六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【読書】戦後はじめて三光作戦の地に足を踏み入れた女性

2009-06-01 01:38:03 | 想い出を掘り起こす
 現在中国に在住の私の長年の友人が本を出しました。
 戦後六十数年、はじめてその地を訪れた彼女は最初、「鬼が来た」と忌避されます。
 しかし、その地に住みついた彼女に、やがて土地の人々は胸襟を開いて話し始めます。この書はそれらの記録ですが、以下はそれを読んでの私の感想文です。

 未来社・刊で、定価 1,500円プラス税です。
 なお、哲学者、高橋哲哉の推奨で、帯にもコメントしています。
 写真もすばらしく、マスコミを通じてはわからない生の中国の今日が活写されています。


     


生活をともにするなかでほぐれる記憶 
『記憶にであう・・・中国黄土高原 紅棗がみのる村から』  
                  (大野のり子 著・写真)を読む  

 二〇〇三年の秋、もし彼女が乗ったバスが山崩れに遭遇し迂回することがなかったらと、つい考えてしまう。
 そのアクシデントにより彼女は、日中戦争でのあの「三光作戦(殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くす)」の舞台であった土地へ、六十数年ぶりに訪れたはじめての日本人という栄誉(?)を担うことになったからである。戦後、彼女以前にこの土地を訪れた日本人が皆無だったという事実こそがある歴史的な意味をももつのだろうが、いまはそれには触れまい。
 この書は、それを起点として始まった彼女とその土地の住人たちとの交流の記録である。交流といっても生半可なものではない。なぜなら、彼女は意を決して北京からこの地に移住し、文字通りこの土地の人たちと寝食をともにしはじめたからである。
 
 この書を大きく分けると、ひとつには、当初、かつての「鬼」の同族として忌避されたり怖がられた彼女が、そうした人々との垣根を越えてすっかりこの地に馴染みながらその見聞を広げてゆくという、いわば異文化交流的な意味での彼女自身の体験の記録という面をもつ。
 そしていまひとつは、そこで培った関係をもとに、日中戦争経験者である古老たちと面接し、その記憶を掘り起こし、それらの聞きとりを収集した記録としての面である。むろんこの二つは相互に関連している。彼女が土地に馴染めば馴染むほど、かつての宿敵日本人が目の前にいることすら意識することなく、古老たちの記憶の糸がほぐれはじめ、結果として彼女は数々の「記憶にであう」ことができたのである。

 彼女自身の体験の面でいえば、そこには歴史的な和解などという大げさなものとは異なる自然な生活の場での交流があり、そうした生活をともにすることによって彼女自身が目を丸くするような風俗習慣の違いとの遭遇も可能となる。さらには、それにオーバーラップするように、中国の市場経済の加熱に伴う沿岸部と内陸部の格差の広がりと、それを埋めるための人々の生活様式の変化をも垣間見ることになる。それは、素朴としかいいようのない「紅棗がみのる村」にも執拗に迫る避けがたい波なのだ。
 その意味でもこのレポートは貴重で、私たちがその表層をなぞるだけでは覗えない中国の農村部の今日の生態が浮かび上がってくるのだ。

 それにもまして重要なのは、彼女が手を尽くして会いに行き、聞き取った日中戦争時を経験した古老たちの話である。一切の誘導を避け、相手の語るがままに任せたというこのオーラル・ヒストリーともいうべき語りのなかで、あの「三光作戦」の具体的諸相が次々と明らかになる。
 それらは、そこへと従軍した父祖の末裔たる私たちには目を背けたくなるような事実をも含むのだが、しかし、その父祖が口を閉ざして語ろうとしない以上、私たちはその古老たちの記憶を辿ることによって事実の一端に触れるほかはない。
 彼や彼女たちの記憶とのであいとその記録は、この時期とりわけ貴重である。なぜなら、対象となった古老たちは七〇歳代の後半から八〇歳代が圧倒的に多く(最少年齢六九歳、最高年齢一〇一歳)、そのほとんどが無文字の社会を生きてきたこともあり、そこで語られる事実はその記憶のなかにだけ仕舞い込まれてきたものだからである。加えて、その年齢がある。なかには、話をしてくれた後、亡くなった人もいるという。
 
 記憶についていえば、次のような序列や段階が考えられる。
 1)記憶している。2)忘れる。3)忘れていることをも忘れる。4)記憶している者へのアグレッシヴでエキセントリックな告発や攻撃。
 これらがいわゆる歴史修正主義を巡る論争と関連することは見やすい。これらの論争で論議される対象は、イデオロギー的なパースペクティヴからする選択によるものが多く、全くすれ違った論争になることがしばしばである。
 しかし、彼女がここで発掘したこれまでほとんど明らかにされてこなかった体験による記憶は、それらが全く加工を免れてはいないにしても、歴史的出来事のリアルな側面として承認されるべきではないだろうか。

