縁あって、養老鉄道の広神戸駅から大垣駅までの区間を乗る機会がありました。ゆる~い鉄チャンである私にはプチ幸せな時間でした。
この養老鉄道というのをご存じでしょうか。
沿線や近くの方はもちろんご存じでしょうし、鉄チャンと呼ばれる鉄道マニアの方もご存じでしょう。
この鉄道、その名の示すように孝子伝説で有名な養老の滝近くを養老山脈に添うように走ってるのですが、同時にこの北端の揖斐駅から南端の桑名駅までは揖斐川と並行して走る路線でもあります。
乗車した駅です。読み方はローマ字で表記してあります。
この養老鉄道、2007年の発足とあります。
が、しかし、決して新しい鉄道ではありません。
要するに、それ以前は近鉄の地方路線であった大垣・桑名間の養老線と、大垣・揖斐間の揖斐線とが分離され、(桑名・揖斐間で 57.5km)養老鉄道という別会社に移行されたものなのです。別会社になったといっても近鉄の100%出資ですから、何の為にこうなったかはよく分かりません。
たぶん赤字路線であろうこの路線を予め切り離しておいて、やがては廃線に持ち込もうとするのではないかというのは下司の勘ぐりでしょうか。
無人駅ですからここで整理券をとり、降車駅で精算します。
そういえば、鉄チャンの集まりであるようなネット上の書き込みに、鉄道会社へ就職しようとして趣味の欄に「鉄道マニア」と書いたら有利になると思うのは、トンでも八分、歩いて一五分だと書かれていました。
なぜかというと、そうしたマニアは、会社側がある路線の廃線を決めたり古い車両の引退廃棄をしようとするとき社内から反対の声を上げる可能性があり、それは会社にとっては獅子身中の虫を飼うような事態となるため、かえって採用を見合わせるからだというのです。
鉄チャンたち、なかなか醒めていますね。
静かなホームです。でも、発車間際には数人のひとが・・。
鉄チャンについてちょっとググってみたら、面白い話題がいっぱいあったのですが、またいずれかの機会に譲り、養老鉄道に話を戻しましょう。
わずか二〇分足らずのミニ乗車ではありましたが、しばし心安まるるものでした。早春の田園地帯ののどけきなかををひた走り、都会へと近づくという地方鉄道特有のなにやら健気ともいうべき風情はまた格別です。
単線ですから、対向車両の待ち合わせのためにしばし停車したままでいることもあります。もう少し春めいてきたら、停車中の車内に蝶が舞い込んできそうです。
事実、ローカル線では、蝶や蜻蛉、蝉などが無賃乗車を試みることはしょっちゅうです。
電車が来ました。近鉄時代の車両です。
実は私、戦中戦後の五年間ほど大垣市の郊外で疎開生活をしていたことがあり、この辺には多少の土地勘があるのです。あ、あそこに見えるのは大理石や石灰の採掘をしている金生山だなとか、あ、この川の下流で泳いだことがあるなとかいった具合に半世紀以前の原風景のようなものがつぎつぎと甦って来ました。
終点の大垣に着き、見慣れたJRの車両に乗り換えたとき、なんだか急に現実に引き戻されたような気がしました。
叔母の葬儀の帰途、所用で一足先に座を立つこととなりはからずも乗った電車で、叔母には申し訳ないがとてもいい時間でした。心中、こっそり叔母に詫びると、「いいのよ、六チャン。私もこの電車好きだったから」と叔母が言っているようでした(←都合の良いでっち上げ)。
でも、鉄道って良いなぁ。古稀も過ぎてからいきなり鉄チャンになったら、まわりの顰蹙をかうでしょうか?
終着大垣駅のJRの跨線橋から。
*ウィーンへ行った折り、路面電車に乗りたくてわざわざ二駅分ほど歩き、そこからホテルの前まで乗ったのはいいのですが、二両連結の後部車両には誰もいなくて、どうやって料金を払ったらいいのか分からずまごまごしている私に、まわりの乗客がいいから降りろ降りろというので、そのまま降りました。
完全な無賃乗車です。ウィーンのリングを走る路面電車が赤字になったら、それは私のせいです。
*ここまで読んでくれたひとにもうひとつおまけ。
昔のくだらない話です。
切符を切りに来た車掌に自分の○○○を出して、これがほんとの電車チン。
車掌曰く、「あまりでかいので釣りがない」。
まさに、「男根中心主義」的な話ですね。
よい子の皆さんは、こんなことをしてはいけません。
この養老鉄道というのをご存じでしょうか。
沿線や近くの方はもちろんご存じでしょうし、鉄チャンと呼ばれる鉄道マニアの方もご存じでしょう。
この鉄道、その名の示すように孝子伝説で有名な養老の滝近くを養老山脈に添うように走ってるのですが、同時にこの北端の揖斐駅から南端の桑名駅までは揖斐川と並行して走る路線でもあります。
乗車した駅です。読み方はローマ字で表記してあります。
この養老鉄道、2007年の発足とあります。
が、しかし、決して新しい鉄道ではありません。
要するに、それ以前は近鉄の地方路線であった大垣・桑名間の養老線と、大垣・揖斐間の揖斐線とが分離され、(桑名・揖斐間で 57.5km)養老鉄道という別会社に移行されたものなのです。別会社になったといっても近鉄の100%出資ですから、何の為にこうなったかはよく分かりません。
