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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

酒井法子さんと裁判員制度

2009-08-08 04:02:19 | 社会評論
 NHKをはじめ、TVの各報道番組は芸能ニュースの感を呈しています。
 軒並みトップは酒井法子さん関係です。
 それも最初は、ヒモのような亭主の悪癖の犠牲者、貞淑で清純なママさんスターの哀れな逃避行だったのが、彼女自身が容疑者になった途端、犯罪に手を染めた逃亡者としてまったく違うアングルで報じられることたなりました。

 だいたい私は、この人に対してはほとんど興味を持ったことはなく、中国や香港、台湾など中国語圏に強いスターだというぐらいの認識はあってなぜなんだろうと思ったことはあるものの、そこに立ち止まって考えるほどの関心もありませんでした。
 マスコミはともかく、ネットでの反応はどうかと酒井法子のコミュを覗いたらそこは大荒れでした。
 「捜索隊本部」はあるわ、「減刑を嘆願する会」はあるわ、無実派と有罪派が喧嘩しているわ、自殺説や、某宗教団体に潜伏とか、海外逃亡説を含めてヒッチャカメッチャカの有様です。

 

 「ノリピー」はそんなことをするひとではありませんというファンの悲痛な叫びから、彼女は山○組系酒□組の娘で子供の頃から薬とは馴染みがあったという、さもありなんという書き込みなどが錯綜しています。
 もともとはファンクラブ的な場だったのですが、野次馬の大挙襲来とあって収拾がつかない状況です。

 そこに前からある「酒井法子さんの出演情報」というトピでは、どこそこでドラマ出演とかどこそこのライブに出演とかいう情報が延々と並んでいるのですが、一番最近の書き込みは、「ただいま、NHKはじめ各マスメディを独占中」とあり、不謹慎にも笑いをこらえることが出来ませんでした。

 
 
 今回、こんなことになって、まだその容疑は不明なのですが、もし容疑が本当だとすれば、漫画チックなゴシップがわんさかと出てきています。
 そのひとつは、たとえば麻薬撲滅運動のポスターのモデルを務めたというような話です。しかしこれは、インフルエンザ防止のポスターのモデルが、インフルエンザにかかってしまったようなものですから、人間の弱さの一例といえるかも知れません。

 つい最近のゴシップでは、裁判員制度のPRのDVDに出演し、選ばれた若き女性が、「選ばれて人を裁く以上、私もしっかりしなければ」という台詞がある場面です。それを語った彼女が裁きの対象になろうとしているのですからリアリティがあります。
 これは単に笑える状況ではなく、裁判員制度の根幹を衝いているかも知れないのです。

 

 人が人を裁くというのはある意味で自己言及的な境地であり、私たち凡人が個としてその責務を果たすことは容易ではありません。ともすれば報復的になったり、あるいは逆に温情的になったりします。そこで法治国家はそうした主観性を回避するために、その判断を裁く者のの主観やその対象の状況性に委ねず法それ自身を判断の基準とし、したがって法を熟知し、その適応を依託できる者の集合(判事、検察官、弁護士)としての司法制度を作り上げました。
 司法の独立とは、これをいうことに他なりません。

 にもかかわらず、司法の専門家を差し置いて、素人が裁判に参画することの意味は何なんでしょう。
 それは司法の敗北ないしは責任転嫁ではないでしょうか。
 司法は独立しているといいました。しかし、国民の司法への批判は閉ざされてはなりません。当然ひとつひとつの判断に対してはそれなりの批判はあります。しかし、司法のそれへの応対は、あくまでも現行法の適応の正否にこそあるべきです。
 適正に法を適応したにもかかわらず、そこになおかつ齟齬が生じるとしたら、それは司法の問題ではなく立法の問題なのです。

    

 そうした問題をきわめて曖昧にしたまま、刑罰重視の世論に推されて、いわゆる「庶民感情」を裁判に取り込もうとしたのが裁判員制度ではないでしょうか。
 だとすると、はじめに司法の敗北ありきです。

 今回の最初の裁判員が加わった裁判でも、裁判員の被告人や証人への質問に焦点が合わされ、それは専門の判事では思いもつかない質問であったなどと称揚されています。で、結果としての判決ですが、通常よりやや重いものとして落ち着きました。
 この判断の経緯が目に見えるようです。
 司法は、今後ともにこの制度が存続することを前提に、裁判員の参加を是認したかのようなポーズをとりつつそれら判決を誘導したのであり、その判決の「やや重」分は、裁判員制度への妥協の結果でもあったのです。

 

 これらの事実は、鳴り物入りで始まった裁判員制度が、司法による法の公正な適応とは違った次元での「現実的」な妥協の産物であることを物語っています。
 この制度への移行が私たちがより司法に近づいたかのように思うのは幻想だと思います。
 依然として人が人を裁くのは困難な次元にあり、裁判員制度が従来の司法のあり方への批判をかかわすために設けられたとしたら、司法が自分たちの正当性(法の遵守)に依拠するのではなく、それには「お前たちも参加したのだから」という言い訳の場を設けたに過ぎないのではないかと思うのです。

 極論すれば、私たちは多かれ少なかれ酒井法子さんです。その私たちが、「裁判員になるのなら身を正さなくては」と思っても、人を裁くという重圧は法の適正なる適応というスキルにおいてのみ果たされることなのです。
 そのスキルを持ち合わせない私たちを動員せざるを得ない司法は、その時点にしておのれを卑しめているのであり、その責任を国民全体に普遍化することによって、どのような結果が出ようがそのことからの自らの責任を回避しているように思えるのです。


コメント (3)
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