 彼女によれば、中国においても若い世代の歴史認識にはある種の硬直が見られるという。しかし、ここの古老たちはそうではない。
 彼女が訪れたもと八路軍の兵士で、日本兵に片腕を切り落とされたという曹老人との出会いは象徴的である。
 彼は当初、「日本人に話すことはない。写真も撮られたくない」と取りつく島もなく奧へ引っ込むのだが、その老妻が遠路の客への「もてなし」として差し出す紅棗の実を受け取るのをためらっていると、突然、曹老人がふたたび現れて、うむをいわさず彼女の包みにそれを押し入れたというのだ(一四六頁)。彼女はその折り、涙がこみ上げるのを押さえきれなかったという。私もまた、このくだりを読んでジーンとこみ上げるものがあった。このアンビヴァレンツな態度のなかにこそ、彼我の関係の将来にわたる可能性があるようにも思えるのだ。

 こうした場面をも含み、老人たちと触れ合わんばかりにその情感を共有しながら進められる彼女の作業は、それ自身はひとつのレポートに止まるかも知れない。しかし、東アジアにおいての歴史の共有が語られる時、こうした触れ合いの世界、そこから立ち上る「記憶にであう」ことを抜きにしては、そこにはやはり、自らの効率のみに依拠した陣取りゲームとしての相互に引き裂かれた歴史しか残り得ないのではないだろうか。

 最後になったが、彼女自身がシャッターを押した写真がそれぞれいい。自然や風物なども活写されているが、とりわけ老人たちの表情が素敵だ。彼女が名付けた「老天使の微笑み」がそこにはある。一六五頁の老女の満面の笑みはそれを示して余りある。
 「こんな笑顔はもう日本にはないね」という私のメールに、「いや、中国でも都市部ではもう少なくなっている」と彼女からの返事があった。だからこそ、この時期、彼女のこの仕事が貴重なのである。

 なお、「はじめに」と「あとがき」との落差のなかに、とりわけ、「私が日本人であるということは、以前ほど重要なことではなくなってきた」という記述に、これらの作業を通じて彼女自身が到達した境地を覗うことができる。
 同時に、これらの作業は彼女の行程のほんの序章であることを言い添えておこう。

コメント (12)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山椒 益臣氏 モーレンカン... | トップ | 桑の実って食べたことがあり... »
最新の画像もっと見る

12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (どじ応援団長)
2009-06-01 14:22:11
ふゆこさんの本のこと、前のブログに載せて下さって感謝してます。そして、懐かしいエリアンさんの本の、応援を六文銭さんがしてくださるのを、嬉しく思います。エリアンサンには、優しくして頂いた思い出ばかりあるのです。もうずっと前の記憶ですが。パレスチナの作家、ガッサン・カナファーニの
「ファイファに戻りて」という本の話を、させて頂いたこともありました。私も少しは応援したいと、図書館と思ったら、今日は休館日。明日にでも、と思っています。お元気でおられることが、嬉しいです。
返信する
Unknown (大野のり子)
2009-06-01 15:36:01
六文銭さん、ありがとうございます。
私はまだ現物を見てないので、高橋先生の帯の写真も初めてみました。ほんとうに自分の本が出たんだなぁとじわじわと実感がこみあげてきます。今回に限らず、ずっとずっと前から、こうしてみなさんに応援していただいたおかげで、ようやく本にまとめることができました。

ただし、今回の本は、私の現地での“交流”が中心になっていますので、老人たちから聞き取った記憶というのは、文字数からいったら、全体の100分の1にも満たない量です。この本の初版が無事売れたら、いよいよ「証言集」を出してもらえるという出版社の話(出版社だって商売だから)ですので、まだまだこれから頑張らなければなりません。みなさんどうかご協力よろしくお願いします。
返信する
Unknown (大野のり子)
2009-06-01 15:37:50
ひとつだけ付け加えますと、「鬼が来た」と後ろ指を差されたのは、ほんとうに最初のときくらいなんです。もちろんその人の個人的経験の差によっていろいろですが、あとがきにも書いたように「60数年ぶりにやってきた日本人の私に、なぜ罵声のひとつも浴びせないのだろう?」といぶかしく思ったというのが本当なのです。それはなぜなのか?というのが、実は私をこの地に留めさせているもうひとつの理由でもあるのです。過去の日本人への“恨み”よりも、いま、はるばる遠くから尋ねてきた客人を“もてなす”ことのがこの地では大事なことなのだと感じています。

ちなみに、「未来社」「高橋哲哉」などと柄にもないのは、実は私の職場である通信制高校から東大に行った生徒がひとりいて、彼女が高橋先生の講義をとっていたことが縁です。『記憶にであう』というタイトルも先生が付けてくださいました。高橋先生って、ほんと~に“いい人”なんです。あれでは、いろんなとこからの依頼が断れなくて、忙しいだろうなぁ~と思います。
返信する
Unknown (大野のり子)
2009-06-01 15:39:07
>どじ応援団さま
ガッサンカナファーニの話をしてもらった?え~~っ?誰だろ?ちょっと思い浮かぶ人もいるけど‥‥。もう私も還暦過ぎちゃったんで、とにかく自分の「記憶にであう」のがなかなか‥‥。

