桜が終わったというニュースが聞こえてきます。
ちょっと待った!それは偏見ではないか?というのが今日の話題。
その偏見はどうやら二つの部分から成り立っているようです。
そのひとつは地理的な偏見です。
いうならば「太平洋ベルト地帯重視」の偏見といっても良いでしょう。
さすがにかつてのように、表日本、裏日本という言葉を無神経に使う風習はなくなりましたが、しかし、桜のような季節感のあるものを語る場合、こうした偏見が残っているのではないかということです。
町中の公園の片隅で咲いていた若いしだれ桜
要するに、「表日本」で終わったことはもう終わったことにされかねない偏見です。
本州でも山間部や北陸、東北はこれからでしょう。
かつて、私と一緒に働いていた津軽の人は、「はぁ、やっぱさぐらは、おらほのがえつばんだ」といっていました。
ここもまだまだでしょう。
北海道はもちろんです。
黄色い花を咲かせるウコンという桜。ピンぼけでゴメン。
こうしてみると、桜が終わったのは日本の半分にしか過ぎません。
終わったところのメジャー意識が「終わった」と言わしめているのでしょう。
もうひとつの偏見は、桜の種類に対するものです。
確かに太平洋ベルト地帯では、もう何日か前から散り始め、今降っている雨で終焉を迎えるところも多いでしょう。
しかし、それは桜全般ではなく、ソメイヨシノの終焉にしか過ぎません。
文字通りこぼれんばかりに咲いています。八重桜です。
その後を追うようにして咲く桜も結構多いのです。
もう5月に入って、渓流に釣り糸など垂れていて、ふと目を上げると向かいの山稜に凛として咲く山桜を見つけた時の感動はソメイヨシノ派には分からないのでしょう。
敷島の大和心をひと問はば朝日に匂う山桜花
という本居宣長の歌は、しばしば右翼チックに解釈されるのですが、その本意は、唐心=ある種の本質論の不毛性、現にここにある情動のようなものを一般性に還元してしまう合理論に対する異議申し立てであって、要は、情動的在り方の実存の肯定にあります。
したがって、これを得々として引用する右翼の人たちもそれを誤解しているとしかいいようがありませんが、まあ、字面だけからいうと、彼らが喜んで引用するのは分かります。
でもって、誤解を恐れずにいうならば、私はこの歌自身はちょっと理に偏っていると思うのですが、先程述べた渓流の風景と重ね合わせて、嫌いではありません。
八重桜にもいろいろあるのですが、これはなんでしょうかね。
ちょっと脱線したようですね。
ここに載せた写真は、それぞれソメイヨシノが散り始めた中で、今なお頑張っている桜の様子です。
これは桜ではなくキクモモ(菊桃)
最後の二枚は、桜ではなくキクモモ(菊桃)ですが、あった場所は、名古屋の伏見、白川ホールから日動画廊へ向かう道筋です。
どうやら街路樹にしようとして失敗し二本だけ残ったようで、道路を挟んで対角線上に、互いに競うように咲いていました。
桜が終わったなどと安易にいわないようにしましょう。
ある特定の所では終わった。
ある特定の種類は終わったということなのです。
キクモモの拡大です。
私たちは、よく自分たちの身の回りの事柄をもとにして一般論に陥りがちです。
そんなとき、こう考えてみることも悪くはないでしょう。
「これは、ある特定の時代の、特定の場所での、特定の立場からのみいえることではないか」と。
そして、それが「他者」を理解するための通路なのです。
ちょっと待った!それは偏見ではないか?というのが今日の話題。
その偏見はどうやら二つの部分から成り立っているようです。
そのひとつは地理的な偏見です。
いうならば「太平洋ベルト地帯重視」の偏見といっても良いでしょう。
さすがにかつてのように、表日本、裏日本という言葉を無神経に使う風習はなくなりましたが、しかし、桜のような季節感のあるものを語る場合、こうした偏見が残っているのではないかということです。
町中の公園の片隅で咲いていた若いしだれ桜
要するに、「表日本」で終わったことはもう終わったことにされかねない偏見です。
本州でも山間部や北陸、東北はこれからでしょう。
かつて、私と一緒に働いていた津軽の人は、「はぁ、やっぱさぐらは、おらほのがえつばんだ」といっていました。
