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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

桜が終わった?嘘だろ?

2008-04-10 04:49:11 | よしなしごと
 桜が終わったというニュースが聞こえてきます。
 ちょっと待った!それは偏見ではないか?というのが今日の話題。

 その偏見はどうやら二つの部分から成り立っているようです。
 そのひとつは地理的な偏見です。
 いうならば「太平洋ベルト地帯重視」の偏見といっても良いでしょう。
 さすがにかつてのように、表日本、裏日本という言葉を無神経に使う風習はなくなりましたが、しかし、桜のような季節感のあるものを語る場合、こうした偏見が残っているのではないかということです。

     
        町中の公園の片隅で咲いていた若いしだれ桜    

 要するに、「表日本」で終わったことはもう終わったことにされかねない偏見です。
 本州でも山間部や北陸、東北はこれからでしょう。
 かつて、私と一緒に働いていた津軽の人は、「はぁ、やっぱさぐらは、おらほのがえつばんだ」といっていました。
 ここもまだまだでしょう。
 北海道はもちろんです。

 
    黄色い花を咲かせるウコンという桜。ピンぼけでゴメン。

 こうしてみると、桜が終わったのは日本の半分にしか過ぎません。
 終わったところのメジャー意識が「終わった」と言わしめているのでしょう。

 もうひとつの偏見は、桜の種類に対するものです。
 確かに太平洋ベルト地帯では、もう何日か前から散り始め、今降っている雨で終焉を迎えるところも多いでしょう。
 しかし、それは桜全般ではなく、ソメイヨシノの終焉にしか過ぎません。

 
    文字通りこぼれんばかりに咲いています。八重桜です。

 その後を追うようにして咲く桜も結構多いのです。
 もう5月に入って、渓流に釣り糸など垂れていて、ふと目を上げると向かいの山稜に凛として咲く山桜を見つけた時の感動はソメイヨシノ派には分からないのでしょう。

   敷島の大和心をひと問はば朝日に匂う山桜花

 という本居宣長の歌は、しばしば右翼チックに解釈されるのですが、その本意は、唐心=ある種の本質論の不毛性、現にここにある情動のようなものを一般性に還元してしまう合理論に対する異議申し立てであって、要は、情動的在り方の実存の肯定にあります。

 したがって、これを得々として引用する右翼の人たちもそれを誤解しているとしかいいようがありませんが、まあ、字面だけからいうと、彼らが喜んで引用するのは分かります。
 でもって、誤解を恐れずにいうならば、私はこの歌自身はちょっと理に偏っていると思うのですが、先程述べた渓流の風景と重ね合わせて、嫌いではありません。

 
   八重桜にもいろいろあるのですが、これはなんでしょうかね。

 ちょっと脱線したようですね。
 ここに載せた写真は、それぞれソメイヨシノが散り始めた中で、今なお頑張っている桜の様子です。

 
        これは桜ではなくキクモモ(菊桃)

 最後の二枚は、桜ではなくキクモモ(菊桃)ですが、あった場所は、名古屋の伏見、白川ホールから日動画廊へ向かう道筋です。
 どうやら街路樹にしようとして失敗し二本だけ残ったようで、道路を挟んで対角線上に、互いに競うように咲いていました。

 桜が終わったなどと安易にいわないようにしましょう。
 ある特定の所では終わった。
 ある特定の種類は終わったということなのです。

 
            キクモモの拡大です。

 私たちは、よく自分たちの身の回りの事柄をもとにして一般論に陥りがちです。
 そんなとき、こう考えてみることも悪くはないでしょう。
 「これは、ある特定の時代の、特定の場所での、特定の立場からのみいえることではないか」と。
 そして、それが「他者」を理解するための通路なのです。


コメント (4)
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