六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

23万本の向日葵に囲まれて・・・

2009-08-14 15:04:25 | 花便り&花をめぐって
 過日、家から20分もう行ったところに23万本の向日葵が咲いているというので、「行ってみよー」と繰り出しました。
 田園地帯の休耕田にそれはありました。
 しかし、ここの向日葵は意地悪なのです。向日葵は太陽の方角を向いて咲くといわれますが、ここのはみんな太陽に背を向けているのです。ということは、写真を撮ると逆光になるということです。
 しかしそこんとこを何とか誤魔化して撮ったのがこの写真です。

    

 数年前、ハンガリーで見た見渡す限りの向日葵畑を思い出しました。
 そこの向日葵は、ここほど優しくはなく、猛々しいほど巨大でした。
 そこへ吸い込まれたら二度と出てくることが出来ないような気すらしました。

 

 そうそう、向日葵といえば、ソフィア・ローレンの、あの美しくも切ない「ひまわり」を忘れるわけには行きませんね。戦争に翻弄され、引き裂かれる女と男、ヘンリー・マシーマナの音楽が胸を締め付けます。
 とりたてて反戦を叫ぶわけでもない静かな映像が、生身の私を捉えて放さないのです。
 未見の方にお勧めです。

 

 向日葵畑に戻りましょう。
 延々と向日葵が続いているように見えるでしょう。でもこれはカメラアングルの勝利なのです。

 
 
 実際にはこの長雨で、畑の周辺はきれいに咲いたのだが、中央部は成長が遅れたり咲かなかったりだと地元の方が嘆いていました。
 最後の写真がその有様ですが、残念ですね。

 

 洗濯物を干しながらいろいろ話を聴かせてくれたおばさん、ありがとう。
 来年は、一斉にパッと咲くといいですね。










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風を「見る」 & モルモン教会の盆踊り

2009-08-12 18:04:20 | よしなしごと
 暦の上ではもう立秋だそうですが、
    秋来ぬと目にはさやかに見えねども
          風の音にぞおどろかねぬる
(藤原敏行)
 など引っ張ってくるのはやや早いかも知れませんね。
 今年は梅雨が長く居座ったこともあって、まだ夏らしい日が少ないのでなおさらです。
 暦の上だろうが何だろうが、「もう秋ですよ」なんていわれても、「あら、そうですか」とは素直にいいがたい感じがするのです。

 
       私んちの二階から見えるそよ風ぐらいの田圃

 それはともかく、上の歌の「風の音」ですが、「秋の風には独特の音があり、それがし始める」というのとは少し違うようですね。この「音」には英語でいうsoundよりもatmosphere、つまり雰囲気といった意味が込められているように思います。
 まあ、いずれにしてもまだ秋が来たという風の音は感じられないのが実感で、やっと本格的な夏がやってきたということでしょう。

 
          風でうねっているのが分かりますか?

 風の「音」ではないのですが、風を「見る」機会がありましたので写真に掲げました。私の部屋の窓辺から見える田圃です。
 一番上が普通の風景ですが、下のものは折りから通過した台風の余波で起こったウエーブの様相です。稲たちが海辺の波よろしくうねっているのが見えるでしょうか。風の方向や強さにしたがって、思わぬ方向から強弱とり混ぜて起こる波のうねりは、見ていて飽きません。
 今度はこちらだと思うと思わぬところに波紋が現れ、その裏切りが面白いのです。

 
         部分的には結構激しく波打っています

 見ていて、ケン・ローチ監督の『麦の穂をゆらす風』(2006)という映画を思い出しました。
 そして、穂波町というところに住んでいて闘病中の友人のことも・・・。

 夕方、近くのモルモン教会のちょっとした広場から、「炭坑節」が聞こえはじめました。この町内の自治会の盆踊り大会です。この町内では、それを開催するに適した広場がないため、毎年、モルモン教会の広場を借りて行っているのです。
 かくして、死者を迎えその霊を慰める仏教の催しであった盆踊りが、モルモン教会の庭で行われるという何とも微笑ましい光景が展開されるのです。

 
    私んちの二階から見える盆踊りの会場 右の建物がモルモン教会

 私の家とは直線距離で数十メートル、二階の窓からは踊りに興じる人たちがよく見えます。
 やかましいと言えばやかましく、BGMにしてはいささか音量は大きいのですが、人々の娯楽に水を差すこともありません。夏の風物としてやり過ごしています。
 でも最近は、クレーマーが多くてこの種の行事もやりにくくなっているようですね。

