六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

『歎異抄』って何度読んでも面白い!

2009-03-06 04:13:13 | 現代思想
写真は、建物のものを除いては私の家で咲いている桜です。もともと早咲きのものですが、今年は10日ほど早いようです。

  ===============================

 以下は、若い人たちとの勉強会で、私が報告した『歎異抄』のレジュメです。ただし、私の報告自体が諸般の事情により、わずか10日間のやっつけ仕事で、緻密な論証を欠いたものであったことは否めません。
 
<テーマ>
 『歎異抄』の他力思想と現代における主体概念について
                          
 私の報告は、第一部で「歎異抄」そのものに即してそれを読んでみるという試みと、第二部では、それといわゆる「現代思想」の主体概念との比較検討をするものでした。
 その間に、かなりの付会牽強があることは否定しませんが、私にとってはそれが興味の対象でした。

 

第一部の「歎異抄」そのものの読みは煩雑になるので繰り返しませんが、印象に残った点のみ記します。またそれは、唯円が書いたという後半よりもむしろ親鸞からの聴き語りという前半(第一条~第十条)に留めました。

第一条 阿弥陀仏の本願は現世の善悪を超越している 「歎異抄」を貫くテーマ
第二条 聖者たちは自力で成仏できるかも知れないが凡夫はそうはゆかない
第三条 善悪は宿業によるものであり、むしろ悪人の方が成仏できる
第四条 慈悲の直接性の否定 念仏往生を迂回しての慈悲の達成
第五条 死者の鎮魂慰霊は自力の計らい 縁起という繋がりの中で一切の衆生は父母兄弟姉妹 
第六条 師が弟子をして信心させるのは自力の計らい
第七条 どのように善を積もうが無碍の念仏には及ばない
第八条 行をしたり善をしたりではなく、「わが名を称えよ」という阿弥陀仏の第十八の誓願に応答することこそが必要
第九条 煩悩に満ちた迷妄の捨て難さ それ故凡夫は救われる
第十条 弥陀の本願への応答 人間の思慮を絶した行為  信仰

 
 
 このように簡潔に列記すると分かりにくいのですが、ここには徹底した他力思想があります。同時に、現世の善悪を超越した阿弥陀仏の計らいが強調されています。現世の「存在者」たる私とそれを越えた阿弥陀仏の計らいとしての「存在」のような「存在論的差異」をも連想させるものがあるのです。
 とりわけここにおける主体は、自律した存在として善悪、正邪を決断しうるものとしては決して登場せず、むしろそれを主張する者(例えば聖道門)への徹底的な批判、否定として語られます。
 
 自力で何ごとかをなし得るとするものは、徹底した虚妄として批判されるのですが、それは同時に、主体が他者によって常に既に浸食されたものであること(たとえば宿業)への深い認識によって貫かれていると思います。
 そうした主体=自力のはからいを取り去ったところに残るのは阿弥陀仏への帰依です。それは阿弥陀仏のはからい、それによる「現れ」(いわばアレーテイア、隠れなきもの)への帰依でもあります。

    

第二部はそうした読みにより得られたものと、それと類似の近代以降の主体概念との比較検討に当てました。
 以上の読みは、大きな物語の主人公としての人間という「ヒューマニズム」とは相反するものと考えました。従ってそうしたヒューマニズムの完成(=歴史の終焉)としてのヘーゲル以降に焦点を合わせてみました。ヘーゲルのこうした読みには抵抗があるかも知れませんね。

・私の中の他者1
 マルクス 意識=観念が存在を規定するのではなく、その社会的存在が意識を規定する イデオロギー(主体における他者性)論の基礎

・私の中の他者2
 ニーチェ 疎外論批判と現実の重視 ルサンチマン風自力回帰の否定 偶然を自らの必然性として受容する態度 本質からはみ出るものの許容 ディオニソス礼賛

・私の中の他者3
 フロイト 自意識の解体 心的外傷(トラウマ)を介した自己形成 主体形成への他者の干渉 宿業的因縁 オイディプス重視

・私の中の他者4
 ソシュール 言語の恣意性、不確定性の発見 私が言語を話すのではなく言語が私を話す 言語の中にある払拭し難い他者性

・私の中の他者5
 ハイデガー 現存在(Da-sein)という設定に見られる人間主体からの離脱 アンチ・ヒューマニズム 存在者と存在の存在論的差異 現れ=隠れなきことという真理概念(アレーテイア)

・私の中の他者6
 ミッシェル・フーコー 諸制度などの内面化という「生政治」 パノプティコン(一望監視装置)効果による権力の遍在化

 
 
 などなど。
 これらはすべて、伝統的な主体概念、客体に対して竣立する「吾」の揺らぎを示すものです。そしてその吾の「自力」がしばしば幻想であったり、あるいは、「善をなさんとして悪をなす」ことにもなります。
 
 自力のよって立つ基盤である「正義」や「真理」が「ある特定の時代の、特定の場所における、特定の立場による」ものに過ぎないにもかかわらず、ということはそうした正義や真理への確信自体が他者に浸食されたものであるにもかかわらず、それを振りかざすことには常にある種の暴力が付きまといます。
 
 その極致は、「世界には唯一の真理、唯一の正義があり、しかもそれはわが方にある。従ってその実現のためにはあらゆる犠牲が払われねばならない。要するに、自他共に死を厭わず(自分が死んでもいい、人を殺してもいい)」ということになります。
 これがナチズムやスターリニズムの全体主義や、ある種の原理主義の基本的パターンであることは見やすいところです。

 もちろん、「歎異抄」の他力本願からここへ至るのはいささか付会牽強の恐れがあります。
 「歎異抄」は宗教書として、信仰のあり方を語るものであり、従って凡夫の実世界での実践的な面、労働や経済的活動に触れたものではありません。確かに善悪の彼岸が語られていますが、かといって法からの逸脱を勧めているわけでもありません。

 それに対して、私の後半の考察は、近代そのものが歴史上で現実的に経験した事柄を思想的に総括する中から生まれた主体概念の変遷のようなものを示しています。
 従って、ただ「他力」を力説し「自力」のはからいを排除すれば事足りるというものではありません。それはいわば、単なる相対主義に堕することでしょう。
 ですから、ここから先は、そうした主体概念の歴史を参照しつつ、なおかつ、ある種の公共性のうちで立ち上がるべき主体のありようを具体的に考察することが必要だと思います。

 しかし、それらは私の能力を超えるようです。一応、「歎異抄」の徹底した他力思想に触発された主体概念の検討という入り口でペンを置くほかなさそうです。
 最後にこんな安易なまとめをしてみました。

 

*信仰  世界観、人間観での深い洞察に裏付けられつつも、どこかでファイナル・ボキャブラリーを見出す志向があり、その地点での飛躍を余儀なくされる。弥陀の誓願 あるいは神という絶対者の表象。現代では自然や科学もファイナル・ボキャブラリーとして信仰の対象たり得る。

 *思想  ある種の飛躍を含みつつも、その飛躍自体が論理化されることを要請される。これまで現れた偉大な思想とは、従来の思想との飛躍を論理化し得たもの、語りえない箇所を語るための概念を創出したもの。

 従って、思想を標榜するものでもその飛躍を論証し得ないもの(あるいはそれに相当する概念を生産し得ないもの)は信仰の要素を含むものであり、逆に、信仰であってもある程度飛躍の論証を含むものは思想として吟味されねばならない。親鸞のように・・。
   

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする