今さら傘をおきにうちへ戻るのもと思い、それから4箇所ぐらいの行く先に傘を持ち歩く羽目となった。
 こうなったらこうなったで、土砂降りでもいいから降ってくれなければ損をしたように思うのだから、私もそうとう歪んだ性格であるといえる。さっきまで、傘を持たないひとに優越感を感じていたのに、いまや、傘を持たないひとが折りたたみ不可の長い傘を持ち歩いている私を嘲笑しているように見えるから困ったものである。
 「傘忘れるなよ、傘忘れるなよ」と自分に言い聞かせながら用件を済ませて帰宅した。

 さて、用件も済んだし茶でも飲もうかとしている頃、また雨が降り出した。
 この場合、出かけている間は降られなくてよかったと素直に喜ぶべきなのだろうか。素直ではない私は、何となく「責任者出てこい!」と叫びたい気持ちになったが、こんな事態に責任者などいるはずがないので、グッとその言葉を飲み込んだ。

    
 
 そういえば、つい先日こんなこともあった。
 名古屋での会合に出たのだが、朝からあいにくの雨である。しかし天気予報は午後からは回復とある。こんなときは傘など持ちたくはない。ましてやその会場は、岐阜駅まで行けば全く傘不要で行ける場所にあるのだ。
 問題はバス停までの約50メートルである。この間がクリヤー出来れば傘は要らない。だから、小雨の場合には、玄関先から様子を窺い、バスが見えてから一目散にバス停まで駆ける。多少タイミングがずれても、バスの運転手は私のような老人が懸命に駆けているのを見れば、ちゃんと待っていてくれる。あとは私が百万ドルの笑顔で「ありがとう」といえば済むことになっている。
 
 しかしこの日は、小雨と思われたにもかかわらず、バスの時間が近づくにつれ雨脚が激しくなり、傘なしでバス停まで駆ければ、全身がぐっしょりすることが確実だった。諦めて傘をさしてバス停に向かった。
 予報通り午後には雨は上がり、私の傘はわずか50メートルのためにぐしょ濡れになり、私は一日中、その傘を持ち歩いたのだった。

 
 
 まあしかし、こちらの期待を裏切っていろいろな出来事があることは悪くはない。
 自然条件にしろひとの営みにしろ、思い通りに行かないところが面白いので、思い通りに行く、あるいは行かねばならないという世の中は窮屈である。
 明日どこで何が起きるのか完全にわかっていると豪語する世の中は恐ろしい。
 それをわかっているとして、それからの逸脱を誰かのせいにするのがファッシズムである。ナチスはそれを「ユダヤ人」のせいにしその殲滅をはかったし、スターリン治下のソ連は、それを「人民の敵」のせいにして粛清に明け暮れた。
 予報や予測からの逸脱や余剰こそが私たちの世界の出来事を担っている。「法則性」といった堅物よりも、それを蹴飛ばして生起する出来事こそが面白く、またそれこそが歴史を豊かにする。
 
 だから私は、腹立たしい思いをしながらも、わずか50メートルのために傘をさすのである。


コメント (4)
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