 
             会場へ行ってみました

 ところで最近の盆踊り歌ですが、「炭坑節」の他はほとんど知らない歌です。
 昔は岐阜ですと、「郡上節」、「木曽節」、新しいところでは「岐阜音頭」や「鵜飼音頭」などローカルなものに、全国区の「炭坑節」、首都に礼をつくして「東京音頭」といったところでしたが、それらは一掃され、「炭坑節」のみが残っているようです。そしてそれを、炭坑の実態を知らない子供や若者たちが踊っているのです。
 その他は「ビューティフル・サンディ」などのポップス調のものが鳴っていました。リズムの激しいものでないと受けないのでしょうか。
 各町内持ち回りで行っていますから、この町内は今夜が最後でしょう。

 
           やぐらと背後のモルモン教会

 梅雨が長かっただけに、今年の夏は凝縮された暑さが襲うのではないかと思います。
 折角の好天にもかかわらず。昨年の熱中症の経験からして、自転車は利用しにくいのが現状です。

<追記>毎年この時期、各メディアが過ぐる戦争についての特集を行いないます。
    風化しそうな記憶をとどめるという意味でいいことだと思います。
    私はそれらが一段落したあとで何かを載せようと思っています。



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七〇歳老人、伊吹山で遭難?

2009-08-11 03:02:44 | ひとを弔う
 8月9日、伊吹山へ行ったのです。
 岐阜の住人にとっては、西の空を見やると常にそこに見られるなじみ深い山です。
 
 岐阜や大垣は朝から曇り空でした。
 好条件が望めるとははじめから思ってはいませんでした。
 伊吹山ドライブウエイにさしかかる料金所で、「山頂は雨とガス、それに風が強いですがいいですか」と念を押されました。私たちの一台前の車は、いったん払った料金を戻してもらってユーターンして帰ってゆきました。
 私たちはといえば、数々の苦難をくぐり抜けてきた百戦錬磨の勇士たち、というほどではありませんが前々からの予定、ここでひるんではなるものかとひたすら進むのでありました。
 実は私は、過去この山には2度来たこと(一度は子供たちと、もう一度は孫と)があり、これが三度目ですがこれほどの悪天候は初めてです。

 
     駐車場はご覧のガス。この人たちは同行者ではありません。

 果たせるかな、山道に取りついた途端、雨がしだいに強くなりました。私たちの前にはなんとタクシーが走っています。さすがのプロのドライバーも、この悪条件では慎重運転です。
 山頂付近の駐車場に着きました。横殴りの雨と強風、それにガスが立ちこめて車から出ることもままなりません。
 ここから山頂までは登り勾配の一キロ、小一時間を要します。
 遭難という二文字が頭をかすめました。
 しばらく待つうちに、やや小振りとなりました。登頂決行です。高齢者の私は、遭難しそうになったら車へ引き返すということで、ドライバーから車のキーを預かりました。


 
   これだけ人がいたら熊も出にくい。これは私たちが降りてきた後のもの

 なだらかな坂を登ります。降りしきる雨とガスのなか、いわゆる山岳風景は望外といわねばなりません。ただし足元に目を慰めてくれるものがあります。様々な高山植物のお花畑です。
 さほど高くはないのですが(1,377.3m)、独立峰であることもあって、一般の高山植物の他に「イブキ・・・」の名を冠した、イブキアザミ、コイブキアザミ、イブキジャコウソウ、イブキトリカブトなどの固有種も咲き誇っています。
 この時期の登山者は、こうしたお花畑の鑑賞者が多く、雨中にもかかわらず図鑑片手に花々を愛で、かつ、同行者に説明している人などもいて、こちらも思わぬ耳学問です。

 
            ガクアジサイに似た高山植物

 そのうちに雨は小降りになったのですが、風とガスは止みません。とりわけ山頂付近はとても風が強く、真っ向から風を受ける箇所ではあおられそうになりました。思えばここは、日本海側と太平洋側との風の通り道で、冬に濃尾平野に吹き付ける風を伊吹颪(おろし)といったりします。
 どうやら遭難は免れたようで、次第に人の数も増えてきました。本格的な登山スタイルの人に混じって、ごく普通の服装の人、ヒ-ルの高い靴の女性、タンクトップにショートパンツのお姉さんも現れます。
 そうなんです、ここは天候さえ良ければ、老若男女に親しまれる山なのです。こんなところで遭難したら笑われますよね。

