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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

語られた歴史と語られない歴史 オーラル・ヒストリーを巡って

2009-08-27 03:02:54 | 歴史を考える
 最近、オーラル・ヒストリー(語られる歴史)やそれをまとめたものに興味を持っています。
 なぜなら、そこには確実にそこで生きた生活者の体験が表現されているからです。とりあえずそれを原-事実といってもいいと思います。
 それは各種の記録や統計からも漏れてしまった人々の営み、あるいはそれに伴う喜怒哀楽の各相です。それらが純粋無垢なものとはいいません。それを体験し語る人々のある種のバイアスがかかるのは不可避だからです。もちろん、これはあらゆる史料に関していえることで、むしろ公式にまとめられ方向性をもたされてしまった「歴史」に比べれば、まだしもナイーヴといえます。

 公式の歴史には、そこで生きた人たちの具体的諸相を再現することはその量的質的な記述の問題として不可能です。それはたかだか、そこで生きた人々の諸条件の近似値を提起し得るのみです。しかし、この近似値を示しうるということは大したことなのであって、そうではなく逆に、そこで固定された歴史が、あるいはその叙述が逆に人々を抑圧することすらあるのです。

    
              情報、またはエネルギー

 例えば、ある種の歴史観は「歴史の法則性」なるものを主張します。その法則性なるものが、人々の営みの具体的な軌跡から事後的に見出された「傾向の束」に過ぎないという自覚をもち、ただ、今後の経験のための参照項にしようという謙虚さにとどまるならばそれは許されるかもしれません。
 しかしそれらの法則性がが民族や国家、あるいはそれらの止揚という最終目標(テロス)に向かうことを強調し、尊大にも、その法則性こそが歴史を動かしているダイナモであるかのように錯覚し、それを強要することが多いのです。

 そうなると、歴史の主人公はもはやその法則性や最終目的であって、人々の営みは、その法則や目的が貫徹してゆく上での単なる例証や過渡期のエピソードの地位に貶められます。
 「ほら、君たちが貧しかったり不幸であるのはこれら法則性や最終目的のの中途の段階の問題なのだから、すべからくこの法則を押し進め、最終目的を実現すべきなんだよ」・・・ということになります。そして、その途次での生き様は単なる雑事であるばかりか本来性から逸脱した疎外された虚偽であるとすらされます。

 
                  岐阜市の歴史

 そのように現実に生きている人たちが等閑視されるだけならまだいいのですが、上の立場がさらに原理的に進むと、その法則性や最終目的にそぐわない人々を排除し、抑圧し、犠牲にしたりします。
 スターリン、毛沢東、ポルポト、スターリンに追随した指導者、新左翼の一部、などなどがそうでした。私はこれらを総称して広義の「スターリニズム」と捉えます。
 ナチズムもむろんそうでした。優生学という「法則」と、ユダヤ諸悪の根源論という「法則」を振りかざし、無辜の人々に襲いかかりました。
 八紘一宇、大東和共栄圏、万世一系の大日本帝国、という最終目標のもと、国内での抑圧と弾圧の体制を築き上げ、さらには近隣諸国への侵略と殺戮をもたらしたのも、そうした本来性の歴史観によるものでした。

 いずれにしても、その歴史観や法則性のみが主体なのであって、具体的な生活者はそれに拝跪するか、あるいはそれに逆らって殺されるかの選択しかありませんでした。
 
 冒頭に述べたオーラル・ヒストリーは、そうした法則性主体の、あるいは、公の歴史には登場しない具体的な時間と空間のなかで、現実的な営みや行為をした人々の痕跡を示します。そしてそれらは、公式の歴史や、ましてや法則のみが主体であるとする歴史が一体何であったのかを逆照射するのです。それは、そこで現実に生きた人々の諸相を明らかにし、もって観念的な法則や最終目的といった歴史観による現実への抑圧を断罪する契機にすらなるのです。

 しかし、それらがオーラルであることの限界があります。それらはともすれば人々の記憶の中に埋もれていて、それを収集し記録する人たちがいないところではたちまち風化し、あるいは、その記憶の持ち主の老化や寿命によって人知れず消滅してしまうのです。
 記憶の記録こそがそれらを繋ぎ止める必須条件です。

 
                  家族の歴史?