ここもまだまだでしょう。
北海道はもちろんです。
黄色い花を咲かせるウコンという桜。ピンぼけでゴメン。
こうしてみると、桜が終わったのは日本の半分にしか過ぎません。
終わったところのメジャー意識が「終わった」と言わしめているのでしょう。
もうひとつの偏見は、桜の種類に対するものです。
確かに太平洋ベルト地帯では、もう何日か前から散り始め、今降っている雨で終焉を迎えるところも多いでしょう。
しかし、それは桜全般ではなく、ソメイヨシノの終焉にしか過ぎません。
文字通りこぼれんばかりに咲いています。八重桜です。
その後を追うようにして咲く桜も結構多いのです。
もう5月に入って、渓流に釣り糸など垂れていて、ふと目を上げると向かいの山稜に凛として咲く山桜を見つけた時の感動はソメイヨシノ派には分からないのでしょう。
敷島の大和心をひと問はば朝日に匂う山桜花
という本居宣長の歌は、しばしば右翼チックに解釈されるのですが、その本意は、唐心=ある種の本質論の不毛性、現にここにある情動のようなものを一般性に還元してしまう合理論に対する異議申し立てであって、要は、情動的在り方の実存の肯定にあります。
したがって、これを得々として引用する右翼の人たちもそれを誤解しているとしかいいようがありませんが、まあ、字面だけからいうと、彼らが喜んで引用するのは分かります。
でもって、誤解を恐れずにいうならば、私はこの歌自身はちょっと理に偏っていると思うのですが、先程述べた渓流の風景と重ね合わせて、嫌いではありません。
八重桜にもいろいろあるのですが、これはなんでしょうかね。
ちょっと脱線したようですね。
ここに載せた写真は、それぞれソメイヨシノが散り始めた中で、今なお頑張っている桜の様子です。
これは桜ではなくキクモモ(菊桃)
最後の二枚は、桜ではなくキクモモ(菊桃)ですが、あった場所は、名古屋の伏見、白川ホールから日動画廊へ向かう道筋です。
どうやら街路樹にしようとして失敗し二本だけ残ったようで、道路を挟んで対角線上に、互いに競うように咲いていました。
桜が終わったなどと安易にいわないようにしましょう。
ある特定の所では終わった。
ある特定の種類は終わったということなのです。
キクモモの拡大です。
私たちは、よく自分たちの身の回りの事柄をもとにして一般論に陥りがちです。
そんなとき、こう考えてみることも悪くはないでしょう。
「これは、ある特定の時代の、特定の場所での、特定の立場からのみいえることではないか」と。
そして、それが「他者」を理解するための通路なのです。
60年代の始め、沖縄返還が国民的な運動になっていました。とりわけ左翼は、反米と沖縄が極東の反共戦線の最大の基地であることを睨み、乗り気でした。
私もさして疑うことなく沖縄返還といっていました。
当時、名古屋城内に、各大学の混成寮のような「名古屋学生会館」というものがありました。そこに沖縄からの留学生(アメリカ占領下ではそうだったのです)赤嶺君という人がいて、親しくなりました。
当時、学生大会などはいくつものスローガンが並べられていましたが、そのうちの「沖縄即時返還」というスローガンを見て、赤嶺君がつぶやきました。
「僕は沖縄独立論者なんだけど・・」
話を聞きました。沖縄処分や自決強要など日本が沖縄を蹂躙し続けてきた話でした。
それ以来、私は沖縄返還を言うのを止めました。
赤嶺君の頼みで、沖縄独立のビラを撒いたこともあります。
彼が直接動いたら、即時に留学生の身分を剥奪されて沖縄へ返送されてしまうからです。
赤嶺君、今はどうしているのだろうか。
無事ご帰還になれたことを素直に喜びたいと思います。
しかし、当時の情報は前線ほど曖昧だったようですね。まあ、戦争とはそんなものでしょうが。
前線にいらっしゃった冠山さんよりも、むしろ私のような銃後の小国民の方が情勢を把握していたかも知れません。沖縄は落ちた、さあ今度は本土決戦だと勇み立っていたのですから・・。
でも、戦中戦後の生き証人のような冠山さんの世代の方が、もっともっと戦争について語って欲しいと思っています。
もう戦争について語れる人たちはほんのわずかです。 小国民だった私も、かなり背伸びをして語っています。