もうこの地区の平野部では、花は終わったといわれる一日、とあるグループと共に、花を追って郡上八幡方面へ向かった。
こちらは、私の父の出身地であり、それだけに私にとっても親近感がある土地である。ちなみに父の在所は、白鳥(しろとり)から油阪峠を越えた福井県側であるが、福井県のどん詰まりということもあって、なぜか岐阜県側にシンパシーを持っていたようだ。
だから父は、高等小学校を卒業後、柳行李ひとつを持って、岐阜の材木屋へ奉公に出たのだろう。
そればかりではない。父の在所のちょっと奥の旧・石徹白村が福井県から岐阜県へと鞍替えして、物議を醸したこともあった。
桜越しに臨む郡上八幡城。この天守閣には、
郡上一揆の唐傘連判状のレプリカが展示されている。
途中、長良河畔の大きな神社で休息していたら、大きなバン二台でどかどかと賑やかにやってきた連中が降りてきた。
聞けば、カヌーの同好会で、ここを起点に長良川を何キロも下るのだそうだ。
「楽しいですよ、やりませんか」とのお言葉。
確かに楽しそうだが、長良川もこの辺ではまだまだ落差の大きい瀬もある。恐そうだ。
しかも連中、装備を終え、着水するや、わざわざカヌーをひっくり返し、水中でくるりと回って起きあがるパフォーマンスを披露してくれた。
こちらの恐怖心はつのる一方だ。
比較的流れの緩やかなところで、ウオーミングアップをした八人は、賑やかに言葉を交わしながら下っていった。
旧八幡町役場の前にある、郡上踊りの歌碑。
「郡上のな~八幡出て行く時は~」で知られる「かわさき」の歌詞。
他にもいろいろな歌があって、郡上節はその総称。
ここも平成の大合併で市になってしまったが
それが似合わないと思うのは都会人のエゴイズムか。
郡上八幡へ着いた。
期待通り、桜は今を盛りに出迎えてくれた。
吉田川。町に大自然が活力を運ぶような流れ。
この街の魅力は水を除いては語れないだろう。町中至る所に疎水が瀬音を立て、人は野菜を洗い、そのすぐ脇を鯉たちが通り過ぎる。
そして、それらの水は吉田川へと至る。
この吉田川は、長良川の一支流であるが、にもかかわらずその下位に甘んじる川ではない。ある意味では、長良川を越える独自の貫禄を示すのだ。
特に八幡の町中あたりを流れる風情がいい。
川が町を縫っているのではなく、町が、そしてそこに生きる人々がこの川に寄り沿っている様子がよく分かる。
64
鯉のぼりを手染めで作る職人さんたち。
マスクの人は花粉症か、それとも職業上の必要事項?
町なかで、手染めの鯉のぼりを作っている職人さんの仕事ぶりを観ることができた。
すごいっ!
いろいろ訊ねたいこともあったが、絵染めに集中している姿を見ると何も訊けない。ただ、「写真を撮らせて下さい」といって了承を得たあとは、ひたすらその仕事ぶりを見る一方であった。
職人さんが、微妙なところに染料を置く時、こちらも息を止めてそれを見つめるのであった。
やがてこれは、吉田川の清流に晒されるのだろう。
裏道のようなあまり交通量のないところを辿ったおかげで、あまり知られることのない桜の巨木に出会えた。
その桜は「善兵衛桜」。樹齢三百年のエドヒガンザクラである。
まだまだ、薄墨の桜ほどの枯れた風情はないが、その代わり生命力に充ち満ちた容貌をしている。
善兵衛さんが植えたのだろうか?その由来を
訊かなかったのが悔やまれる。
とりわけ、そのピンクの花の色があでやかである。
売店のおばさん(この地区の地産品「明方ハム」を売っていた)に、エドヒガンってこんなに赤が強かったですかと訊いたら、「いつも咲き始めはこうなのです。そして、だんだん白くなって、白くなりきって散るのです」と教えてくれた。
なるほど、「花の色は移りにけりな」の謎が解けた思いである。
小野小町の時代にはソメイヨシノはなっかったから、きっとエドヒガンザクラを見てあの歌を詠んだのではあるまいか。
それにしても、「エド」というのがちょっと気にかかるが。
帰り道も、あまり人が往来しない道を選んだ。
そのおかげで、一軒だけぽつんとある秘湯のような温泉地も見つけた。
山里に咲く若木。ポツンと、しかし・・。
わあ~っと固まって咲く桜もきれいだし、固有名がある桜もきれいだが、山の稜線に孤高を誇るかのように咲く山桜も大したもんだし、里山にポツンと咲く桜も侮れない。
もう、数百年も経ったら、それらが門前市を為す巨木となって人々を集めるかもしれないからだ。
