9月29日(月)~スタートのNHK朝の連続テレビ小説『だんだん』のメイキングを先日放送していましたね。
朝ドラヒロインは通常オーディションで新人を抜擢するのに、今作は最初からオファーキャスティングらしい。96年『ふたりっ子』以来という担当ディレクターさんは、よほど三倉茉奈・佳奈さんを買っていると見えます。
キャスト表にはオーロラ輝子役で、劇中の持ち歌で紅白歌合戦にまで出た河合美智子さんの名前も見える。NHKとしては「夢よもう一度」ってところかな。そんなに成功作、人気作だったのだろうか。朝ドラに限らず、いちばんTVドラマと薄縁な時期だったのでまったくわかりません。
同じ両親の血と、そっくりの容姿を持つがゆえに普通の人とは違った運命模様が展開する双子姉妹の物語…というと今年6月まで放送していた『花衣夢衣』を思い出します。今年はプチ双子ブームなのかな。ザ・たっちはどうしてる。
時間帯的に視聴はウチの高齢家族次第ですが、1週めぐらいはとりあえず見ることになるかな。いまから「“だんだん”ってのはあれか、あのコたちのコンビ名か」「“ダウンタウン”とか“ココリコ”みたいなもんか」等と言っているので先が思いやられるけど。
こちらは『花衣~』の真帆・澪姉妹とは違い、物心つく前に生き別れて互いの存在を知らされず、家族・きょうだいとしての時間を共有しないまま成長した双子のようで、1963年に岩下志麻さん、80年に山口百恵さん主演で映画化もされた川端康成の『古都』にもちょっと似たふしがあります。
再会した姉妹が一緒に歌う喜びを知ってプロ歌手を目指すという展開がややむず痒い。2人の共通の思い出の曲が81年の松田聖子さんのヒット曲『赤いスイートピー』との設定で、これからは頻繁に劇中で歌われることになりそう。こちらも若干胃にもたれるかな。あの頃の松田さんのヒット曲は歌謡曲として佳作・良作揃いなのですが、歌詞の物語性といいメロディックなオカズの多さといい、いまの時代に聞くと甘さも香味も、汁けも過剰。プレバブル期とは言え、本当に夢多き時代だったのだなあ。
NHKとしてはオリジナルの松田聖子さんなり三倉さん姉妹なりが劇中のしつらえで年末の紅白に出られるような流れになれば、わかりやすい万々歳でしょう。
『白と黒』はオーラス前の第63話。この枠でも、この作品だけは刃物振り回しての追っかけ回しはないと思っていたのですが、やっぱり来てしまった。「“いつものこの枠ドラマ”とは、ひと味(だけは)違うはず」と信じて追尾してきた期待はあっさり裏切られたではないか(崩)。
第1部で2度ほど出てきた兄弟フェンシング対戦から倫理や理性を取っ払った“ケダモノ版”と解釈すれば、それほどベタではないか。
聖人(佐藤智仁さん)は刺されたくなくて逃げたのではなく、いずれ章吾(小林且弥さん)の手にかかったとき、救急隊を呼んでも間に合わないように、確実に致命傷になるように森の奥深くまで逃げたのでしょう。
…と思ったら礼子(西原亜希さん)一葉(大村彩子さん)の女性軍、スカートにヒールありサンダルの軽装なのにあっさり追いつき過ぎ。
冒頭このドラマの主題に掲げられた“死を願うほどの愛”が、自分と愛する者との愛の成就のために、邪魔ものの第三者の死を願うという形ではなく、愛する人自身に死んでもらうしか愛を守り、伝達するすべがなくなるという転帰は画期的な昇華形態ではありますが、章吾との“社会的・理性的な愛”に対して聖人とは“情熱のみの愛”で惹き合っているという礼子の内面の燃焼が、特に2部以降(第37話~)どうしてもほとんど感じ取ることができなかった。今日の4人の追いつ追われつの刃傷劇、礼子が土壇場で選んだ行動がもうひとつTVのこちら側に突き刺さって来なかった原因はそれに尽きるでしょう。