 最近、そうしたオーラル・ヒストリー、ないしはそれに類似した優れた書に出会う機会がありました。
 ひとつは、かつての戦争で、日本軍の三光作戦(奪い尽くす、焼き尽くす、殺し尽くす)の現場であった黄土高原に住みつき、自分自身、異文化とのめくるめく様な交流をしながら、その三光作戦を経験した古老たちの体験を聞き取り、記録することに従事している畏友・大野のり子の著作『記憶にであう』(未来社)です。
 彼女の仕事が今、とても重要なのは、歴史終生主義が頬被りをしようとしている日本軍の大陸侵攻の実態を示しているということもさることながら、中国自体の異様な発展の途上で、それらが見失われて行きそうであること、そしてさらには、それらの記憶の語り手の老化が著しいということです。
 
 彼女の仕事に関しては、過去、拙ブログに以下のように紹介しています。
 http://pub.ne.jp/rokumon/?search=8068&mode_find=word&keyword=大野のり子

 もうひとつは、オーラル・ヒストリーとはやや趣を異にするかも知れないのですが、わが先達・大牧富士夫氏の以下の三部作です。

  『ぼくの家には、むささびが棲んでいたー徳山村の記録』
  『あの頃、ぼくは革命を信じていたー敗戦と高度成長のあいだ』
  『ぼくは村の先生だったー村が徳山ダムに沈むまで』  
                 いずれも「編集グループSURE」刊行

 この書たちは、岐阜県は徳山村出身の著者の自伝的な叙述によります。日本の山村の原点のような村を出た少年が兵士になり、敗戦後は岐阜の街で多感な時代を過ごし、やがて村へ帰って先生として過ごす過程が諸々のエピソードと共に語られます。そしてそれ自身、著者の感性を通じてのその折々のレポートとして興味深いものがあります。

 しかしです、私たちにとって看過できないのは、その自伝が同時に、先に述べた日本の山村の原点でもあるような村がまるまる消滅する過程でもあることです。
 著者が慈しむように描く徳山村はもはやどんな地図にもありません。満々と水を湛えた日本有数のダム、徳山ダムがすべてを飲み込んでしまったのです。
 それだけにここに描かれた在りし日の徳山村の有り様は、冒頭から述べてきたオーラル・ヒストリーにも似て、公の歴史の中では抹殺された在りし日の人々の営みを生き生きと甦らせてくれるのです。

 その徳山ダムは今、出来ることは出来たものの、その用途すら定まらないまま無用の長物として、それに固執したものたちを嘲笑するようにそびえています。
 そうなのです。徳山ダムこそ、高度成長期の人間の欲望を背景とした、公共企業という名のただただ何ものかを作るというあの虚しい営みの最たるものなのです。

    
               同じバスに乗っている

 徳山ダムについては拙ブログで何度も触れていますが、主なものは以下です。
   http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20090607
   http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20090225
   http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20081127

 だとするならば、この著者、大牧さんの定点観測のような村のたたずまいとその破壊の歴史は、同時に私たちの故郷喪失の歴史であり、自分の欲望の代償に売り渡してきたものの痕跡ではないかと思うのです。
 その意味でも私たちは、大牧さんが描いたこの村の変遷を、私たちがかくあることの陰画として、謙虚に読むべきだと思います。

 公の歴史はそれを描ききれません。ある事象から次の事象への変動を、因果律による不可避のものであるかのように描きます。そのとき、そのひとつひとつの事象の中で生きた私たちの営みは、まさに「法則性」貫徹の傍らでの雑事として捨象されるのです。

 どんなに不整合で、不合理でみっともなくとも、そこで生きた人間こそが実在したのであり、歴史の法則性などはおぞましいオカルティズムに過ぎないと思うのです。
 かくして、些細な「雑事」として片付けらるオーラル・ヒストリーが私を招くのです。
 

コメント (4)
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