やっと梅雨明けだそうです。果たせるかな、昨日までが嘘のようにかんかん照りになりました。
かねてよりの予定に従い、名古屋まで映画を観に出かけました。
名古屋まで行くと交通費が映画代を上回るので、極力、他の用事とくっつけたり、映画の梯子をしたりします。
木陰で憩うタクシードライバー 岐阜駅南口
映画の梯子はあまりお勧めできません。ひとつひとつの映画の印象が曖昧になったり相殺されたりすることが多いからです。
しかし、今回はくっつけて正解でした。ひとつは、『時代を撃て 多喜二』(池田博穂:監督)、もうひとつは『鶴彬 こころの軌跡』(神山征二郎:監督)でした。同じ劇場で連続しての上映でしたので、入れ替え時にいったん外へ出なければなりませんでしたが、同じ席で見ることが出来ました。
この便利さが理由で、くっつけて観てもよかったというわけではありません。この館(シネマスコーレ)がくっつけて上映するだけのことはあって、この二本には共通点が多いのです。
炎天下で作業する人たち 岐阜駅北口
まず、ここで取り上げられた二人の人物が、戦前、日本が大正デモクラシーのつかの間の平穏を突き破って、統制の強化と泥沼のような戦争に突っ走る時代において、かたや小説、かたや川柳という表現形態こそ違え、その趨勢に抵抗する表現者としてあったということです。
そうであればこそ、彼らは治安維持法に抵触するとして逮捕され、多喜二は逮捕直後に拷問によって殺され、鶴彬は入獄中に病死しています。両者ともに、弱冠二九歳という若さでです。
多喜二は1903~33年、鶴彬は1909~1938年の生涯でした。
もうひとつ、これは偶然ですが、川柳作家・鶴彬の本名は喜多 一二(きた かつじ)といい、多喜二の名前との共通性を思わせます(小林多喜二は本名)。
『時代を撃て 多喜二』の方は、残された多喜二に関する資料や証言をもとにその生涯をドキュメンタリーとしてまとめたものでした。
『鶴彬 こころの軌跡』の方は、多喜二ほど残されたものがなかったのでしょうか、彼の生涯をドラマとして再構成したものでした。ただしこちらも、ドキュメンタリーの範囲を出ないようある程度禁欲的に作られていました。
私たちはこの二つの映画を通じ、二人の表現者の血の叫びが無惨に蹂躙されてゆく中で、戦争という出口のない破滅へと事態が推移するのを目の当たりにします。
しかし、これらの映画は、それらが本当に過ぎ去ったことなのかを改めて問うています。
やっと夏の真っ盛り 名古屋駅西口
時代は違うのだといえばいえるでしょう。
しかし一方、「奴らは異端だ!奴らを殺せ!」という通奏低音のような声はいつの時代にも息を殺して潜んでいて、何かのきっかけで顕在化することは歴史の教えるところです。
とりわけ、広範な人々に情報が公開されず、偏った情報のみが与えられるところでは、そうした安易な一元化、原理主義的攻撃性が表層に浮かび上がる可能性を充分孕んでいます。
その意味では、日本の近代史において、それらの事実が厳然としてあったこと、そしてそれらが今なお曖昧なままに推移していることは繰り返し伝えられていいでしょう。
先の横浜事件の名誉回復に対し司法が著しく消極的であったこと、一万人以上が検挙され、獄死や拷問死が何千人に及ぶという治安維持法の犠牲者への救済措置がまったく進捗していないことなどがそれです。
名古屋駅西口近くの八百屋さん 何でも安い
映画が映画ですから、その善し悪しは言わないでおこうと思います。わが郷土の先輩、神山征二郎監督の作品が、きわめて真面目だけども、あるいは真面目すぎるがゆえに映像としての面白味に欠けることもいいますまい(しっかり言ってるじゃん)。何しろ、神山監督の生涯手がけた作品の中で桁外れの低予算で作られた作品だそうですから。
これらの映画は二人を顕彰する主旨のものですから、これは無いものねだりでしょうが、当時のコミンテルン→日本共産党を通じてのきわめて偏った指導方針が全日本無産者芸術連盟(NAPF=ナップ)を通じて実践され、党直属のナップ以外の文戦系(労農芸術家連盟)やその他の抵抗運動を、すべてブルジョア的なものとして敵視する方針をとった結果、多喜二や鶴などのナップ系の芸術家が裸で孤立するという結果を招いたことは依然として隠蔽されたままのようです。
映画のポスター
私の手元には、多喜二の『工場細胞』、『安子』を収めた「小林多喜二名作ライブラリー」(新日本出版社)がありますが、この二つの作品はともに、「ブルジョアと戦う」というより「社会主義ファシスト」・大山郁夫一派(労農派)と戦えというメッセージで溢れています。