 
               シモツケソウの仲間

 お花の写真をマニュアルカメラに収めました。きびしい温度差でレンズやフィルターの内側が曇っているのに気づかず撮ったものが多く大失敗です。
 何とか駐車場に戻ってきて帰り支度をはじめたときでした。ほんの一瞬、ガスが晴れて滋賀県側の琵琶湖を臨むことが出来ました。それに気づいた人が、わずか20メートル足らずの車にカメラをとりにいって戻ったらもうすべてはガスのなかというほどのあっという間でした。
 私はデジカメをもっていたのでかろうじて何枚か撮ることが出来ましたが、やはりベストの瞬間は逃していました。

 
          つかの間見えた滋賀県側 上方は琵琶湖 
           左上の雲と雲の間は竹生(ちくぶ)島


 私たちの若い頃、若者たちはある種の通過儀礼のようにして山を目指しました。
 しかし現在、山は中高年の場になっています。10人の死亡者を出した先月の大雪山系の遭難事故でも、その犠牲者はやはり中高年に限られています。
 たぶんあの人たちは、若い頃山に遊んだ開放感が忘れられず、ツアーに応募したのでしょう。

 私にも山の想い出は結構あります。槍、常念、立山など、それぞれ青春の、幾分悔いを含んだようなそれでいて甘酸っぱい思いが去来します。
 もう無理は出来ない年齢ですが、この伊吹山なら機会があればもう一度、つまり4回目のチャレンジをしてもいいと思います。ただし今度はもっと天候に恵まれた時にです。

 

        三年ほど前琵琶湖側から撮した伊吹山 手前は竹生島

<想い出> 今から30年ほど前、子供たちと来たときです。戯れに紙飛行機を山頂で飛ばしました。どこまで飛ぶか山の下方に向けたつもりなのですが、それが折りからの上昇気流にあおられて大きな弧を描き、私たちの頭上を旋回しながらドンドン登ってゆきます。目を凝らして見ていたのですが、ついにはかすかな点になり、やがてそれも見えなくなってしまいました。
 あの紙飛行機は一体どこへ行ってしまったのでしょう。
 山道を駆け登ることが出来た私の若さ同様にどこか果てしないところへ行ってしまったようです。

<おまけ> 百人一首にもある歌から一首。

   かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
                            (藤原実方)

 これは掛詞や縁語を駆使したたいそう技巧的な恋歌なのですが、知ったかぶりをして解説などするとぼろが出そうなのでやめておきます。

 もうひとつは芭蕉の句です。

   そのままよ月もたのまし伊吹山   元禄二年秋

 どうもこれは芭蕉が伊吹山に登って作ったのではなく、『奥の細道』結びの地、大垣から見て詠んだようで、「伊吹山は月などを借りなくともそのままで美しい」という句意のようです。


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酒井法子さんと裁判員制度

2009-08-08 04:02:19 | 社会評論
 NHKをはじめ、TVの各報道番組は芸能ニュースの感を呈しています。
 軒並みトップは酒井法子さん関係です。
 それも最初は、ヒモのような亭主の悪癖の犠牲者、貞淑で清純なママさんスターの哀れな逃避行だったのが、彼女自身が容疑者になった途端、犯罪に手を染めた逃亡者としてまったく違うアングルで報じられることたなりました。

 だいたい私は、この人に対してはほとんど興味を持ったことはなく、中国や香港、台湾など中国語圏に強いスターだというぐらいの認識はあってなぜなんだろうと思ったことはあるものの、そこに立ち止まって考えるほどの関心もありませんでした。
 マスコミはともかく、ネットでの反応はどうかと酒井法子のコミュを覗いたらそこは大荒れでした。
 「捜索隊本部」はあるわ、「減刑を嘆願する会」はあるわ、無実派と有罪派が喧嘩しているわ、自殺説や、某宗教団体に潜伏とか、海外逃亡説を含めてヒッチャカメッチャカの有様です。

 

