夢をよく見るようになった。
そのほとんどが悪夢である。
この間など、風呂場の戸を開けたら、猪が湯に浸かり、洗い場には馬がいた。
猪は、飛騨の伝統的な人形「さるぼぼ」のように真っ赤にゆだった子供に変身したので、慌てて湯から出して身体を冷ましてやったのだが、なぜかその子は私から身を振りほどこうとするのだ。
こうしたナンセンスなシーンがあって、後段はほとんどの場合、焦燥に駆られることとなる。
単純なことなのに必ず邪魔が入ってそれが出来ない。
いつの間にか私は自分がやっていた店のレジで、会計をしているのだが、途中までレジを打つとそれが誤りであることに気付き、もう一度始めからやり直さねばならなくなる。それが繰り返される。何度やっても巧く行かないのだ。誰かに言葉をかけられ、それに応答してから目を戻すと、計算していた伝票そのものがなくなってしまっている。
懸命に探す。確か私の本棚の何処かに挟んであったと思いつき、部屋へ行く。
すると子どもたちが暴れ回っていて、本は散乱し、どれがどれだかさっぱり分からない。
子供を一人ずつ部屋から出す。もう出し終わったと思うとまた増えている。何と別の出入り口があって、そこから前に出したはずの子や新しい子がドンドン入ってくるのだ。
私はパニックに陥るのだが、どこかで冷静にしなければという抑制や、子供は実は私を試すために何処かから送られてきた連中で、それをぞんざいに扱うと私が傷つくという思いに駆られる。
それが証拠に、子どもたちはコッソリ目配せを交わしているではないか。
そこで私自身が部屋を出ることにする。あっ、そうだ。レジに客を待たせたままだ。
すると子供が入れ替わり立ち替わり現れて通せんぼをするのだ。それを一人ずつ両脇に手を入れて静かに横へよける。
しかし子供は次々と現れる。
ニンマリ笑った子、泣きべそをかきそうな子、憎悪に歯をむき出した子、そしてのっぺらぼう。
それらを一人一人かき分ける。でも、前方を見ると、ずらーっと子どもたちが並んでいる。その中にさっきの「さるぼぼ」がいる。そこへ辿り着かねばと思うのだがままならない。私はただ、群がる子どもたちをかき分けている。
もうこんなのイヤだ。
何でこんな不条理な目に遭わねばならないのだ。
こんな馬鹿げたことは夢に決まっている。
不思議なことに、そう思った途端目が覚めるのだ。
起きあがり、子どもたちがいないのを確かめて小用に立つ。
フロイトに『夢判断』という著作がある。
一通り読んではいるが、遠い昔のことであり詳細は思い起こせない。
ただ、おおざっぱな結論は、「夢とは、日常のなかで超自我(世間の掟、それとの関連で自分のなかで形成された戒律)によって抑圧され排除された欲望や願望が、睡眠時の超自我の抑圧能力の低下によって、意識へと登場したもの」とされる。要するに、夢は抑圧された願望の表出だというわけだ。
しかし、睡眠時の超自我の力が衰えているとはいえ、抑圧された欲望や願望はそのままストレートに表面化されるわけではない。そこには依然として超自我による検閲機能が生きており、従って夢は、ふつうの言葉とは違った夢独特の言葉で表現される。ようするに別の言葉へと変換されているのだ。
従って、それを翻訳すれば夢の解釈が可能になる。しかし、夢の言語を一般化して「夢語辞典」を作ることは不可能である。
夢は、あくまでも個別的だからである。
例えば、夢に出てくる槍や針は男を象徴し、舟や壺は女を象徴すると言われるが、いつの場合でもそうであるわけではない。
ただし、いわゆる俗語やスラング、そして詩的な象徴語などが、かなりの程度に夢の言語と重なっていることが多いのは面白い。例えば、蝶と花などという対比は夢においても男女の対比であることが多い。
これはむしろ、そうしたスラングや象徴語自体が無意識の誘導によってその言葉を選択したのだとも思える。
しかし、この程度の知識によって夢を分析することはほとんど不可能である。
なぜなら、夢はあくまでも個別的であり、先に述べた夢の言語も辞書的に適応できないからだ。
よく、夢のみを取り上げて、夢占いや夢判断をする例がある。しかし、それらのほとんどが眉唾である。
フロイトの夢判断では、夢を見た人の幼少時以来の記憶への遡上(それは本人の意識していない次元にまで及ぶ)、ここしばらくの間に彼または彼女の身の上に起こった諸経験の掌握、などなどを通じて夢見た主体の隠された動機にまで分析が及んだ上で、判読されるものである。
従って、こんな夢を見ましたがどうでしょうというレベルでは判読など不可能なのだ。
といったところで今日の日記は終わりだが、私の目論見は、こうして自分の夢をさらし者にすることによってしばらくは悪夢から逃れられるのではというところにある。
私には、上に述べた専門的な夢の判断は出来ないが、「俗流」夢判断をしないわけではない。
例えば、身をよじらせて私から逃げたあの赤い「さるぼぼ」は、ひょっとしてあなたではないのかとか・・。
*ここまで書いてきて、私の夢になぜ唐突にも「さるぼぼ」が登場したのかについてのある仮説がひらめいた。しかし、あくまでも「俗流」の域を出るものではないので敢えてその内容は書かない。
しかし、俗流とはいえ、ひとつの解釈として可能性がないわけではないと思っている。
そのほとんどが悪夢である。
この間など、風呂場の戸を開けたら、猪が湯に浸かり、洗い場には馬がいた。
猪は、飛騨の伝統的な人形「さるぼぼ」のように真っ赤にゆだった子供に変身したので、慌てて湯から出して身体を冷ましてやったのだが、なぜかその子は私から身を振りほどこうとするのだ。
こうしたナンセンスなシーンがあって、後段はほとんどの場合、焦燥に駆られることとなる。
単純なことなのに必ず邪魔が入ってそれが出来ない。
いつの間にか私は自分がやっていた店のレジで、会計をしているのだが、途中までレジを打つとそれが誤りであることに気付き、もう一度始めからやり直さねばならなくなる。それが繰り返される。何度やっても巧く行かないのだ。誰かに言葉をかけられ、それに応答してから目を戻すと、計算していた伝票そのものがなくなってしまっている。
懸命に探す。確か私の本棚の何処かに挟んであったと思いつき、部屋へ行く。
すると子どもたちが暴れ回っていて、本は散乱し、どれがどれだかさっぱり分からない。
子供を一人ずつ部屋から出す。もう出し終わったと思うとまた増えている。何と別の出入り口があって、そこから前に出したはずの子や新しい子がドンドン入ってくるのだ。
私はパニックに陥るのだが、どこかで冷静にしなければという抑制や、子供は実は私を試すために何処かから送られてきた連中で、それをぞんざいに扱うと私が傷つくという思いに駆られる。
それが証拠に、子どもたちはコッソリ目配せを交わしているではないか。
そこで私自身が部屋を出ることにする。あっ、そうだ。レジに客を待たせたままだ。
すると子供が入れ替わり立ち替わり現れて通せんぼをするのだ。それを一人ずつ両脇に手を入れて静かに横へよける。
しかし子供は次々と現れる。
ニンマリ笑った子、泣きべそをかきそうな子、憎悪に歯をむき出した子、そしてのっぺらぼう。
それらを一人一人かき分ける。でも、前方を見ると、ずらーっと子どもたちが並んでいる。その中にさっきの「さるぼぼ」がいる。そこへ辿り着かねばと思うのだがままならない。私はただ、群がる子どもたちをかき分けている。
もうこんなのイヤだ。
何でこんな不条理な目に遭わねばならないのだ。
こんな馬鹿げたことは夢に決まっている。
不思議なことに、そう思った途端目が覚めるのだ。
起きあがり、子どもたちがいないのを確かめて小用に立つ。
フロイトに『夢判断』という著作がある。
一通り読んではいるが、遠い昔のことであり詳細は思い起こせない。
ただ、おおざっぱな結論は、「夢とは、日常のなかで超自我(世間の掟、それとの関連で自分のなかで形成された戒律)によって抑圧され排除された欲望や願望が、睡眠時の超自我の抑圧能力の低下によって、意識へと登場したもの」とされる。要するに、夢は抑圧された願望の表出だというわけだ。
しかし、睡眠時の超自我の力が衰えているとはいえ、抑圧された欲望や願望はそのままストレートに表面化されるわけではない。そこには依然として超自我による検閲機能が生きており、従って夢は、ふつうの言葉とは違った夢独特の言葉で表現される。ようするに別の言葉へと変換されているのだ。
従って、それを翻訳すれば夢の解釈が可能になる。しかし、夢の言語を一般化して「夢語辞典」を作ることは不可能である。
夢は、あくまでも個別的だからである。
例えば、夢に出てくる槍や針は男を象徴し、舟や壺は女を象徴すると言われるが、いつの場合でもそうであるわけではない。
ただし、いわゆる俗語やスラング、そして詩的な象徴語などが、かなりの程度に夢の言語と重なっていることが多いのは面白い。例えば、蝶と花などという対比は夢においても男女の対比であることが多い。
これはむしろ、そうしたスラングや象徴語自体が無意識の誘導によってその言葉を選択したのだとも思える。
しかし、この程度の知識によって夢を分析することはほとんど不可能である。
なぜなら、夢はあくまでも個別的であり、先に述べた夢の言語も辞書的に適応できないからだ。
よく、夢のみを取り上げて、夢占いや夢判断をする例がある。しかし、それらのほとんどが眉唾である。
フロイトの夢判断では、夢を見た人の幼少時以来の記憶への遡上(それは本人の意識していない次元にまで及ぶ)、ここしばらくの間に彼または彼女の身の上に起こった諸経験の掌握、などなどを通じて夢見た主体の隠された動機にまで分析が及んだ上で、判読されるものである。
従って、こんな夢を見ましたがどうでしょうというレベルでは判読など不可能なのだ。
といったところで今日の日記は終わりだが、私の目論見は、こうして自分の夢をさらし者にすることによってしばらくは悪夢から逃れられるのではというところにある。
私には、上に述べた専門的な夢の判断は出来ないが、「俗流」夢判断をしないわけではない。
例えば、身をよじらせて私から逃げたあの赤い「さるぼぼ」は、ひょっとしてあなたではないのかとか・・。
*ここまで書いてきて、私の夢になぜ唐突にも「さるぼぼ」が登場したのかについてのある仮説がひらめいた。しかし、あくまでも「俗流」の域を出るものではないので敢えてその内容は書かない。
しかし、俗流とはいえ、ひとつの解釈として可能性がないわけではないと思っている。