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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【映画】モナはこうして嫁いでいった。

2009-03-08 01:03:29 | 映画評論
 映画『シリアの花嫁』の試写を観た。 

 ゴラン高原が引き裂かれた地であることは知ってはいたものの、その実態はよくは知らなかった。
 1967年の第3次中東戦争以来、それまではシリアの領土であったこの地は、現在イスラエルの実効支配下にある、というより、イスラエルにとっては自分の領土とされている。だからこの地のシリア人たちは、二重国籍といおうか無国籍といおうか、全くもって不安定な状況に置かれている。

 映画はそんな中での、結婚式の一日を描く。
 ゴラン高原に住む娘モナは、シリア本国の男性タレルのもとに嫁ぐこととなるのだが、上に見た状況下でその結婚は、シリア側にいわせれば国内での移動であり(イスラエルの軍事支配下では自由ではないのだが)、イスラエル側から見れば国境を越えた移動なのである。
 物語はそうした捻れと、それをもたらした歴史的背景や現実の政治状況、さらには民族の長老支配の現実などが重なり合って進む。

 そしてそれらは、結婚する二人のみならずその周辺、とりわけ花嫁モナの家族関係を巡る問題に集約されてゆく。このあたりの脚本の運びは、多人数の織りなす物語としてはよくこなれていてそつがない。

        

 こんな風に書いてくると、さぞかしシリアスなお堅い物語であるかのように思われそうだが、お話の推移自体はほとんどどたばた劇なのである。試写会の会場でもしばしば笑い声が起こったりした。本人たちが懸命であることによってその喜劇性が際だつという手順も監督は忘れてはいない。

 ただし、そうしたどたばた劇が終章にいたって、思わずこちらも毅然たらざるような状況と同時に、心温まる情景を描き出す。
 そして、そのときに至って思うのだ。これは確かに閉塞した状況下の物語ではあるが、決して諦めたりその状況を嘆くにとどまらない人たち、常にそれを越えようとする人たちにとっては、そうした状況そのものを逆手にとってこそ前進してゆくことが出来るのだ、と。
 純白な花嫁の決然たる後ろ姿は、決して諦めようとはしない人々の象徴であるかのように凛として美しい。

 それぞれのキャラクターがとてもいい味を出していて、それらの交差によって物語は厚みを増している。
 とりわけ、花嫁に終始付き添うその姉、アマル役のヒアム・アッバスが画面を締めている。中東出身の国際派女優とのこと。
 脚本、プロデュース、そして監督は、エラン・リクリス。

 名古屋地区での上映は、5月上旬、名古屋シネマテークにて。

 
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『歎異抄』って何度読んでも面白い!

2009-03-06 04:13:13 | 現代思想
写真は、建物のものを除いては私の家で咲いている桜です。もともと早咲きのものですが、今年は10日ほど早いようです。

  ===============================

 以下は、若い人たちとの勉強会で、私が報告した『歎異抄』のレジュメです。ただし、私の報告自体が諸般の事情により、わずか10日間のやっつけ仕事で、緻密な論証を欠いたものであったことは否めません。
 
<テーマ>
 『歎異抄』の他力思想と現代における主体概念について
                          
 私の報告は、第一部で「歎異抄」そのものに即してそれを読んでみるという試みと、第二部では、それといわゆる「現代思想」の主体概念との比較検討をするものでした。
 その間に、かなりの付会牽強があることは否定しませんが、私にとってはそれが興味の対象でした。

 

第一部の「歎異抄」そのものの読みは煩雑になるので繰り返しませんが、印象に残った点のみ記します。またそれは、唯円が書いたという後半よりもむしろ親鸞からの聴き語りという前半(第一条~第十条)に留めました。

