1945年の敗戦後、母とは近隣のいろいろなところへ行きました。
そのほとんどが、敗戦時、ハルビンにいてソ連軍に抑留され、シベリア方面へ連れて行かれたという父の安全と早い帰還を祈願する参拝の道行きでした。
父に関する情報は全く不確かなもので、その生死も明らかではありませんでした。ただ、その所属する部隊がイルクーツクはバイカル湖の近くに連れて行かれたらしいという程度の情報です。
そうした頼りない情報にすがりながら、母はひたすら近隣の神仏への願いを欠かしませんでした。冒頭に書いたようにいろいろなところへ行きましたが、私が鮮明に覚えているのは、疎開していた大垣の郊外からでも片道6キロ余の不破郡垂井町にある南宮大社への参拝です。
当時のことですからもちろん徒歩での往復です。あわや戦争未亡人という母と、この間まで天皇のためにその命を捧げると誓っていた国民学校一年生の親子の道行きです。
行方不明の父に関する参拝の道行きというと、何やら重いものを感じそうですが、決してそうばかりではありませんでした。むしろ、疎開者として肩身の狭い親子にとっては、そのしがらみから解き放たれた格好のリクリエーションでありピクニックでもありました。
主要な街道である旧中山道からも外れた田舎道は、自然の宝庫でした。傍らの小川には魚が群れ、道の脇にはちょっぴり酸っぱい野いちごがルビーのような実を付けていました。私はその実をつまみながら、「早くこんとおいてくよ」という母の声にせかされて、また歩を進めるのでした。
もちろん私たちの他には誰もいません。時折野良仕事の人と出会うのみです。その田舎道を、私たち親子は歌を唱ったり、しりとりをしたりして歩きました。この日のための丹誠を込めた弁当も食べました。紅ショウガとシソをみじん切りにしたものをおにぎりにしただけのものでしたが、澄んだ空気のもとで食べるそれは最高のご馳走でした。
南宮大社は、鍛冶や鉄器の神様です。転じて戦時中には武運長久の神様として崇められました。戦争に敗けて父を捕虜にとられた身としては、武運長久などはおかしいのですが、母にしてみれば戦争の続きなのだから父が健康でいられるための参拝だったのだろうと思うのです。
今もなお、その状景を思い出します。私にとってそれが楽しいものであったように、例え戦争未亡人になりかかっていたとしても、母にとっても楽しい道行きであったと思うのです。
あの澄み切った青空の下、母と共に歩いた西濃の田舎道を私は忘れることが出来ません。
もちろん、私は全面的に母にその生を負っていました。ただあの瞬間には、私の存在が母にとって何らかの支えになったのではないかと思うのです。
そうした祈願のせいあってか、父は1948年春、新聞紙に包んだ乾燥芋を後生大事に携えて帰還しました。
養子である私にとってこの父母はなさぬ仲です。しかし、実子同様に、否、それ以上に私を愛してくれた父母でした。父が先に逝き、母が逝った今、私はこの人たちに何が出来たのだろうかと自責の念にかられるのですが、母に関していえば、あの日の道行きはまさに私と母の楽しくも解き放たれた瞬間だったように思います。あの時の母の若々しい表情が、私にとっては忘れられないのです。
私が6歳。母が30歳の秋でした。
その母が8月28日みまかりました。シズ、享年95歳でした。
*写真は季節外れの桜ですが、母は百人一首の歌留多が好きで、とりわけ、「久方の光のどけき春のひに静こころなく花の散るらむ」は、自分の名があるといって誰にも取らせませんでした。
もって、献花とします。