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愛の行方【映画】『ショートバス』を観て

2007-09-15 15:43:46 | 映画評論
 いきなり自慰やセックスのシーンから始まるが、ポルノ映画ではない。やはり愛の映画なのだ。

 

 夫婦や家族、世間に飼い慣らされ、すっかり馴染んでしまった場合は別として、ワイルドな愛は悲哀や破滅と無縁ではない
 愛は常に過剰を含むからである。
 相手の余すところなき所有への希求、ないしは、相手への完璧な献身への情熱。時空を越えた一体化の追求。

 それらはしばしば、エコノミーや現実原則を越えることにより常軌を逸する
 『冥土の飛脚』の梅川・忠兵衛をはじめ、近松の心中ものなどはその極致であるし、かの地では、例えば『カルメン』のドン・ホセなど、古今東西の悲劇はまさに愛の過剰によるといってよい。

 

 ならば愛は、夫婦や家族、世間によって飼い慣らされ、その野生のエネルギーによる炎を鎮火させるべきものなのだろうか。エコノミーへの従属のなかで。

 映画『ショートバス』に戻ろう。
 この題名になったクラブに集う人たちは、上に述べたジレンマに悩む人々である。一般的にいえば、常軌を逸しているが、なおその愛を成就したい人たちが出会う場である。

 現実原則に飼い慣らされず、なおかつ成就する愛は可能なのか、それが問われている。

 

 先に、愛は過剰を含むと述べた。それは事実である。先に引いた古今東西での愛の物語も、今日、私たちが道ならぬという形で見聞する(あるいは体験する)愛も、それらは宙吊りにされ、現実への帰還か、あるいは悲劇への突入を待っている

 しかし、ここで立ち止まって、私が先に述べたワイルドで、現実原則を越えるという愛を観てみよう。それらは常に、ある固定した対象にパラノイックに(偏執的に)縛られているのではあるまいか
 誰々への、あるいは何々への愛。

 

 クラブ「ショートバス」は、そうした愛を成就出来ない人々の集いでありながら、それを解いて行く方向をも指し示す。
 それは、愛を「誰々への」とか、「何々への」から解き放ち、一般的な他者への愛、普遍的な愛へと昇華させることである。パラノイック(偏執的)な愛からスキゾフレーニー(奔放)な愛への転回
 しかしこれは、特定の対象への愛を放棄することではない。普遍的な「他者への愛」を経由して、そのうちへと自分が愛する特定の他者を据える試みである。

 
 ここにはある種のコンミューンがある。
 誰かを犠牲にすることで誰かに奉仕する共同体(現実原則によるエコノミックな計算の世界)とは異なるコンミューン。

 私は、この「ショートバス」という限られた場所で実現される愛のコンミューンを肯定する。私も、そして私が愛する者たちもそうであればと思う。
 しかしそれは、あくまでも限られたコンミューンでの話ではないだろうか。

 現実は、まさにそれが現実であることによって現実原則としてのエコノミーの論理に支配され、それをはみ出すものを排除する。
 その時、この「ショートバス」は、それを食い破る地点たり得るだろうか。

 愛は、文字通り真正な革命による真正なコンミューンをを要請するように思われる

 
 
 監督は、前作『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』で評判を呼んだジョン・キャメロン・ミッチェル で、日本映画に例えれば、昨年度の、『メゾン・ド・ヒミコ』に近い雰囲気があるかも・・。

 音楽は多彩でいい
 ニューヨークを俯瞰するイラストもいい味を出している。特に、世界貿易センタービルの跡地を忠実に描いているのは、映画の主題が、いかに現実の「政治」とかけ離れているように見えようが、まさにそれがわれわれの時代、他者の受容が問われている時代のものであることを示している。
 




コメント
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