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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

無常・暴力・六の時事川柳

2007-09-30 14:53:23 | 川柳日記
 今年は夏が長く、その内容も濃かった。
 このままではいつまでも夏が終わらないのではといわれたが、やはり季節はもうである。

 
        九月一日のハナミズキの実

 季節というのは私たちにとって見えない時間の経過だから、それを見るためには定点観測が必要である。
 同じ場所の同じ風景を捕まえれば、昨日こうであったものが、今日はこうではないことが分かる。

 
        九月末日のありよう。同じ樹

 それらは時として、ある種の無常観として詠嘆の対象となる。古来、それを嘆いた言説は多い。ひとはまた、そうした言説へと惹かれる。
 
 しかし、無常こそが常なのである。
 それが時間であり、時間は常が常ならぬ他者に取って代わられるということなのである。
 常ならぬことが私たちのありようだとしたら、常ならぬものを常なるものとして固着しようとするところには必ず暴力が現れる

 
        暴力を排除した在り方とは・?      

 個人であれ、政治であれ、移ろいゆく無常なものをある価値のもとに繋ぎ止めようとするとき、そこには暴力がある。
 ナチズムやスターリニズム、今日のミャンマーのありよう、あるいはあらゆる原理主義が内蔵する時間の他者性への抵抗は、必ず暴力を伴う。

 それらは、あたかも季節を止めることが可能であるかのように振る舞う。
 しかし、季節をとどめ得ないように、時間がもたらす他者性(来るべきもの)に対し、そうした暴力の体系は席を譲らざるをえないであろう。
 私はそうした常ならぬものに対して開かれていたい。
 

<今週の川柳もどき> 07.9.30

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  (集団自決で強制なしとする検定に
   沖縄でで11万人の抗議集会

 軍政を支え続けて二〇年
  (特に、日本と中国)
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  (横領多発、社保庁で現金取り扱い停止

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 ファームではドラ本番はさあどっち
  (二軍は中日優勝、で一軍は)






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