山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

イラクのサマーワ、山形の富神山

2006-07-01 07:11:00 | 郷土史

    ↑ イラクで撤退作業の自衛隊  
↓ 2万の上杉軍は富神山の麓を迂回して撤退した。本陣は左手の丘陵にあった。

 イラクのサマーワと山形盆地西部のシンボルでピラミッド形状の富神山とはどんな関係があるのか、意外に思われる人も多かろう。
 この地域出身の自衛隊員の中にもイラクに派遣された隊員も居るのかもしれない(近くの東根に自衛隊の駐屯地がある)が、それ以上に406年昔にこの富神山の周囲で繰り広げられた激闘の方が「サマーワ」と大いに関係が深い。
 いよいよサマーワ駐留の自衛隊も撤退作業を始めている。
 テロが荒れ狂うイラクで一人も犠牲者を出さなかったのは嬉しいことである。しかし、一連の軍事的行動の中で「撤退」ほど難しいことはないと言われる。この撤退行動の中で何の不測の事態が起こらないとも限らず、しばらく隊員は大変な緊張を強いられるであろう。
 さて、西暦1600年、山形城攻略を図った米沢の2万の上杉軍は山形城の支城の長谷堂城をめぐる戦いのさ中に関ヶ原の戦いで西軍敗北の報を受けて撤退を始め、富神山の山麓を迂回して白鷹高原経由で退却を進めた。しかし、山形勢の追撃は激しく、上杉軍もかなりの死者を出した(山形側の記録では上杉軍は約1600人が戦死)。
 それでも大半は無事に上杉領内に帰還でき、それゆえ総大将の直江兼続はさすが天下の名将と後世まで称えられ、追撃の山形城主最上義光も感服している。
 なお、最上義光は上杉軍の攻撃を食い止めて撃退した功により57万石の大大名となったが、彼の兜に残る弾痕は追撃戦の際に上杉軍による銃撃の痕だといわれている。

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