 「ノリピー」はそんなことをするひとではありませんというファンの悲痛な叫びから、彼女は山○組系酒□組の娘で子供の頃から薬とは馴染みがあったという、さもありなんという書き込みなどが錯綜しています。
 もともとはファンクラブ的な場だったのですが、野次馬の大挙襲来とあって収拾がつかない状況です。

 そこに前からある「酒井法子さんの出演情報」というトピでは、どこそこでドラマ出演とかどこそこのライブに出演とかいう情報が延々と並んでいるのですが、一番最近の書き込みは、「ただいま、NHKはじめ各マスメディを独占中」とあり、不謹慎にも笑いをこらえることが出来ませんでした。

 
 
 今回、こんなことになって、まだその容疑は不明なのですが、もし容疑が本当だとすれば、漫画チックなゴシップがわんさかと出てきています。
 そのひとつは、たとえば麻薬撲滅運動のポスターのモデルを務めたというような話です。しかしこれは、インフルエンザ防止のポスターのモデルが、インフルエンザにかかってしまったようなものですから、人間の弱さの一例といえるかも知れません。

 つい最近のゴシップでは、裁判員制度のPRのDVDに出演し、選ばれた若き女性が、「選ばれて人を裁く以上、私もしっかりしなければ」という台詞がある場面です。それを語った彼女が裁きの対象になろうとしているのですからリアリティがあります。
 これは単に笑える状況ではなく、裁判員制度の根幹を衝いているかも知れないのです。

 

 人が人を裁くというのはある意味で自己言及的な境地であり、私たち凡人が個としてその責務を果たすことは容易ではありません。ともすれば報復的になったり、あるいは逆に温情的になったりします。そこで法治国家はそうした主観性を回避するために、その判断を裁く者のの主観やその対象の状況性に委ねず法それ自身を判断の基準とし、したがって法を熟知し、その適応を依託できる者の集合(判事、検察官、弁護士)としての司法制度を作り上げました。
 司法の独立とは、これをいうことに他なりません。

 にもかかわらず、司法の専門家を差し置いて、素人が裁判に参画することの意味は何なんでしょう。
 それは司法の敗北ないしは責任転嫁ではないでしょうか。
 司法は独立しているといいました。しかし、国民の司法への批判は閉ざされてはなりません。当然ひとつひとつの判断に対してはそれなりの批判はあります。しかし、司法のそれへの応対は、あくまでも現行法の適応の正否にこそあるべきです。
 適正に法を適応したにもかかわらず、そこになおかつ齟齬が生じるとしたら、それは司法の問題ではなく立法の問題なのです。

    

 そうした問題をきわめて曖昧にしたまま、刑罰重視の世論に推されて、いわゆる「庶民感情」を裁判に取り込もうとしたのが裁判員制度ではないでしょうか。
 だとすると、はじめに司法の敗北ありきです。

 今回の最初の裁判員が加わった裁判でも、裁判員の被告人や証人への質問に焦点が合わされ、それは専門の判事では思いもつかない質問であったなどと称揚されています。で、結果としての判決ですが、通常よりやや重いものとして落ち着きました。
 この判断の経緯が目に見えるようです。
 司法は、今後ともにこの制度が存続することを前提に、裁判員の参加を是認したかのようなポーズをとりつつそれら判決を誘導したのであり、その判決の「やや重」分は、裁判員制度への妥協の結果でもあったのです。

 

 これらの事実は、鳴り物入りで始まった裁判員制度が、司法による法の公正な適応とは違った次元での「現実的」な妥協の産物であることを物語っています。
 この制度への移行が私たちがより司法に近づいたかのように思うのは幻想だと思います。
 依然として人が人を裁くのは困難な次元にあり、裁判員制度が従来の司法のあり方への批判をかかわすために設けられたとしたら、司法が自分たちの正当性(法の遵守)に依拠するのではなく、それには「お前たちも参加したのだから」という言い訳の場を設けたに過ぎないのではないかと思うのです。

 極論すれば、私たちは多かれ少なかれ酒井法子さんです。その私たちが、「裁判員になるのなら身を正さなくては」と思っても、人を裁くという重圧は法の適正なる適応というスキルにおいてのみ果たされることなのです。
 そのスキルを持ち合わせない私たちを動員せざるを得ない司法は、その時点にしておのれを卑しめているのであり、その責任を国民全体に普遍化することによって、どのような結果が出ようがそのことからの自らの責任を回避しているように思えるのです。


