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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

家路を辿れなくなった人に

2008-04-13 03:01:09 | よしなしごと
 黄昏時、ひとは家路を目指します。
 やれやれと昼の公の仮面を徐々に脱ぎ捨てながら。
 風貌も言葉も姿勢も取り戻さねばなりません。
 そう、朝方に公の表情へと移行した逆の過程を辿るのです。
 真っ直ぐ帰るもよし、しばし寄り道もよし。
 家族に接するも、朋輩に接するも、あるいはひとりでいるも、これからはもう自分の顔。

 しかしその、自分の顔ってのはどれでなんなのでしょう。
 今朝脱ぎ捨ててきた顔?
 割合長い間被り続けてきた顔?
 それらはほんとうに自分の顔なのでしょうか?
 昼間の顔は分かります。
 貨幣と交換できる顔。
 それは労働力商品の包装紙としての価値をもった顔。
 その顔が出来る者のみが貨幣を得、生活が可能になります。

 
 
 それでは、包みを開けて中味を取り出すように、その包装紙を脱ぎ捨てることは出来るのでしょうか?
 脱ぎすてると、「ほんとうの私」が出て来るのでしょうか?

 「ほんとうの私」と思われているものもまた、私に課された、あるいは私自身が課した役割分担なのではないでしょうか?
 みんなに愛されるために、みんなから除外されないために・・。
 私たちは、多かれ少なかれ、世間の鏡に自分を映し出しています。
 こんな風で良いのだろうか、もっとこうした方が・・などと。
 何かをしようとする時、いやそれはまずいとか、そうではなくてこうしなければならないとか、様々なブレーキや調整が働きます。
 それは道徳的規範やイデオロギー的負荷として私というペルソナを作り上げます。

     
 
 しかし、こうして世間の鏡で整えた私は、ほんとうに私でしょうか?
 私は、世間という外部によって作られているのではないでしょうか?
 だとすると私というのは誰でしょうか?
 私は私なのでしょうか?
 私とは私の外部のことなのでしょうか。

 そんなことを考えて毎日家路を辿るわけにはゆきませんよね。
 結局、家へ辿り着けなくなったりしますよね。
 ですから、ここで追及の手を弛めて、ひとまずの結論を出しましょう。
 そうした世間と向き合って、それとのなれ合いや抗争などの関わりの中で、作り上げられるのが自分であると・・。
 どうでしょう。これなら家へ帰れそうですね。
 しかし、上に書いたように、これは「ひとまずの」結論にしか過ぎません。
 私が私であるという事実が、実は圧倒的に外部の干渉によるものでしかないことは私たちがうすうす知ってしまっていることなのですから。

 
 
 それを突き詰めて考えた結果、ある日、ついに家に辿り着けなかったりすることもあるかも知れません。
 その時、そう、家路を失った時、あなたはどこへ行くのでしょうか。
 私たちが鏡とした世間は、それ自身、閉塞的で抑圧的でもあります。
 私たちは、否応なくそこで生きながら、同時にそこで喘いでもいます。
 
 だから、私たちが「私」という檻からいったん外へ出るために、寺山修司は家出を勧めたのです。
 旅をしろ!他なる世界を見ろ!と。

 西日が眩しいですね。







コメント (2)
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