これは多喜二が、上に見たコミンテルン→日本共産党の偏狭な方針に従って書いたものであることを示しています。なお、ここで批判されている大山郁夫が、戦後、1951年にいたってスターリン国際平和賞を受賞したという事実を多喜二が聞くことができたら、どんな思いをしたことでしょう。
たしかに、多喜二や鶴彬を死に至らしめたのは当時の権力であり、それには強い怒りを感じるのですが、それを前提としてもなおかつ、あたらこれらの才能を、時代の趨勢にそぐわない頑なさによって権力の前に裸で突きだしたような方針があったことは事実なのです。二人の死は、こうした極左冒険主義的な、あるいは小児病的な当時の方針が背景にあって起こったという側面を持っていて、それこそが、これらの映画が触れていない最大の共通点なのです。
シネマスコーレの優雅なカーテン
なお、余談ですが、バレ句や狂句に堕していた川柳を再興した井上剣花坊については多少知ってはいましたが、その夫人・井上信子さんについてはほとんど知りませんでした。
映画の中でも紹介されていた、夫・剣花坊の死に際して詠んだ
一人去り二人去り仏と二人
という哀愁に満ちた句の他に、
国境を知らぬ草の実こぼれ合い
草むしり無念無想の地を拡め
などというとても味のある句を詠んでいます。
かねてよりの予定に従い、名古屋まで映画を観に出かけました。
名古屋まで行くと交通費が映画代を上回るので、極力、他の用事とくっつけたり、映画の梯子をしたりします。
木陰で憩うタクシードライバー 岐阜駅南口
映画の梯子はあまりお勧めできません。ひとつひとつの映画の印象が曖昧になったり相殺されたりすることが多いからです。
しかし、今回はくっつけて正解でした。ひとつは、『時代を撃て 多喜二』(池田博穂:監督)、もうひとつは『鶴彬 こころの軌跡』(神山征二郎:監督)でした。同じ劇場で連続しての上映でしたので、入れ替え時にいったん外へ出なければなりませんでしたが、同じ席で見ることが出来ました。
この便利さが理由で、くっつけて観てもよかったというわけではありません。この館(シネマスコーレ)がくっつけて上映するだけのことはあって、この二本には共通点が多いのです。
炎天下で作業する人たち 岐阜駅北口
まず、ここで取り上げられた二人の人物が、戦前、日本が大正デモクラシーのつかの間の平穏を突き破って、統制の強化と泥沼のような戦争に突っ走る時代において、かたや小説、かたや川柳という表現形態こそ違え、その趨勢に抵抗する表現者としてあったということです。
そうであればこそ、彼らは治安維持法に抵触するとして逮捕され、多喜二は逮捕直後に拷問によって殺され、鶴彬は入獄中に病死しています。両者ともに、弱冠二九歳という若さでです。
多喜二は1903~33年、鶴彬は1909~1938年の生涯でした。
もうひとつ、これは偶然ですが、川柳作家・鶴彬の本名は喜多 一二(きた かつじ)といい、多喜二の名前との共通性を思わせます(小林多喜二は本名)。
『時代を撃て 多喜二』の方は、残された多喜二に関する資料や証言をもとにその生涯をドキュメンタリーとしてまとめたものでした。
『鶴彬 こころの軌跡』の方は、多喜二ほど残されたものがなかったのでしょうか、彼の生涯をドラマとして再構成したものでした。ただしこちらも、ドキュメンタリーの範囲を出ないようある程度禁欲的に作られていました。
私たちはこの二つの映画を通じ、二人の表現者の血の叫びが無惨に蹂躙されてゆく中で、戦争という出口のない破滅へと事態が推移するのを目の当たりにします。
しかし、これらの映画は、それらが本当に過ぎ去ったことなのかを改めて問うています。
やっと夏の真っ盛り 名古屋駅西口
時代は違うのだといえばいえるでしょう。
しかし一方、「奴らは異端だ!奴らを殺せ!」という通奏低音のような声はいつの時代にも息を殺して潜んでいて、何かのきっかけで顕在化することは歴史の教えるところです。
とりわけ、広範な人々に情報が公開されず、偏った情報のみが与えられるところでは、そうした安易な一元化、原理主義的攻撃性が表層に浮かび上がる可能性を充分孕んでいます。
その意味では、日本の近代史において、それらの事実が厳然としてあったこと、そしてそれらが今なお曖昧なままに推移していることは繰り返し伝えられていいでしょう。
先の横浜事件の名誉回復に対し司法が著しく消極的であったこと、一万人以上が検挙され、獄死や拷問死が何千人に及ぶという治安維持法の犠牲者への救済措置がまったく進捗していないことなどがそれです。