たぶん赤字路線であろうこの路線を予め切り離しておいて、やがては廃線に持ち込もうとするのではないかというのは下司の勘ぐりでしょうか。
無人駅ですからここで整理券をとり、降車駅で精算します。
そういえば、鉄チャンの集まりであるようなネット上の書き込みに、鉄道会社へ就職しようとして趣味の欄に「鉄道マニア」と書いたら有利になると思うのは、トンでも八分、歩いて一五分だと書かれていました。
なぜかというと、そうしたマニアは、会社側がある路線の廃線を決めたり古い車両の引退廃棄をしようとするとき社内から反対の声を上げる可能性があり、それは会社にとっては獅子身中の虫を飼うような事態となるため、かえって採用を見合わせるからだというのです。
鉄チャンたち、なかなか醒めていますね。
静かなホームです。でも、発車間際には数人のひとが・・。
鉄チャンについてちょっとググってみたら、面白い話題がいっぱいあったのですが、またいずれかの機会に譲り、養老鉄道に話を戻しましょう。
わずか二〇分足らずのミニ乗車ではありましたが、しばし心安まるるものでした。早春の田園地帯ののどけきなかををひた走り、都会へと近づくという地方鉄道特有のなにやら健気ともいうべき風情はまた格別です。
単線ですから、対向車両の待ち合わせのためにしばし停車したままでいることもあります。もう少し春めいてきたら、停車中の車内に蝶が舞い込んできそうです。
事実、ローカル線では、蝶や蜻蛉、蝉などが無賃乗車を試みることはしょっちゅうです。
電車が来ました。近鉄時代の車両です。
実は私、戦中戦後の五年間ほど大垣市の郊外で疎開生活をしていたことがあり、この辺には多少の土地勘があるのです。あ、あそこに見えるのは大理石や石灰の採掘をしている金生山だなとか、あ、この川の下流で泳いだことがあるなとかいった具合に半世紀以前の原風景のようなものがつぎつぎと甦って来ました。
終点の大垣に着き、見慣れたJRの車両に乗り換えたとき、なんだか急に現実に引き戻されたような気がしました。
叔母の葬儀の帰途、所用で一足先に座を立つこととなりはからずも乗った電車で、叔母には申し訳ないがとてもいい時間でした。心中、こっそり叔母に詫びると、「いいのよ、六チャン。私もこの電車好きだったから」と叔母が言っているようでした(←都合の良いでっち上げ)。
でも、鉄道って良いなぁ。古稀も過ぎてからいきなり鉄チャンになったら、まわりの顰蹙をかうでしょうか?
終着大垣駅のJRの跨線橋から。
*ウィーンへ行った折り、路面電車に乗りたくてわざわざ二駅分ほど歩き、そこからホテルの前まで乗ったのはいいのですが、二両連結の後部車両には誰もいなくて、どうやって料金を払ったらいいのか分からずまごまごしている私に、まわりの乗客がいいから降りろ降りろというので、そのまま降りました。
完全な無賃乗車です。ウィーンのリングを走る路面電車が赤字になったら、それは私のせいです。
*ここまで読んでくれたひとにもうひとつおまけ。
昔のくだらない話です。
切符を切りに来た車掌に自分の○○○を出して、これがほんとの電車チン。
車掌曰く、「あまりでかいので釣りがない」。
まさに、「男根中心主義」的な話ですね。
よい子の皆さんは、こんなことをしてはいけません。
沿線の家庭が用意する夕餉の匂いまで入ってくるような路線もありましたね。
>>「動かざる蜂と二駅過ごしたり」
この「二駅」というのが微妙に納得できますね。
1:単線/小学生
授業中、近くの席の女子が突然立ち上がり、下校しました。
家が火事だというのです。
線路に接した藁ぶき屋根の軒先に、
蒸気機関車の煙の火の粉が燃え移ったとのことでした。
2:複線/高校生
一緒に鉄道で帰宅する同級生はいつも同じ方向に席をとりました。
好きな他校の女生徒の屋敷に接して列車が走るからです。
夏などにははその家の座敷の障子が開け放たれています。
こちらの胸もはずんできましたが、彼女の姿はいつもありませんでした。
3:バイパス/社会人
小学校時代の同級生から、家の裏を国道のバイパスが通ると知らせてきました。
数年後、かさ上げされたそのバイパスを通ったとき、彼の家の座敷が見えました。
かって遊びに行ったその家の座敷は防風林を背にした神秘的な空間でした。
いまや明るみに出されたその空間は、見てはいけないもののように思わせます。
昔の交通網は私たちの生活平面上の出来事でしたが、交通の効率化が図られるに従い、それらは地下や高架といった異なる平面に移されました。
今やそれらは、私たちの生活平面を超越した次元を走ります。
そうした経緯を、bbさんのコメントから思い起こしました。
好きな子の住まい周辺にはそれなりのオーラがあって、わざわざ遠回りしてその付近を徘徊したものです。
ある日、それを亡父に見つかり、「お前どうしてあんなところにいたんだ」と問われたときは、返答に困りました。