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親分の豪邸と大脇雅子先輩の話@ピースあいち

2009-08-06 02:28:20 | インポート
 何ごとにも疎くてあか抜けしない私ですが、「ランチに集まろうかい」というお誘いを受けてのこのこ出かけました。
 集まったのは学生時代のサークルの同期前後の人たち6人でした。
 日頃、あまりお目にかかれない人もいるのですが、そこは昔、同じ釜の飯を食った仲、すぐうち解けての四方山話となりました。

 そのうち、夫妻できていた友人の住居近くに、名だたるその筋の親分の豪邸が建築されようとしていて、その近辺の住民がざわついているという話がありました。そうした問題で過去、辣腕をふるってきたという著名弁護士のアドヴァイスなどもあるのですが、いずれにしてもその先行きが錯綜していて、それに現実的に関わっているその夫妻にとっては切実な問題のようです。
 ところで、そのランチの席にも弁護士がいて、夫妻の質問に答えたりしていました。いわゆるセカンドオピニオンのようなものですね。

 

 この夫妻、座を取り持ったり物事をとりまとめるスキルには長けているのですが、こと、この問題については大変だろうなと思いました。ここで話し合われた内容はヒ・ミ・ツです。今後の戦略戦術上の問題を含むからです。

 ランチのあと、やはりこのサークルの先輩で、弁護士(なんか弁護士の話が多いですね)から参議院議員になり、いまは議員を引退して再び弁護士として活躍していらっしゃる大脇雅子さんが、このランチ会場の近くの「ピースあいち」で、「マサコの戦争」(同名の著書有り)と題した「戦争体験者の語り」をされるというので、それを聴きに行くことになりました。

 

 この「ピースあいち」という戦争と平和の資料館ですが、各自治体が類似のものを持っているのに愛知県や名古屋市には存在せず、有志の強い要望に対し財政難で見送られてきたものを、それら有志が広く基金を集めNPOの事業として2007年5月に独力で立ち上げたものです。
 放って置けばドンドン風化する戦争にまつわる具体的な資料を一堂に集め展示したり、折々のテーマに即した特別展を催したり(現在は三階で原爆関連の展示)、あるいは一階ホールでのパフォーマンスを展開したりしています。
 これらがすべて、ボランティアの手弁当による活動で維持されているのです。

 <ピースあいちのHP> http://www.peace-aichi.com/

 

 大脇先輩の体験談も、そうしたパフォーマンスの一環として行われたものでした。私たちはその話の中で、1945年7月9日、岐阜大空襲の折、国民学校5年生の雅子ちゃんが、雨あられと降る焼夷弾や爆弾の中で、その防空頭巾をも焼かれながらまさに必死で逃げまどった様を、そして愛国婦人会の任務で奉安殿の守護に駆り出され離ればなれになっていた母親との奇跡ともいえる再会を、手に汗を握るようにして聴いたのでした。

 私はこれらの話を聴きながら、何か後ろめたい気持ちをもっていました。というのは、同じく岐阜に住んでいた私はこの岐阜大空襲を十数キロ離れた大垣の郊外の疎開先から、つぶさに見ていたのです。
 私は正直にこのときの情景を以下のように私のブログで述べています。

  

 <空襲警報で避難した箇所から、「ああ、岐阜が燃えている!」という大人たちの悲鳴に近い嘆きとともに、十数キロ離れた東の空が真っ赤に染まるのを見ていました。一面真っ赤な空なのですが、さらに何かが爆発炎上するのか、急にその一角がパッと明るくなったり、そのまましばらく仕掛け花火のように揺らいだりしていました。? 上空で時折ぴかっと光るのは、攻撃目標を明確にするための照明弾だったと思います。? こうして、つい昨年まで私が住んでいた街が、紅蓮の炎に染まるのを見ていたのですが、その下で展開されていた地獄絵図を思い描くにはまだ幼い私ではありました。>
   http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20090709

 まさにその折り、雅子先輩は、いな、雅子ちゃんは、その地獄絵図の中にいたのです。
 私は、雅子先輩の話が終わった後のコメントの中で、その事実を率直に申し上げました。

 