第一条 阿弥陀仏の本願は現世の善悪を超越している 「歎異抄」を貫くテーマ
第二条 聖者たちは自力で成仏できるかも知れないが凡夫はそうはゆかない
第三条 善悪は宿業によるものであり、むしろ悪人の方が成仏できる
第四条 慈悲の直接性の否定 念仏往生を迂回しての慈悲の達成
第五条 死者の鎮魂慰霊は自力の計らい 縁起という繋がりの中で一切の衆生は父母兄弟姉妹 
第六条 師が弟子をして信心させるのは自力の計らい
第七条 どのように善を積もうが無碍の念仏には及ばない
第八条 行をしたり善をしたりではなく、「わが名を称えよ」という阿弥陀仏の第十八の誓願に応答することこそが必要
第九条 煩悩に満ちた迷妄の捨て難さ それ故凡夫は救われる
第十条 弥陀の本願への応答 人間の思慮を絶した行為  信仰

 
 
 このように簡潔に列記すると分かりにくいのですが、ここには徹底した他力思想があります。同時に、現世の善悪を超越した阿弥陀仏の計らいが強調されています。現世の「存在者」たる私とそれを越えた阿弥陀仏の計らいとしての「存在」のような「存在論的差異」をも連想させるものがあるのです。
 とりわけここにおける主体は、自律した存在として善悪、正邪を決断しうるものとしては決して登場せず、むしろそれを主張する者(例えば聖道門)への徹底的な批判、否定として語られます。
 
 自力で何ごとかをなし得るとするものは、徹底した虚妄として批判されるのですが、それは同時に、主体が他者によって常に既に浸食されたものであること(たとえば宿業)への深い認識によって貫かれていると思います。
 そうした主体=自力のはからいを取り去ったところに残るのは阿弥陀仏への帰依です。それは阿弥陀仏のはからい、それによる「現れ」(いわばアレーテイア、隠れなきもの)への帰依でもあります。

    

第二部はそうした読みにより得られたものと、それと類似の近代以降の主体概念との比較検討に当てました。
 以上の読みは、大きな物語の主人公としての人間という「ヒューマニズム」とは相反するものと考えました。従ってそうしたヒューマニズムの完成(=歴史の終焉)としてのヘーゲル以降に焦点を合わせてみました。ヘーゲルのこうした読みには抵抗があるかも知れませんね。

・私の中の他者1
 マルクス 意識=観念が存在を規定するのではなく、その社会的存在が意識を規定する イデオロギー(主体における他者性)論の基礎

・私の中の他者2
 ニーチェ 疎外論批判と現実の重視 ルサンチマン風自力回帰の否定 偶然を自らの必然性として受容する態度 本質からはみ出るものの許容 ディオニソス礼賛

・私の中の他者3
 フロイト 自意識の解体 心的外傷(トラウマ)を介した自己形成 主体形成への他者の干渉 宿業的因縁 オイディプス重視

・私の中の他者4
 ソシュール 言語の恣意性、不確定性の発見 私が言語を話すのではなく言語が私を話す 言語の中にある払拭し難い他者性

・私の中の他者5
 ハイデガー 現存在(Da-sein)という設定に見られる人間主体からの離脱 アンチ・ヒューマニズム 存在者と存在の存在論的差異 現れ=隠れなきことという真理概念(アレーテイア)

・私の中の他者6
 ミッシェル・フーコー 諸制度などの内面化という「生政治」 パノプティコン(一望監視装置)効果による権力の遍在化

 
 
 などなど。
 これらはすべて、伝統的な主体概念、客体に対して竣立する「吾」の揺らぎを示すものです。そしてその吾の「自力」がしばしば幻想であったり、あるいは、「善をなさんとして悪をなす」ことにもなります。
 
 自力のよって立つ基盤である「正義」や「真理」が「ある特定の時代の、特定の場所における、特定の立場による」ものに過ぎないにもかかわらず、ということはそうした正義や真理への確信自体が他者に浸食されたものであるにもかかわらず、それを振りかざすことには常にある種の暴力が付きまといます。
 
 その極致は、「世界には唯一の真理、唯一の正義があり、しかもそれはわが方にある。従ってその実現のためにはあらゆる犠牲が払われねばならない。要するに、自他共に死を厭わず(自分が死んでもいい、人を殺してもいい)」ということになります。
 これがナチズムやスターリニズムの全体主義や、ある種の原理主義の基本的パターンであることは見やすいところです。

