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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

梅雨明けの映画 多喜二と鶴彬(一応川柳風に五七五です)

2009-08-04 04:29:23 | 映画評論
 やっと梅雨明けだそうです。果たせるかな、昨日までが嘘のようにかんかん照りになりました。
 かねてよりの予定に従い、名古屋まで映画を観に出かけました。
 名古屋まで行くと交通費が映画代を上回るので、極力、他の用事とくっつけたり、映画の梯子をしたりします。

 
        木陰で憩うタクシードライバー 岐阜駅南口
 
 映画の梯子はあまりお勧めできません。ひとつひとつの映画の印象が曖昧になったり相殺されたりすることが多いからです。
 しかし、今回はくっつけて正解でした。ひとつは、『時代を撃て 多喜二』(池田博穂:監督)、もうひとつは『鶴彬 こころの軌跡』(神山征二郎:監督)でした。同じ劇場で連続しての上映でしたので、入れ替え時にいったん外へ出なければなりませんでしたが、同じ席で見ることが出来ました。
 この便利さが理由で、くっつけて観てもよかったというわけではありません。この館(シネマスコーレ)がくっつけて上映するだけのことはあって、この二本には共通点が多いのです。

 
         炎天下で作業する人たち 岐阜駅北口

 まず、ここで取り上げられた二人の人物が、戦前、日本が大正デモクラシーのつかの間の平穏を突き破って、統制の強化と泥沼のような戦争に突っ走る時代において、かたや小説、かたや川柳という表現形態こそ違え、その趨勢に抵抗する表現者としてあったということです。
 そうであればこそ、彼らは治安維持法に抵触するとして逮捕され、多喜二は逮捕直後に拷問によって殺され、鶴彬は入獄中に病死しています。両者ともに、弱冠二九歳という若さでです。
 多喜二は1903~33年、鶴彬は1909~1938年の生涯でした。
 もうひとつ、これは偶然ですが、川柳作家・鶴彬の本名は喜多 一二(きた かつじ)といい、多喜二の名前との共通性を思わせます(小林多喜二は本名)。

 『時代を撃て 多喜二』の方は、残された多喜二に関する資料や証言をもとにその生涯をドキュメンタリーとしてまとめたものでした。
 『鶴彬 こころの軌跡』の方は、多喜二ほど残されたものがなかったのでしょうか、彼の生涯をドラマとして再構成したものでした。ただしこちらも、ドキュメンタリーの範囲を出ないようある程度禁欲的に作られていました。
 私たちはこの二つの映画を通じ、二人の表現者の血の叫びが無惨に蹂躙されてゆく中で、戦争という出口のない破滅へと事態が推移するのを目の当たりにします。
 しかし、これらの映画は、それらが本当に過ぎ去ったことなのかを改めて問うています。

 
           やっと夏の真っ盛り 名古屋駅西口

 時代は違うのだといえばいえるでしょう。
 しかし一方、「奴らは異端だ!奴らを殺せ!」という通奏低音のような声はいつの時代にも息を殺して潜んでいて、何かのきっかけで顕在化することは歴史の教えるところです。
 とりわけ、広範な人々に情報が公開されず、偏った情報のみが与えられるところでは、そうした安易な一元化、原理主義的攻撃性が表層に浮かび上がる可能性を充分孕んでいます。

 その意味では、日本の近代史において、それらの事実が厳然としてあったこと、そしてそれらが今なお曖昧なままに推移していることは繰り返し伝えられていいでしょう。
 先の横浜事件の名誉回復に対し司法が著しく消極的であったこと、一万人以上が検挙され、獄死や拷問死が何千人に及ぶという治安維持法の犠牲者への救済措置がまったく進捗していないことなどがそれです。

 
        名古屋駅西口近くの八百屋さん 何でも安い

 映画が映画ですから、その善し悪しは言わないでおこうと思います。わが郷土の先輩、神山征二郎監督の作品が、きわめて真面目だけども、あるいは真面目すぎるがゆえに映像としての面白味に欠けることもいいますまい(しっかり言ってるじゃん)。何しろ、神山監督の生涯手がけた作品の中で桁外れの低予算で作られた作品だそうですから。

 これらの映画は二人を顕彰する主旨のものですから、これは無いものねだりでしょうが、当時のコミンテルン→日本共産党を通じてのきわめて偏った指導方針が全日本無産者芸術連盟(NAPF=ナップ)を通じて実践され、党直属のナップ以外の文戦系(労農芸術家連盟)やその他の抵抗運動を、すべてブルジョア的なものとして敵視する方針をとった結果、多喜二や鶴などのナップ系の芸術家が裸で孤立するという結果を招いたことは依然として隠蔽されたままのようです。

 
               映画のポスター

 私の手元には、多喜二の『工場細胞』、『安子』を収めた「小林多喜二名作ライブラリー」(新日本出版社)がありますが、この二つの作品はともに、「ブルジョアと戦う」というより「社会主義ファシスト」・大山郁夫一派(労農派)と戦えというメッセージで溢れています。
 これは多喜二が、上に見たコミンテルン→日本共産党の偏狭な方針に従って書いたものであることを示しています。なお、ここで批判されている大山郁夫が、戦後、1951年にいたってスターリン国際平和賞を受賞したという事実を多喜二が聞くことができたら、どんな思いをしたことでしょう。

 たしかに、多喜二や鶴彬を死に至らしめたのは当時の権力であり、それには強い怒りを感じるのですが、それを前提としてもなおかつ、あたらこれらの才能を、時代の趨勢にそぐわない頑なさによって権力の前に裸で突きだしたような方針があったことは事実なのです。二人の死は、こうした極左冒険主義的な、あるいは小児病的な当時の方針が背景にあって起こったという側面を持っていて、それこそが、これらの映画が触れていない最大の共通点なのです。

 
           シネマスコーレの優雅なカーテン

 なお、余談ですが、バレ句や狂句に堕していた川柳を再興した井上剣花坊については多少知ってはいましたが、その夫人・井上信子さんについてはほとんど知りませんでした。
 映画の中でも紹介されていた、夫・剣花坊の死に際して詠んだ
    
      一人去り二人去り仏と二人
 
 という哀愁に満ちた句の他に、
 
      国境を知らぬ草の実こぼれ合い
      草むしり無念無想の地を拡め


 などというとても味のある句を詠んでいます。




コメント (14)
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