*すみません、長々と。でもここって、入る文字数少なすぎません?
返信する
Unknown (N響大好き。)
2009-06-01 23:33:10
私は、日本が、過去の侵略戦争の過ちを反省することは当然だと思います。
しかし、今の中国が、若者に対し、極端な反日教育を行っている事実には疑問を感じます。
中国からの留学生と話をしても、チベット問題に対しては、すべからく、独立派の陰謀だ、と、刷り込まれ、国際社会の声を聞こうとしません。
南京事件についての映画での表現は、極端だ、行きすだ、との批判もあるようです。同様に、日韓関係についても、慰安婦、強制連行などについて、客観的な検証が必要だ、との意見もあります。
文化大革命、毛沢東による大躍進政策の失敗により、どれだけの人民が犠牲になたのか、正しく教育がおこなわれているといえるのでしょうか?
私は、中国の皆さんと仲良くしたいと思います。しかし、中国政府の姿勢には大いに疑問を感じています。
返信する
Unknown (大野のり子)
2009-06-02 00:26:03
私も中国政府の姿勢には大いに疑問を感じながら、“国家級貧困地区”に指定されている村で4年間、村人たちと生活を共にしてきました。
“反日教育”の成果も、限られた地域ながら、自分自身の目でつぶさに見ながら、この地の青年や子どもたちとも交流を続けてきました。
その上で、私自身がこれらの問題にどう向き合えばいいのか?私自身に何ができるのか?を、いまも日々模索し続けている途中経過がこの本です。
中国の皆さんと仲良くしたいN響大好き。さんにも、お時間がゆるせば、一度図書館ででも目を通していただければ幸甚です。
返信する
Unknown (六文錢)
2009-06-02 02:25:21
 現在の中国政府のありようを肯定している日本人というのはいないのではないでしょうか。もちろん、大野さんもそうですし、その本を紹介した私もそうです。
 私は、毛沢東が文化大革命をはじめる前から中国には大きな疑問を持っていました。
 時あたかも天安門事件の20周年、その事件に遭遇した中国の青年とも話したことがあります。人権、民族問題、政治形態のありようなど問題は山積しています。

 しかしそのことをもって、過去の日本の侵略の歴史を正当化することは出来ません。また、近隣の強国たるこの国を将来にわたって無視することも出来ません。
 どのように付き合ってゆくのか、それを政府レベルの欲得ずくとは別の次元で、いわばお互いの「ひと」のレベルで考えてゆく必要があると思います。

 その一つの方法が、肌が触れ合うほどの距離で彼我の関係を築いてみることだろうと思います。そうすることによって、私が書評の中に書いたように、政治や歴史の恩讐を越えたレベルでの交流が始まります。
 大野さんの試みはここにあるように思います。

               (字数制限のため次へ)



 
返信する
Unknown (六文錢)
2009-06-02 03:00:02
(承前)大野さんは、歴史や政治について断定はしていません。ただそこに一緒に暮らし、文字を持たない古老の話を聞き続けるのみです。ここには、硬直した歴史教育とも無縁の場が開けます。こうした場こそが相互理解にとって貴重なベースであると思います。

 確かに中国の硬直した反日教育は日本の嫌中思想共々、両者の共通の場を奪っています。しかしその解消は、眼には眼をや一方的な謝罪でもなく、歴史的事実を踏まえた「ひと」レベルでの交流の増進にあると思います。

 大野さんの書から教えられることは、中国を理解するには、日中両政府の儀礼的(で無内容)なやりとりでもなく、投機家の中国市場のみが問題だという(そのためには彼らは簡単に謝ります)面従腹背でもなく、生活レベルでの交流の大切さです。

 ネットで嫌中派の人の言説に遭遇して分からないのは、どうしろというのかということです。戦争でしょうか?それともシカトでしょうか?ともに非現実的ですね。
 私はかつて、非国民はシナへ行けといわれたことがありますが、皮肉なことに中国への批判的な姿勢と内容は、それを宣告した人より遙かに私の方が深いと自負しています。
返信する
Unknown (六文錢)
2009-06-02 03:18:23
>のり子さん
 確かにこの欄の字数制限はうっとおしいですね。
 私自身、長文のコメントはぶった切らねばなりません。
 設定変更が可能かどうか調べてみます。

 お尋ねの「どじ応援団」さんは、私の学生時代からの「マドンナ」です。ご著書に『幻の塔 ― ハウスキ-パ-熊沢光子の場合』や『野いばら咲け ― 井上光晴文学伝習所と私』などがあります。
 前者は、戦前の「左翼」のありようの中で、ひとりの聡明な女性がどのような経過を辿ったのかを、単に書かれた資料によるのみではなく、自分の足で辿った貴重な記録です。
 機会がありましたらご一読を。
返信する
Unknown (只今 )
2009-06-02 11:06:18
小生しばしば、国家とそこに日々暮らす人々とは違う、という極めて当たり前のことを忘れ、その都度、チイッポケではありますが、はずかしさを抱えて俯くのですが、それに輪をかけるのは、幼児の頃、喧嘩に負けそうになると、相手に向かって「チャンコロ」と口走っていた思い出であります。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。