 上に述べたような事実は、私たちの年代やそれ以上の人にとっては、今さら何をというくらい当たり前の経験でしょう。
 しかし、この当たり前だった経験(原-事実)が捨象されたところで戦争が語られる機会が増えているのではないでしょうか。これは私たちが被った被害の歴史にとどまらず、私たちがおよぼした加害の歴史においてもいえるのではないかと思うのです。

 時間とともに風化してゆくものたちを甦らせる言説の力があってこそ、未来への志向が観念的な上滑りではなく、歴史に参画する人々の骨肉の痛みを伴った現実性をもったものとして構想される可能性が開けるのではないかと思うのです。


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梅雨明けの映画 多喜二と鶴彬(一応川柳風に五七五です)

2009-08-04 04:29:23 | 映画評論
 やっと梅雨明けだそうです。果たせるかな、昨日までが嘘のようにかんかん照りになりました。
 かねてよりの予定に従い、名古屋まで映画を観に出かけました。
 名古屋まで行くと交通費が映画代を上回るので、極力、他の用事とくっつけたり、映画の梯子をしたりします。

 
        木陰で憩うタクシードライバー 岐阜駅南口
 
 映画の梯子はあまりお勧めできません。ひとつひとつの映画の印象が曖昧になったり相殺されたりすることが多いからです。
 しかし、今回はくっつけて正解でした。ひとつは、『時代を撃て 多喜二』(池田博穂:監督)、もうひとつは『鶴彬 こころの軌跡』(神山征二郎:監督)でした。同じ劇場で連続しての上映でしたので、入れ替え時にいったん外へ出なければなりませんでしたが、同じ席で見ることが出来ました。
 この便利さが理由で、くっつけて観てもよかったというわけではありません。この館(シネマスコーレ)がくっつけて上映するだけのことはあって、この二本には共通点が多いのです。

 
         炎天下で作業する人たち 岐阜駅北口

 まず、ここで取り上げられた二人の人物が、戦前、日本が大正デモクラシーのつかの間の平穏を突き破って、統制の強化と泥沼のような戦争に突っ走る時代において、かたや小説、かたや川柳という表現形態こそ違え、その趨勢に抵抗する表現者としてあったということです。
 そうであればこそ、彼らは治安維持法に抵触するとして逮捕され、多喜二は逮捕直後に拷問によって殺され、鶴彬は入獄中に病死しています。両者ともに、弱冠二九歳という若さでです。
 多喜二は1903~33年、鶴彬は1909~1938年の生涯でした。
 もうひとつ、これは偶然ですが、川柳作家・鶴彬の本名は喜多 一二(きた かつじ)といい、多喜二の名前との共通性を思わせます(小林多喜二は本名)。

 『時代を撃て 多喜二』の方は、残された多喜二に関する資料や証言をもとにその生涯をドキュメンタリーとしてまとめたものでした。
 『鶴彬 こころの軌跡』の方は、多喜二ほど残されたものがなかったのでしょうか、彼の生涯をドラマとして再構成したものでした。ただしこちらも、ドキュメンタリーの範囲を出ないようある程度禁欲的に作られていました。
 私たちはこの二つの映画を通じ、二人の表現者の血の叫びが無惨に蹂躙されてゆく中で、戦争という出口のない破滅へと事態が推移するのを目の当たりにします。
 しかし、これらの映画は、それらが本当に過ぎ去ったことなのかを改めて問うています。

 
           やっと夏の真っ盛り 名古屋駅西口

 時代は違うのだといえばいえるでしょう。
 しかし一方、「奴らは異端だ!奴らを殺せ!」という通奏低音のような声はいつの時代にも息を殺して潜んでいて、何かのきっかけで顕在化することは歴史の教えるところです。
 とりわけ、広範な人々に情報が公開されず、偏った情報のみが与えられるところでは、そうした安易な一元化、原理主義的攻撃性が表層に浮かび上がる可能性を充分孕んでいます。

 その意味では、日本の近代史において、それらの事実が厳然としてあったこと、そしてそれらが今なお曖昧なままに推移していることは繰り返し伝えられていいでしょう。
 先の横浜事件の名誉回復に対し司法が著しく消極的であったこと、一万人以上が検挙され、獄死や拷問死が何千人に及ぶという治安維持法の犠牲者への救済措置がまったく進捗していないことなどがそれです。