30話辺りで、急に倒れ救急搬送された彩乃(小柳ルミ子さん)の病名を知ったときだったか、眠る彩乃を見下ろし茫然とした聖人の背後から、礼子がそっと肘のあたりに手を添える場面がありました。あの頃の礼子は、関わり合っても何もプラスにならないと思える聖人でも、本当に自然に愛しく思い、感情を共有したいという気配があったのに、残念ながら後半はこの静かな波動が持続も高潮もしなかった。後半の聖人は母への援助を拒絶した父の毒殺まで挙行した酷薄な“純黒”としての再登場でしたが、「そんな男でも、いや、だからこそ惹かれてしかたがない」をドラマ上、表現するのはいかにも難題すぎたか。
聖人の“黒さ”を、A115詐欺の企みオンリーではなくもっといろんな角度から照射ショーアップする必要もあったでしょう。現に“白”の章吾のほうは、理想と使命感に生きるだけではなく、「お父さん(山本圭さん)とは違う、学者として自分独自の研究を発展させたい」との野心・功名心を持って沖縄ゲットウ研究所建設に燃え始め、「そのためにはもっとカネが要る」と前がかりになった辺りは1部にはない魅力がありました。
聖人の“黒”も、これでもかと全方位から黒を突き詰めて行けば、「あぁ礼子はこういうところに引っかかりをおぼえるんだな」という納得性も生まれたはず。画才あり、かつ贋作の天才なんてのは実に魅力的なモチーフだったではありませんか。礼子を幼時捨てた母が刺繍か染色の名手という設定にして、礼子が幼い頃見て記憶していたのと寸分違わぬ“作品”を制作して「いろいろ調べて回ったら、あんたのおふくろが昔の住み込み勤め先にこんなものを残していったそうだよ」と礼子に見せたら「あの頃の母さんの作風だわ、好きだった色ばかり…」と涙…なんてね。
少なくとも、2部でほとんど画面に出もしなくなるオルゴール修理させるよりは活きた。あぁもったいない。もったいないオバケが出るぞ。
59話で鑑定を依頼された画商が「贋作ですから無理矢理値付けすれば3~5万、まあ、贋作とわかった上で楽しまれるならそれも結構でしょう」とこってり皮肉たれていましたが、贋作とは、人を偽り欺くという点においては悪ですが、かりそめの幸福・満足をもたらすという点においては善でもあるのです。
真実が殺伐たる、寒々しい空漠ならば、華やかにきらめく充実した虚偽で人を満ち足らしめるのも、贋作師の“黒”“白”両刀の真骨頂と言える。
聖人の贋作技術を、たとえば上記のように変奏させて劇中、披露させておけば、瀕死の重傷を負った聖人が、
「礼子、あん時のアレは、オレが作った真っ赤な贋物さ…この血よりも真っ赤な、ね…」「大事な人の、思い出の手がかりが何もないより、ニセモノでも、この手でつかめて、触って確かめられるものが、ひとつでもあったら…いいだろ?…この手で…」と震える手を、
礼子「死なないで!聖人、あれは贋物なんかじゃなかったわ、私にとっては…あなたがくれたもの、あなたと見た景色、あなたと一緒に過ごした時間…ぜんぶ、ぜんぶ、私にはかけがえのない本物だったわ」と握りしめる…てなシーンも作れたのに。
もちろんこの台詞を2人に言わせるとなると礼子自身が刺したってわけにはいきませんな。約30年生きてきて、やっと初めて憎悪のカタマリとなった“黒ビギナー”の章吾より、“プロの黒”の矢島らの手の者が先回りして…っていうほうがしっくりするでしょうか。
まぁタラレバを言っていてもはじまりません。はじまらないどころか、明日で終わりだし。これまたこの枠でよくある、三ヶ月垂れ流したストーリーの辻褄合わせに終始する(しかも、合わない作のほうが多数)最終話でなく、象徴的によく使われた森の風景同様、風通しのいい読後感のエンドクレジットを期待しましょう。