名古屋駅西口近くの八百屋さん 何でも安い
映画が映画ですから、その善し悪しは言わないでおこうと思います。わが郷土の先輩、神山征二郎監督の作品が、きわめて真面目だけども、あるいは真面目すぎるがゆえに映像としての面白味に欠けることもいいますまい(しっかり言ってるじゃん)。何しろ、神山監督の生涯手がけた作品の中で桁外れの低予算で作られた作品だそうですから。
これらの映画は二人を顕彰する主旨のものですから、これは無いものねだりでしょうが、当時のコミンテルン→日本共産党を通じてのきわめて偏った指導方針が全日本無産者芸術連盟(NAPF=ナップ)を通じて実践され、党直属のナップ以外の文戦系(労農芸術家連盟)やその他の抵抗運動を、すべてブルジョア的なものとして敵視する方針をとった結果、多喜二や鶴などのナップ系の芸術家が裸で孤立するという結果を招いたことは依然として隠蔽されたままのようです。
映画のポスター
私の手元には、多喜二の『工場細胞』、『安子』を収めた「小林多喜二名作ライブラリー」(新日本出版社)がありますが、この二つの作品はともに、「ブルジョアと戦う」というより「社会主義ファシスト」・大山郁夫一派(労農派)と戦えというメッセージで溢れています。
これは多喜二が、上に見たコミンテルン→日本共産党の偏狭な方針に従って書いたものであることを示しています。なお、ここで批判されている大山郁夫が、戦後、1951年にいたってスターリン国際平和賞を受賞したという事実を多喜二が聞くことができたら、どんな思いをしたことでしょう。
たしかに、多喜二や鶴彬を死に至らしめたのは当時の権力であり、それには強い怒りを感じるのですが、それを前提としてもなおかつ、あたらこれらの才能を、時代の趨勢にそぐわない頑なさによって権力の前に裸で突きだしたような方針があったことは事実なのです。二人の死は、こうした極左冒険主義的な、あるいは小児病的な当時の方針が背景にあって起こったという側面を持っていて、それこそが、これらの映画が触れていない最大の共通点なのです。
シネマスコーレの優雅なカーテン
なお、余談ですが、バレ句や狂句に堕していた川柳を再興した井上剣花坊については多少知ってはいましたが、その夫人・井上信子さんについてはほとんど知りませんでした。
映画の中でも紹介されていた、夫・剣花坊の死に際して詠んだ
一人去り二人去り仏と二人
という哀愁に満ちた句の他に、
国境を知らぬ草の実こぼれ合い
草むしり無念無想の地を拡め
などというとても味のある句を詠んでいます。
六文銭さんは、心も身体も、強いなあと思いました。私は、鶴彬だけで、もういっぱいいっぱいになって、逃げるように、へたり込むように、地下鉄の駅に向いました。
剣花坊の妻を演じた樫山文枝が、とてもいいなあと思い、せめてああいう人が、彼を支えたことで、幾分か、心が救われるような気がいたしました。
川柳界で、自分達に類が及ばないように、彼を
売ったのではないかと、言われる人もいるとか、聞くと、心が寒く痛くなります。
詩や俳句川柳、演劇などで、治安維持法を適用されて、ひどい目にあった時代を、再現させないようにしなければと、足腰、頭も弱った私でも、とつよく思います。
もう少したてば安くなると言われたBSと録画装置付のテレビを求めたのは、8月に入って15日まで、連日放映される「これが戦争だ」番組を観るためでした。
「鉄血勤皇少年隊」は、盆休みにやってくるであろう同じ15歳の孫ともう一度観ます。
自分の親と弟を絞め殺した「集団自決」は、孫の親に見せます。
最初は、どうして観るの!と言うでしょう。しかし、見始めたら、正座をするはずです。
二本続けては私にも重かったのですが、時代関連などがかえってよく分かった面もありました。
NAPF=ナップの話は、いわゆる左翼の中ではタブーなのでしょうか。
やはり、「無謬神話」の一環のように思います。
>只今さん
只今さんの思いがうまくお孫さんに伝わるといいですね。
でもいまの若い子はいろいろ多様ですから、期待通りの反応がなくとも落胆しないでくださいね。
/////////////////////////////////
とお書きですが。
六文銭さんが批判されている、
コミンテルンの社民ファシズム論提唱の責任者はスターリンです。1950年代、日本の左翼運動に暴力路線を強制したのもスターリンです。
このスターリンの名を冠した「平和賞」がどんな意味を持つものかの検討もないこの主張は、自己矛盾そのものではないのでしょうか??