 
        名古屋駅西口近くの八百屋さん 何でも安い

 映画が映画ですから、その善し悪しは言わないでおこうと思います。わが郷土の先輩、神山征二郎監督の作品が、きわめて真面目だけども、あるいは真面目すぎるがゆえに映像としての面白味に欠けることもいいますまい(しっかり言ってるじゃん)。何しろ、神山監督の生涯手がけた作品の中で桁外れの低予算で作られた作品だそうですから。

 これらの映画は二人を顕彰する主旨のものですから、これは無いものねだりでしょうが、当時のコミンテルン→日本共産党を通じてのきわめて偏った指導方針が全日本無産者芸術連盟(NAPF=ナップ)を通じて実践され、党直属のナップ以外の文戦系(労農芸術家連盟)やその他の抵抗運動を、すべてブルジョア的なものとして敵視する方針をとった結果、多喜二や鶴などのナップ系の芸術家が裸で孤立するという結果を招いたことは依然として隠蔽されたままのようです。

 
               映画のポスター

 私の手元には、多喜二の『工場細胞』、『安子』を収めた「小林多喜二名作ライブラリー」(新日本出版社)がありますが、この二つの作品はともに、「ブルジョアと戦う」というより「社会主義ファシスト」・大山郁夫一派(労農派)と戦えというメッセージで溢れています。
 これは多喜二が、上に見たコミンテルン→日本共産党の偏狭な方針に従って書いたものであることを示しています。なお、ここで批判されている大山郁夫が、戦後、1951年にいたってスターリン国際平和賞を受賞したという事実を多喜二が聞くことができたら、どんな思いをしたことでしょう。

 たしかに、多喜二や鶴彬を死に至らしめたのは当時の権力であり、それには強い怒りを感じるのですが、それを前提としてもなおかつ、あたらこれらの才能を、時代の趨勢にそぐわない頑なさによって権力の前に裸で突きだしたような方針があったことは事実なのです。二人の死は、こうした極左冒険主義的な、あるいは小児病的な当時の方針が背景にあって起こったという側面を持っていて、それこそが、これらの映画が触れていない最大の共通点なのです。

 
           シネマスコーレの優雅なカーテン

 なお、余談ですが、バレ句や狂句に堕していた川柳を再興した井上剣花坊については多少知ってはいましたが、その夫人・井上信子さんについてはほとんど知りませんでした。
 映画の中でも紹介されていた、夫・剣花坊の死に際して詠んだ
    
      一人去り二人去り仏と二人
 
 という哀愁に満ちた句の他に、
 
      国境を知らぬ草の実こぼれ合い
      草むしり無念無想の地を拡め


 などというとても味のある句を詠んでいます。




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がらくたフェチのネズミの話

2009-08-02 01:15:59 | よしなしごと
 しばらく前に、身辺の整理が出来なくて仕事もままならないと愚痴をこぼしました。それではだめだと、かろうじて机とパソコンの周りを多少整理を致しました。
 何でこんなに整理整頓が出来ないのだろうとつらつら反省しますに、やはり、不要なものをたくさん抱え込みすぎているのだと思います。ようするに捨てることができないのです。

 本のたぐいはつまらないものでもなかなか捨てられません。それにいわゆる「積ん読」があります。しかしこれは、一時の急速な増加に比べるとやや落ち着いています。それは、図書館を極力利用するようになったからです。
 それでもやはり多少は買いますし、年の功で「贈呈」なんていうありがたいものもあって増えることはあっても減ることはありません。

 
 
 しかし、私の場合、問題は本ではありません。本以外の、人様が見たらがらくたにしか過ぎないものを捨てることが出来ないのです。
 もう古くなってほとんど(というより、絶対)使うことがない鞄類、やはりもう度が合わなくなって使っていない眼鏡のフレーム、もう見ないに決まっているビデオのケース、この前まで使っていた小銭入れ、使わなくなってしまった腕時計、などなどなどなど・・・・・・ざっと見渡しただけで、こんなに要らないものが目に付くのです。