 もちろん、「歎異抄」の他力本願からここへ至るのはいささか付会牽強の恐れがあります。
 「歎異抄」は宗教書として、信仰のあり方を語るものであり、従って凡夫の実世界での実践的な面、労働や経済的活動に触れたものではありません。確かに善悪の彼岸が語られていますが、かといって法からの逸脱を勧めているわけでもありません。

 それに対して、私の後半の考察は、近代そのものが歴史上で現実的に経験した事柄を思想的に総括する中から生まれた主体概念の変遷のようなものを示しています。
 従って、ただ「他力」を力説し「自力」のはからいを排除すれば事足りるというものではありません。それはいわば、単なる相対主義に堕することでしょう。
 ですから、ここから先は、そうした主体概念の歴史を参照しつつ、なおかつ、ある種の公共性のうちで立ち上がるべき主体のありようを具体的に考察することが必要だと思います。

 しかし、それらは私の能力を超えるようです。一応、「歎異抄」の徹底した他力思想に触発された主体概念の検討という入り口でペンを置くほかなさそうです。
 最後にこんな安易なまとめをしてみました。

 

*信仰  世界観、人間観での深い洞察に裏付けられつつも、どこかでファイナル・ボキャブラリーを見出す志向があり、その地点での飛躍を余儀なくされる。弥陀の誓願 あるいは神という絶対者の表象。現代では自然や科学もファイナル・ボキャブラリーとして信仰の対象たり得る。

 *思想  ある種の飛躍を含みつつも、その飛躍自体が論理化されることを要請される。これまで現れた偉大な思想とは、従来の思想との飛躍を論理化し得たもの、語りえない箇所を語るための概念を創出したもの。

 従って、思想を標榜するものでもその飛躍を論証し得ないもの(あるいはそれに相当する概念を生産し得ないもの)は信仰の要素を含むものであり、逆に、信仰であってもある程度飛躍の論証を含むものは思想として吟味されねばならない。親鸞のように・・。
   

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友よ!あと一週間だ!

2009-03-03 03:55:32 | よしなしごと
写真は本文とは関係ありません。私が3月1日に出席したある会合への道筋とそれに関するものです。

  ===============================

 君たちと始めて会ったのは、高校へ入学した前後だから、もう半世紀以上前になる。いろんなことがあり、それぞれがいろんな経験をしたね。
 
 でも高校時代は楽しかった。
 新聞部、歴史研究部、文芸部、演劇部など、気づいてみると結構兼任している奴がいて、合同でキャンプなどに出かけたものだ。君たちと知り合ったのもそうした中でだ。

 
         えらくモダンになった名古屋拘置所
 
 僕に声をかけてきた女の子がいて、僕に好意を持ってくれていたのは間違いないのだが、それ以上何をどうしていいか分からないままでいたら、いつの間にか野球部の奴と肩を並べて歩いてるじゃぁないか。
 まあ、あの頃のうちの野球部は、春夏、甲子園で準優勝というレベルで、一人一人がスターだったから、訳の分からないことをゴチョゴチョいってる僕なんぞはちょっと面白そうだからという寄り道程度だったのだろうな。

 少し(ホントに少しかな?)つらかったけど、それが大学へ行って勉強しようという契機になったのかも知れない。
 それと君たちとの、お互い多少背伸びをした議論が、いろんなことへの僕の好奇心を旺盛にしてくれたともいえる。

 
    その隣にあった旧名古屋地裁・高裁 今は名古屋市市政資料館
           そこで私が出席した会合が行われた


 あ、そうそう。その彼女が今から20年ほど前、N証券という会社のなんとかレディというセールス・ウーマンとして僕の前に現れた話はしたっけ?たぶん、同窓会名簿かなんかを見てのことだろうが、「懐かしいわ」を連発し、僕に絶対損はさせないという何タラカンタラという投資を勧めたのだった。
 僕は、彼女が勧める投資の内容を全く理解できぬまま、「投資というのはよく分かりませんし、また、それを行うつもりもありませんから」と丁重にお引き取り願った。
 誤解しないでくれよ、積年の恋の恨みなんてものじゃぁないんだ。そんなものはとっくに恩讐の彼方さ。僕は本当にそれに興味がなく、彼女の熱心な説明もまるで火星人からの語りかけのように聞いていただけなのだ。
 ただ、「懐かしいわ」を連発する割に、その懐かしさの内容がぼとんどなかったことに一抹の寂しさを感じたことは事実だ。

    
         私の出席した会合はどれでしょう?