もっとも、それまで地球が保って、人々が花を愛でる心情を失わないでいたらということではあるが・・。
こちらは、私の父の出身地であり、それだけに私にとっても親近感がある土地である。ちなみに父の在所は、白鳥(しろとり)から油阪峠を越えた福井県側であるが、福井県のどん詰まりということもあって、なぜか岐阜県側にシンパシーを持っていたようだ。
だから父は、高等小学校を卒業後、柳行李ひとつを持って、岐阜の材木屋へ奉公に出たのだろう。
そればかりではない。父の在所のちょっと奥の旧・石徹白村が福井県から岐阜県へと鞍替えして、物議を醸したこともあった。
桜越しに臨む郡上八幡城。この天守閣には、
郡上一揆の唐傘連判状のレプリカが展示されている。
途中、長良河畔の大きな神社で休息していたら、大きなバン二台でどかどかと賑やかにやってきた連中が降りてきた。
聞けば、カヌーの同好会で、ここを起点に長良川を何キロも下るのだそうだ。
「楽しいですよ、やりませんか」とのお言葉。
確かに楽しそうだが、長良川もこの辺ではまだまだ落差の大きい瀬もある。恐そうだ。
しかも連中、装備を終え、着水するや、わざわざカヌーをひっくり返し、水中でくるりと回って起きあがるパフォーマンスを披露してくれた。
こちらの恐怖心はつのる一方だ。
比較的流れの緩やかなところで、ウオーミングアップをした八人は、賑やかに言葉を交わしながら下っていった。
旧八幡町役場の前にある、郡上踊りの歌碑。
「郡上のな~八幡出て行く時は~」で知られる「かわさき」の歌詞。
他にもいろいろな歌があって、郡上節はその総称。
ここも平成の大合併で市になってしまったが
それが似合わないと思うのは都会人のエゴイズムか。
郡上八幡へ着いた。
期待通り、桜は今を盛りに出迎えてくれた。
吉田川。町に大自然が活力を運ぶような流れ。
この街の魅力は水を除いては語れないだろう。町中至る所に疎水が瀬音を立て、人は野菜を洗い、そのすぐ脇を鯉たちが通り過ぎる。
そして、それらの水は吉田川へと至る。
この吉田川は、長良川の一支流であるが、にもかかわらずその下位に甘んじる川ではない。ある意味では、長良川を越える独自の貫禄を示すのだ。
特に八幡の町中あたりを流れる風情がいい。
川が町を縫っているのではなく、町が、そしてそこに生きる人々がこの川に寄り沿っている様子がよく分かる。
64
鯉のぼりを手染めで作る職人さんたち。
マスクの人は花粉症か、それとも職業上の必要事項?
町なかで、手染めの鯉のぼりを作っている職人さんの仕事ぶりを観ることができた。
すごいっ!
いろいろ訊ねたいこともあったが、絵染めに集中している姿を見ると何も訊けない。ただ、「写真を撮らせて下さい」といって了承を得たあとは、ひたすらその仕事ぶりを見る一方であった。
職人さんが、微妙なところに染料を置く時、こちらも息を止めてそれを見つめるのであった。
やがてこれは、吉田川の清流に晒されるのだろう。
裏道のようなあまり交通量のないところを辿ったおかげで、あまり知られることのない桜の巨木に出会えた。
その桜は「善兵衛桜」。樹齢三百年のエドヒガンザクラである。
まだまだ、薄墨の桜ほどの枯れた風情はないが、その代わり生命力に充ち満ちた容貌をしている。
善兵衛さんが植えたのだろうか?その由来を
訊かなかったのが悔やまれる。
とりわけ、そのピンクの花の色があでやかである。
売店のおばさん(この地区の地産品「明方ハム」を売っていた)に、エドヒガンってこんなに赤が強かったですかと訊いたら、「いつも咲き始めはこうなのです。そして、だんだん白くなって、白くなりきって散るのです」と教えてくれた。
なるほど、「花の色は移りにけりな」の謎が解けた思いである。
小野小町の時代にはソメイヨシノはなっかったから、きっとエドヒガンザクラを見てあの歌を詠んだのではあるまいか。
それにしても、「エド」というのがちょっと気にかかるが。
帰り道も、あまり人が往来しない道を選んだ。
そのおかげで、一軒だけぽつんとある秘湯のような温泉地も見つけた。
山里に咲く若木。ポツンと、しかし・・。
わあ~っと固まって咲く桜もきれいだし、固有名がある桜もきれいだが、山の稜線に孤高を誇るかのように咲く山桜も大したもんだし、里山にポツンと咲く桜も侮れない。
もう、数百年も経ったら、それらが門前市を為す巨木となって人々を集めるかもしれないからだ。
もっとも、それまで地球が保って、人々が花を愛でる心情を失わないでいたらということではあるが・・。