 しかし、極めつけはいわゆるパッケージ類でしょう。
 バレンタイン・デーにもらった小じゃれたチョコレートの箱、パソコンの付属品が入っていたこぎれいな箱、お菓子が入っていたカンカン、ボールペンが入っていたベルベット状の内張りがしてある小箱、デザインがまあまあであったり丈夫そうだったりする手提げ袋、それに書籍や文書が送られてくるパッケージと封筒、ラッピングに使われていた色とりどりの紙、それに付いていたリボン、紐のたぐい・・・・・ああ、書いているだけでいやになりそうです。これではまるで、なんでもかでも巣穴に引き込んでいるネズミではありませんか。

 

 しかし、なぜ捨てられないのでしょうか。がらくたフェチなのでしょうか。
 ひとつには、戦中戦後のとにかくものというものがなかった時代にものごころがついた(ここんとこ洒落ではありません)せいだからでしょうか。その後遺症ということもあるかもしれませんね。
 いくらテレビが「消費は美徳だ」と「美味しい生活」をがなり立てても、その手にはのるもんかとがらくたを抱え込んでしまうのです。

 ひょっとして、「価値」に関して波長が合っていないのかも知れません。
 私の抱え込んだがらくたは、一般的に言う「価値=交換価値」から見ればなんの意味もない、かえってその始末に費用を要するようなものばかりです。ですから、「価値のないものは捨てろ」という命令がどこかから聞こえます。

 

 しかし、「待てよ」という声が私の中で起きるのです。でもこれはこんなにきれいではないか、まだまだ丈夫じゃないか、それにこれだけのものを作るのにどれほどの人たちの手を要したのかも考えるべきではないか、などという反論めいた声がそれです。
 ようするにそれらは、そこそこきれいであったり、また、使おうとすれば使えるのです。現に、上に述べたがらくたのうち、書類入れなどに利用しているものも多少はありますし、今後も何かに使えそうだという期待のもとに捨てないでいるのです。
 でも正直にいえば、実際に使われているものはごく少ないというのが厳然たる事実なのです。

 また、これを作るのに要した人たちの労働を考えるという点ではどうでしょうか。何かヒューマンな感じがしますが、実際には、分業化され抽象化された労働の中で、これを作った人たちは自分が何を作っているのかさえ知らずに作られたものかも知れません。
 やはり、単なるがらくたフェチや捨てられない症候群なのでしょうね。

 思い切って捨てることもあるのです。そんなとき、ひょっとして後悔するのではという後ろ髪を引かれる思いで決断するのですが、にもかかわらず実際には後悔したことは一度もないのです。
 こんなことを延々と書いているのは、今度こそ思い切ってバッサリ捨てようとする決意をおのれにみなぎらせるためなのです。

 

 書きながらこんなことを思い出しました。
 私がサラリーマンになったのはまだ戦後20年が経過せず、朝鮮戦争による景気の好転に拍車をかけられた戦後の復興に続き、その後の高度成長段階に入りつつある頃でした。
 一般にデフレ傾向の時はお金を持ち、インフレ傾向の時はものを持った方が強いといわれています。私が担当していたある小型繊維機械の老舗ディーラーは、それを実践して戦後、大儲けをした人でした。彼は、地方を飛び回り、戦中戦後の混乱で稼働していなかったり、戦災に遭って操業不能な工場などの機械類を買いあさりました。そしてそれらのマシな部分をくっつけた商品を組み立て、残りはパーツとして売りました。
 焼け跡からほじくり出してきたような品物でしたが、とにかくものがない時代でしたから飛ぶように売れたのです。売れた金でまた買いあさり、彼の在庫はドンドン膨れあがりました。それがまた、あそこへ行けばなんでもあるぞという評判となり、物資の少ない時代の顧客を呼び込んでいったのです。
 
 1960年代後半(昭和40年代前半)に至って、その老舗が突如、倒産しました。
 各債権者が自分の債権確保のため一斉に動きました。倒産するくらいですから現金や預金はありません。あとは豊富なその在庫があるのみです。
 しかしああ、それらの在庫は、戦後の技術革新の波の中で全部が全部といっていいほどもはや需要のない、ようするに市場で交換される価値のないがらくたと化していたのでした。

    
 

 私が命を終えたあと、私の遺品を整理するものたちは、あのときの債権者と同じ嘆息をもらすのでしょうね。こんながらくたばかりを残して・・・。

 そのうちに整理しますよ。しますとも。
 でもそれらに囲まれていると変に落ち着く自分がいることも確かなのです。
 やはり私は、がらくたフェチのネズミなのでしょうか。

コメント (4)
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