舌足らずな記述で誤解を招いたかも知れませんが、私もスターリンが正しくて多喜二が間違ったのだとは露ほども思ってはいません。
ご指摘のように、スターリン→コミンテルン→日本共産党と続く指令に多喜二は忠実に従っただけです。そのスターリンは、1935年のコミンテルン第7回大開において、今度は手のひらをかえすように、「人民戦線」理論を振りまき、世界のコミュニスト運動に混乱を招きました。
大山郁夫についての私の記述も、そうしたスターリンのご都合主義に、多喜二が生きていたらどう思ったかを書いたわけです。
なお、このスターリンのご都合主義的押しつけが、戦後の日本の左翼運動に重大な混乱をもたらしたのもご指摘の通りです。
どうやら私がスターリンの擁護者であるかのように受け取られた様ですがそれは誤解です。私は、日本では割合早い時期に、スターリン並びにスターリニズムを告発した部類に属すると自負しています。
いずれにしましても、私の稚拙な表現が原因です。誤解をお解きいただき、またここを覗いてくださいますようお願いいたします。
だからこそ、その後、この戦術は取り下げられ、「混乱」に拍車がかけられたのだと思う。
六文銭さんがスターリン主義者だとは思わないけれど、不正確な記述であることは了解いただけることと拝察いたします。
では、大山郁夫は真正の「平和主義者」として戦中、戦後を生きたのだろうか??
ご検討、ご健筆を祈ります。
ディミトロフの『統一戦線論』も一応読んでいますし、それがコミンテルン第7回大開で提起された経緯、そのおよぼした影響についてもひととおりは把握しています。
大山郁夫などいわゆる労農派の果たした役割については、功罪いろいろあるとは思いますが、その正確な判断に至るほど深くは勉強していません。
ただし、その限界は当然あったとはいえ、当時の日本共産党のとった頑なな戦術は誤りであったと思います。どう考えても、社民系「社会ファッシスト」が「主要な敵」であり、それをたたくことが最大の任務であったとは思えないのです。
そして、そうした方針がナップなど芸術運動にもおよぼした破壊的な影響が、今なおきちんと総括されず、私の観た映画においても、その辺の所には蓋をしたまま多喜二や鶴彬の死を「英雄的」なものとしてのみ描かれてあったという不満が最初のこの記述の本意でした。
またお越しいただき、補足のコメントなどお書き下さい。
/////////////////////////////////
六文銭様
鶴彬、小林多喜二の作品に
「社民系「社会ファッシスト」が「主要な敵」であり」というレッテル貼りの作品があるのに、それにほおかぶりしているという批判なのでしょうか?
二つの映画を見ての批判という趣旨だという以上、そういう論を立てているという理解でいいのですか??
多喜二の作品にはあきらかにそうした方針に沿ったとしか思えないものがあります。
鶴彬も、映画の中で「そのほかの曖昧な連中」とははっきり断絶すべきだと述べるところがあります。
しかし、それらの背景を映画の中で鮮明にすべきだというのは無いものねだりだと思っています。
その意味では内藤様の
「二つの映画を見ての批判という趣旨だという以上、そういう論を立てているという理解でいいのですか?? 」
というご質問とは幾分ニュアンスを異にいたします。
むしろ映画とは離れて、多喜二にしろ鶴彬にしろあたら有能な若者を、当時のナップの「社民との区別立てこそ課題」という頑なな方針により、権力の前面に飛び出させるようなかたちとなり、その死を早める結果を生んだのではないかという疑念を拭うことはできないといいたかったのです。
鶴彬にしろ、小林多喜二にしろ、野呂栄太郎にしろ、槙村浩にしろ、大山郁夫の新党樹立=「満蒙の権益」ヲ守レ、日本帝国ノ聖戦賛成!! となっていたら林房雄のように、戦後も生き延びたでしょうねぇ。
たしかに。。。。