 まあ、それやこれやあって、当時、実業学校からは数少なかった進学を選び、土地も離れた僕は、君たちとの間に若干の距離を持つことになったのだが、しかし交流は続いたね。それどころか、不遜にも僕は、君たちの代表で学んでいるようなつもりで、それを君たちにフィードバックすべきだとすら考えたものだ。だからその当時も、勉強会を持ったりしたね。

 それが不遜であったと今いえるのは、僕の方に生活者の感覚が欠けていて、独りよがりで観念的な世界観とそれによる論陣で君たちを煙に巻いていたからだ。今思うと恥ずかしい限りだが、でもそうした形であれ、君たちとの縁を保ってきたことはよかったと思う。君たちは、そうした尊大な僕を、時には痛烈な現実の突きつけなどで批判しながらも、全体としては優しく許容してくれた。

 つかず離れずの関係が続いたが、もう一度お互いに勉強しようという話が持ち上がったのは数年前だろうか。お互いに定年などで第一線を引いてからだろう(Hのようにまだ頑張っているのもいるが・・)。
 無理をせずにスローペースでやって来たその勉強会も今回で10回目を迎えることとなった。で、Uが提案し、その幹事で岐阜市内の某ホテルで一泊し、勉強会と懇親会をという運びになった。あと一週間後だ。

    
              旧裁判所の廊下

 今回の勉強会のテーマは、「100年に一度の危機を検証する」だ。まるで自然災害のように「100年に一度の・・」と語られるこの危機は、僕らが属しているこの後期資本主義がまるで人間にとっての自然条件であるかのように前提されてところから来るのではないかというのが僕の抱いている疑問だ。
 しかし、この危機は決して自然災害のようなものではなく、ある特定のイデオロギーを背景としたきわめて人為的な危機ではあるまいかと思われる。その辺のところをじっくり検証してみようというのが今回のテーマだ。

 僕らは商業学校出だから、簿記やそろばんはお手のものだが、マクロな経済に対してはさして強くない。しかし、敢えて今回はその辺を勉強できればと思う。

 それが終わってからの懇親会も楽しみだ。多少なりとも遠方から来る奴は、今まではゆっくり出来なかった。しかし、今回は違う。親しく盃を重ねて、弊衣破帽の時代に戻り、放歌高唱しようではないか。
 僕は「再会」を歌うぞ。Hよ、お前結構新しがってフォークなど歌うがそれだってもう古いんだぞ。
 それやこれやを含めて、一週間後に会えることを楽しみにしている。

 
          私が出席した会合が行われた部屋
 
 しかし、ここで哀しい知らせがある。長く患っていたNの連れ合いの容態が悪化し、やや危ないとのことで、彼が出てこられないということだ。
 問題提起者に対しいろいろ突っかかってきて、それでもって議論が盛り上がる奴の役割は貴重で、それがいないことは至極残念だが、Nは未だに連れあいに惚れきっているのだから病院に置いて出てこいというわけにはゆかない。
 去年、見舞い旁々、Hと共にN宅を訪れたとき、あんなに喜んでくれたその連れあいがと思うと心痛むものがある。 

 自覚するしないにかかわらず、老いは確実に僕らに迫っている。まさにこれから、いろいろなことが起こるだろう。でも、元気で顔を合わせることが出来る間は、しばし青春の日に還り熱く語りたいものだ。

 世界が僕らを見捨てたとしても、僕らは世界を見捨てないでいたい。




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気分はもう戦争!

2009-03-01 04:04:09 | 想い出を掘り起こす
 友人からの情報によると神奈川県教委は、北のテポドンが着弾した場合、全職員の出勤を通達したようです。
 一方、例の田母神前空幕長は愛知県岡崎市で講演し、拉致問題の解決は北へ武力で攻め込むも辞せずと語っています。

 なんだか戦争ムードが一挙に開花しつつあるようですね。まるで、大量兵器に踊らされたイラク侵攻前のアメリカの様相ですね。
 しかし、笑ってはいられませんよ。それを真剣に考えているひともいるのですから。

 まず、拉致でもテポドンでもなんでもいいから、やらなければやられるという世論を盛り上げ、戦争に突入します。北の些細な挑発行為を取り上げてもいいし、それがなければフレームアップをすればいいのです。

 戦争突入の効果は絶大ですよ。
 まず、凹んでいる景気は、軍需需要の増大で一気に解決します。
 自動車産業も電機産業も、軍事生産に転換し大儲けです。

 内閣支持率も、戦時体制の布陣をひき、挙国一致を訴えれば飛躍的に回復します。
 史上最低のあのブッシュが、9・11の報復を誓った途端、90%の支持を得ました。
 麻生さんも70%ぐらいは行くのではないでしょうか。

 雇用問題も一挙に解決です。
 日本は徴兵制はないので、志願兵や非常時徴兵を行えば、若者は吸収できます。
 それ以前に、余剰労働者は軍事産業に吸収されているでしょう。

 北と日本の軍事力は雲泥の差がありますが、一挙に勝利をして戦争を終結してはなりません。
 ダラダラ、ダラダラと戦局を延ばせば、その分軍需産業は好況を維持できますし、国内体制も変えることが出来ます。

 

 当然、国内では反戦運動が起こるでしょう。
 この非常時に国家にたてつくとは何ごとかと一網打尽にしましょう。
 彼らを取り締まれるよう、法律も整備しましょう。
 治安維持法や防諜法を復活させ、特高警察も全国へ配備しましょう。
 思想、芸術、などの自由な表現はすべて許してはなりません。
 挙国一致に反するものはすべて非国民の為せるものとして取り締まりましょう。
 新聞、雑誌、映画などの表現媒体はすべて検閲制です。

 生っちょろい現行憲法は当然かえましょう。
 まず堂々とした交戦権を得るために9条は廃棄しましょう。
 自衛隊などという湿っぽい名前は廃棄し、大日本国軍としましょう。
 海外派遣(既に既成事実ですが)はもちろん、他国領土への侵攻も合理化しましょう。
 核武装は当然行います。非核三原則などはすべてゴミ箱です。

 あ、教育がありましたね。
 現行の教育基本法はすべて見直し、戦前の教育勅語を参照しながら、戦う小国民を生産する機能を教育に付与しましょう。当然、日本民族の優越性を教え込まねばなりません。

 女性の権限は基本的には維持しますが、愛国婦人会に入会を義務づけます。それに反するジェンダー論などは取り締まりの対象です。

 基本的人権?国家に寄与しないものにはそんなものな不要です。国家のために死ぬことが出来るものこそ国家の要員なのです。

 在日の人たち?
 日本国家の国是を肯定し、それに協力する者のみの在留を認めます。その他は国外退去、あるいは、治安維持などの法規制によって逮捕ないしは処刑です。

 政治も改革しなければなりません。
 野党はすべて解散させます。
 自民党と公明党のみが国が認める政党です。
 政治家を志向するなら、そのどちらかに在籍しなけれがなりません。

 これでもって大日本の基礎は築かれます。
 あとは前世紀の果たされぬ夢だった「大東亜共栄圏」の建設を現実的な課題として追求するのみです。


===============================

 以上はカリカチュアです。
 にもかかわらず、それにはリアルな裏付けがあります。
 前世紀前半の私たちの国は、上に述べたようにまさに機能していたのです。
 そしてそれが、アジアにおける2千万、日本における2百数十万の犠牲を生んだことも事実なのです。

 

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